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3月17日 聖パトリックの祝日(アイルランド共和国 祝祭日)
3月17日 聖パトリックの祝日(アイルランド共和国 祝祭日)
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聖パトリックの祝日(緑の日) / アイルランドの守護聖人である聖パトリックの聖名祝日。アイルランドの国花・三つ葉のクローバーがシンボルとされているため、この日にシンボルカラーの緑色のものを身につけていると幸せになれると言われている。(3月17日 今日は何の日~毎日が記念日~)
聖パトリックの祝日(せいパトリックのしゅくじつ、英: St Patrick’s Day、セントパトリックス・デー)は、アイルランドにキリスト教を広めた聖人聖パトリックの命日。3月17日。カトリックの祭日であり、アイルランド共和国の祝祭日。シャムロックを服につけたり、ミサを行ったりする。アイルランドでは何世紀も前からこの日を祝う伝統が受け継がれ、正式に1903年より祝日となり、イギリスから独立後、徐々に祭礼日として成長した。1996年には政府が主体となってダブリンで5日間の盛大なフェスティバルとなりパレードやその他の行事が行われた。 アイルランド以外の国 / アメリカ合衆国 / 緑色の物を身につけて祝う日で、「緑の日」とも呼ばれる。 / 日本 / 日本でも「アイルランドを一般の方にもっと知ってもらおう!」を主旨に、アイリッシュ・ネットワーク・ジャパンにより1992年からセント・パトリックス・デイ・パレードが開催されている。東京では原宿表参道をアイルランドのシンボルカラーのグリーンやシンボルの三つ葉のクローバーデザインの衣装、小物を身につけた約1,000名がパレードする。その他、日本各所でパレードやオープンイベントなどが催されている。(聖パトリックの祝日 – Wikipedia)
Saint Patrick’s Day, or the Feast of Saint Patrick (Irish: Lá Fhéile Pádraig, “the Day of the Festival of Patrick”), is a cultural and religious celebration held on 17 March, the traditional death date of Saint Patrick (c. AD 385–461), the foremost patron saint of Ireland. (Saint Patrick’s Day – Wikipedia)
シャムロック(英: shamrock)は、アイルランド語でクローバーの意味のseamairまたは、若い牧草を意味するseamrógを、似た発音で読めるように英語で綴った語である。アイルランドで432年ごろに聖パトリキウス(パトリック)は「シャムロックの葉が3つに分かれているのは「三位一体」を表しているのだ」と説明し、キリスト教の布教に利用した。アメリカや日本では、しばしばシャムロックと四葉のクローバーが混同されることがある。(シャムロック – Wikipedia)
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藁科雅美記念館
- 2018年03月17日(土) 0:05
- カテゴリ: お知らせ, アメリカ, オホーツク, スロパキア, チェコ, ポーランド, 北海道, 国際, 日本, 美幌町, 音楽
- この記事へのコメントは 4 件あります。
日本の音楽評論家「藁科雅美記念館」を開設しました。藁科雅美の関連情報をお寄せください。北海道美幌町の恩人・藁科雅美ご家族の消息と連絡もお願いします。美幌音楽人 加藤雅夫 (連絡先)
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藁科 雅美(わらしな まさみ Masami Warashina、1915年1月15日 – 1993年1月3日)は、日本の音楽評論家。 人物・来歴 / 1915年(大正4年)1月15日に生れる。慶應大学医学部中退。昭和26年から毎日放送の音楽ディレクターとして活躍。著書「レコード音楽大事典」 訳書「バーンスタイン物語」等。日本ショパン協会常任委員。日本チェコスロヴァキア協会顧問。第1回美幌町文化賞受賞。1993年(平成5年)1月3日に死去した。 藁科一家の疎開先は美幌町(昭和20〜26年)。美幌町は鎌倉に移住した藁科雅美さんを介して権威者に町歌作曲を依頼した。 日本の音楽評論家でレコード音楽解説者として東京で活躍されていた藁科雅美ご一家が北海道の道東オホーツク海から30Kmほど内陸に位置する美幌町に疎開したのは73年前の昭和20年(1945年)。 美幌町に来てすぐに英語が話せるからと進駐軍の隊長付き通訳として即日強制徴用。疎開するときに「東京から貨車一台分のSPレコードを運んだ」 「どうして知ったのか配属されて来た学徒の特攻隊員の何人かが訪ねて来てわずかの休憩時間かわるがわるバッハやベートーベンの作品に耳を傾け感謝のまなざしを私に向けて帰隊していった」と藁科雅美は言う。その当時、個人的に英語を教えた生徒に文化人類学者となった山口昌男がいた。 東京でも名の知れていたピアニストで海軍航空隊付属美幌病院医師の筧潤二は美幌小学校講堂でピアノリサイタルを開催し美幌町で藁科雅美と再会する。藁科雅美と筧潤二は慶應大学医学部で共に学んでいる。 国立高等音楽学校(現 国立音楽大学)出身でピアニスト藁科みつゑ夫人は美幌高等女学校で音楽を指導。慶応大学医学部中退の藁科雅美は理科など六教科を教えた。「授業より畑仕事の監督が多く生徒に植物の芽を見て種類を教えてもらった」 昭和21年(1946年) 美幌文化協会創立に尽力し美幌レコード鑑賞会主宰の藁科雅美は音楽部長となる。藁科みつゑ夫人はドンコロ合唱団と漣女性合唱団を指導する。NHK北見放送局から合唱やレコードを放送したり、レコードコンサートではまだレコード会社が復興していない時期だったから自分のSPをかけた。 歓迎されて網走・釧路・旭川・小樽などからも呼ばれた。「そのSPは東京に戻るとき網走の奥谷という網元の息子に引き取ってもらった。その奥谷が後に東京に出るとき自分のコレクションも加えて網走市立図書館に寄贈。図書館によれば昭和43年の寄贈で全部で1113番まで番号が振られているとのことである。聴く人もなしに眠っているようだ」と藁科雅美は語っている。 昭和25年(1950年) 藁科雅美は戦後いち早く「北海道音楽」という北海道全土の音楽を結ぶ報道評論誌を創刊した。日本近代音楽館と北海道立図書館に寄託されている。内容は荒谷正雄・小林健次・伊福部昭・早坂文雄などの地方出身の音楽家、チェロの鈴木聡・バイオリンの巖本真理ら来道音楽家の写真や演奏会評、道内各地の音楽状況報告、新譜紹介、インタビュー、作曲募集など多彩な編集である。第1回美幌町文化賞受賞。 昭和26年(1951年) 藁科雅美と藁科みつゑは戦後 美幌高校と網走南ヶ丘高校の時間嘱託も勤めたが、日本の民間放送局で最も早く放送を始めた新日本放送(毎日放送)東京支社詰めの音楽ディレクターとして同年の秋に美幌町を離町した。「私たち家族にとって終生忘れ難い多数の人々の心暖かい見送りを受けて美幌の町を後にしたのだがその6年間の思い出は絶大である。美幌の豊かな自然の中で私たちの子供がすこやかに育ってくれたことも、それが戦後の混乱期であっただけにことさら感謝したい気持ちである。正直言って美幌時代の私は文化の中心地である東京が忘れられず、もしもここで死んだら遺骨を東京の空からばら散いてほしいと妻に頼んだような欲求不満と焦燥感にさいなまれた。しかし、今の私には冬の寒さが厳しい美幌を第二の故郷と思う懐かしさだけが残っている」 当時36歳の藁科雅美の居住先は神奈川県鎌倉市で近所に37歳の作曲家 早坂文雄と27歳の作曲家團伊玖磨が居た。後に團伊玖磨は東京で病に苦しんでいた21歳の作曲家 武満徹に「空気の良い鎌倉で療養しないか」と自宅を提供して横須賀市に移り住んだ。 昭和27年(1952年) 美幌高校から校歌作曲の依頼を受けた藁科雅美は美幌町に團伊玖磨を紹介した。北海道美幌農業高等学校 校歌作詞は同校数学教諭の川上忠雄、校歌作曲は團伊玖磨。(2018年現在、北海道高等学校唯一の校歌) 昭和28年(1953年) 美幌町から町歌作曲の依頼を受けた藁科雅美は早坂文雄を介して武満徹を紹介した。美幌町 町歌の作詞は美幌郵便局郵便配達員で39歳の大下孝一、町歌作曲は武満徹。(2018年現在、武満徹作曲の美幌町町歌は日本全国自治体唯一の町歌) 藁科雅美から作曲依頼された早坂文雄は病状悪化のため武満徹に「美幌町町歌」そして湯浅譲二に「美幌町病院歌」の作曲を依頼した。当時24歳の湯浅譲二は慶應大学医学部を中退して実験工房の瀧口修造・園田高弘・武満徹らと活動していた。(文責 / 美幌音楽人 加藤雅夫)
音楽評論家(おんがくひょうろんか)とは、音楽についての評論家である。日本の音楽評論家 / クラシック音楽 / 藁科雅美。(音楽評論家 – Wikipedia)
團 伊玖磨(だん いくま、1924年4月7日 – 2001年5月17日)は、日本の作曲家、エッセイスト。日本を代表するクラシック音楽の作曲家の一人である。 逸話 / 北海道美幌町に疎開していた音楽評論家の藁科雅美(毎日放送の音楽ディレクター、訳書「バーンスタイン物語」)が鎌倉市に移住して、すぐ近所に住んでいた團に「美幌農業高校校歌」作曲を依頼した。その後、團は、東京で病に苦しんでいた武満徹(1953年「美幌町町歌」作曲)に自宅を提供して横須賀市に移住した。湯浅譲二 ー 日本の作曲家。美幌病院歌または看護学校歌を作曲した。(伊玖磨 – Wikipedia)
武満 徹(たけみつ とおる、1930年10月8日 – 1996年2月20日)は、日本の作曲家。 デビュー、前衛作曲家への道 / 1953年には北海道美幌町に疎開していた音楽評論家の藁科雅美が病状悪化の早坂文雄を介して委嘱した「美幌町町歌」を作曲している。この間、私生活においては1954年に若山浅香と結婚した。病に苦しんでいた武満夫妻に團伊玖磨は鎌倉市の自宅を提供して横須賀市に移住した。(武満徹 – Wikipedia)
山口 昌男(やまぐち まさお、1931年8月20日 – 2013年3月10日)は、日本の文化人類学者。勲等は瑞宝中綬章。東京外国語大学名誉教授、文化功労者。北海道美幌町出身。
関連人物 / 美幌町時代 / 藁科雅美 Masami Warashina(音楽評論家、訳書・バーンスタイン物語、1950年第1回美幌町文化賞受賞)。戦後、北海道美幌町に疎開中の藁科雅美から英語の個人指導を受ける。藁科雅美はその後(1952年)團伊玖磨に北海道美幌農業高等学校校歌作曲を依頼、(1953年)武満徹に美幌町町歌作曲を依頼する。(山口昌男 – Wikipedia)
美幌町の有名人 / 美幌町ゆかりの有名人 / 藁科雅美 – 音楽評論家、毎日放送音楽ディレクター、訳書「バーンスタイン物語」など。戦後、美幌町に疎開し町民の文化向上に貢献する(1950年第1回美幌町文化賞受賞)。山口昌男に英語を個人指導、團伊玖磨に美幌農業高校校歌作曲を依頼(1952年)、武満徹に美幌町町歌作曲を依頼(1953年)。(美幌町 – Wikipedia)
関連サイト
藁科, 雅美, 1915-1993 – Web NDL Authorities – 国立国会図書館
関連エントリ
日本ショパン協会創立50年/北海道・美幌町ゆかりの藁科雅美 – 美幌音楽人 加藤雅夫
Masami Warashina の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫
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北海道美幌町 美幌峠のレストハウス
- 2018年03月16日(金) 1:14
- カテゴリ: お知らせ, アジア, オホーツク, マカオ, モンゴル, 中国, 北朝鮮, 北海道, 台湾, 国際, 日本, 日本映画, 映画, 東アジア, 東南アジア, 美幌町, 観光, 韓国, 音楽, 香港
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北海道美幌町 美幌峠のレストハウス
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美幌峠レストハウス2階オープニングセレモニーを開催します。昨年12月から進めて参りました、美幌峠レストハウス2階の改修工事が3月中旬に終了予定となっており、リニューアルに伴いオープニングセレモニーを開催いたします。レストハウスは老朽化した部分を改修したほか、新たに「美幌峠のVR映像」、「AR技術による記念撮影コーナー」、「大型スクリーン」、「町の情報を検索できるタブレット」など、情報発信に重点を置き、皆さまに楽しんでいただける空間といたしました。またオープニングセレモニー終了後、美幌観光まちづくり協議会の主催で「観光まちづくりフォーラム」も開催します。リニューアルした美幌峠レストハウスの様々な設備をぜひ体感してください。皆さまのご参加お待ちしております。(美幌峠レストハウス2階オープニングセレモニーを開催します。 | 美幌町)
24日・待望のリニューアルオープン 美幌峠レストハウス2階 / VR雲海など進化 初日はセレモニー、フォーラムも / 改修工事が進められていた美幌峠レストハウス2階が24日(土)、リニューアルオープンする。バーチャルリアリティー(VR、仮想現実)などの技術を生かした映像、記念撮影、情報検索などより現代的な施設に進化。初日は美幌町観光まちづくり協議会主催のフォーラムが施設で開かれる。レストハウス2階は、国の阿寒摩周国立公園への国立公園満喫プロジェクト補助金を受け、昨年12月から改修が行われた。改修後は町内の認証材を使った空間になり、ゴーグルを着用して峠の雲海などに近づく感覚を楽しむVR技術の映像コーナーや、快晴時の峠を背景に記念撮影ができるコーナーが設けられる。55インチ4つ分の大型モニターや、情報検索の多言語対応タブレットも設置される。24日は午後2時からオープニングセレモニー、2時半からフォーラムを開催。首都圏、道央圏で活躍する食空間コーディネーターやヨガインストラクターら4人を講師・パネリストに迎え、講演やディスカッションを行う。参加は無料で、定員は100人。詳しくは美幌商工会議所内の協議会事務局(TEL 0152-73-5251)へ。(浩)(2018年3月14日の記事 経済の伝書鳩)
24日・美幌峠レストハウス2階がオープン 情報発信力を強化 / 美幌町は24日にリニューアルオープンする美幌峠レストハウス2階を16日、報道機関に公開した。リニューアルは平成14年のオープン以来初めて。バーチャルリアリティー(VR、仮想現実)などの技術を活用した映像体験や検索用タブレット端末のコーナーなど情報発信に重点を置いた。新たな2階は町内産のカラマツ認証材を多用。木目とモノトーンの色調を組み合わせ、ナチュラルで落ち着きのある空間にした。VR体験は、ゴーグルを通じて屈斜路湖の雲海映像を見ることができ、鳥になったような感覚を味わえる。記念撮影コーナーは、撮影した人物と峠の風景を合成し、悪天候時などでも記念写真を撮ることができる。タブレットは2台を備え、美幌の観光情報を検索できる。大型モニターには美幌の風景や動植物やイベント情報、緊急時には災害情報も映し出す。24日は午後2時からオープンセレモニー、2時半から美幌町観光まちづくり協議会主催のフォーラムが行われる。フォーラムは参加無料。問い合わせは美幌商工会議所(TEL 0152-73-5251)へ。(浩)(2018年3月20日の記事 経済の伝書鳩)
3月24日にリニューアルオープン 美幌峠レストハウス2階 / 観光まちづくりフォーラムも / 美幌峠レストハウス2階が24日、リニューアルオープンした。セレモニーに続き、観光まちづくりフォーラムが開かれた。リニューアルは約4千万円を投じ、床、壁、天井、トイレを改修し、照明をLED化。55インチ4台を使った大型モニターでの映像・情報提供やバーチャルリアリティー(仮想現実)の技術で映像体験や記念撮影ができるコーナー、美幌の観光情報を検索できるタブレットなど情報発信に力点を置いた。セレモニーには観光関係者約100人が出席。平井雄二副町長があいさつで「観光拠点として、みなさんに楽しんでいただける空間。訪れる多くの人に感動を与えることを願う」と述べた。フォーラムではビジョンスピーチ・コンサルタント(東京)の竹本アイラさんが講演。鳥の鳴き声や木々が揺れる音など美幌で聞くことができる音を例に「都会になく、ここにあるものは何かを考えることで美幌の魅力は増す」と述べた。続いて、竹本さんと美幌商工会議所会頭で美幌町観光まちづくり協議会会長の後藤哲也さんら5人のパネリストがディスカッション。美幌の魅力について後藤さんは「人をひきつける人々の心。力を注げば必ず成功する」と意気込み、札幌の食空間コーディネーター、サチコ・リーさんは「地元の新鮮な野菜を食べるということがかなわない人が都会はたくさんいる。近くの野菜を使えたらどんなに良いか。美幌ではそれができる」と述べた。(浩)(2018年3月27日の記事 経済の伝書鳩)
美幌峠(びほろとうげ)は、北海道網走郡美幌町と川上郡弟子屈町の境にある国道243号の峠。オホーツク総合振興局と釧路総合振興局の境界にもなっている。概要 / 1920年(大正9年)開通。阿寒国立公園内にあり、眼下には日本国内最大の火山湖(カルデラ湖)である屈斜路湖のパノラマが広がっているほか、阿寒の山々が一望できる景勝地でもある。屈斜路湖から吹き上げる風を遮るものがないことから、パラグライダーやハンググライダーなどのスカイスポーツが行われる。周辺 / 峠の頂上部には道の駅ぐるっとパノラマ美幌峠があり、あげいもやクマザサ(熊笹)を使ったメニューなどがある。標高525mの美幌峠展望台は眺望スポットとなっている。美幌峠が登場する作品 / 美空ひばり「美幌峠」(作詞:志賀貢 作曲:岡千秋)美幌峠展望台に歌碑が設置されている。『君の名は』NHK連続テレビ小説にも起用された菊田一夫脚本による作品。『狙った恋の落とし方。』(原題『非誠勿擾』)馮小剛監督による中国映画。(美幌峠 – Wikipedia)
関連サイト
美幌峠からみた屈斜路湖 – インターネット自然研究所 – 生物多様性センター
北海道バリアフリーマップ 道の駅 ぐるっとパノラマ美幌峠(美幌峠レストハウス) | 保健福祉部福祉局地域福祉課
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「君の名は」(第2部)上映会 & 石原まき子 フリートーク ー 美幌音楽人 加藤雅夫
映画 「狙った恋の落とし方。」 (現代中国映画上映会) ー 美幌音楽人 加藤雅夫
北海道で撮影「狙った恋の落とし方。」(中国映画) ー 美幌音楽人 加藤雅夫
志賀貢作品集「美幌峠」「幻の美幌峠」の誕生秘話 ー 美幌音楽人 加藤雅夫
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男子カーリング日本代表 平田洸介選手(北海道北見市の出身)
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北見市民の応援に感謝 男子カーリング日本代表・平田洸介選手 / 北見市役所表敬、辻市長らに報告 平昌五輪で成果は出せた! / 男子カーリング日本代表・SC軽井沢クラブの一員として平昌冬季オリンピックに出場した、平田洸介選手(25、北見北斗高-北見工大大学院修士課程出身)が8日、北見市役所を訪れ、辻直孝市長らに応援への感謝を述べた。2016パシフィックアジアカーリング選手権から同チームに帯同し、優勝。昨春から正式にメンバーになり、リザーブとして対戦チームの情報収集や分析など戦略面で貢献した。チームコーチの柳等日本カーリング協会強化委員長、北見カーリング協会会長とともに訪問した平田選手は「4勝5敗と、目標とするメダルには届かなかったが、1年間やってきた成果は出せた。ここまで来られたのは北見市のおかげ」と礼を述べ、報告した。辻市長は「これからはあなた自身が大きな力となってもらえるよう、できることはしてあげたい。夢がかなうよう、いい仲間と頑張って。応援しています」とねぎらった。これに応え「ホールの問題とかもあるが、ジュニア世代の育成など僕にできることであれば精一杯つとめたい」と平田選手。今月14日から青森市で開かれる第11回全農日本ミックスダブルスカーリング選手権に急きょ出場することが決まったことも発表、「カーリングをもっと知ってもらえるよう挑戦します」と意気込んだ。(寒)(2018年3月12日の2記事 経済の伝書鳩)
関連サイト
カーリング sc軽井沢クラブ – ホーム | Facebook
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3月14日 ホワイトデー 白色情人節
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ホワイトデーは、一般的にバレンタインデーにチョコレート等を貰った男性が、そのお返しとしてキャンディ・マシュマロ・ホワイトチョコレート等のプレゼントを女性へ贈る日とされる。日付は3月14日。ただし、近年(2000年代以降)の日本では「友チョコ」や「自分チョコ」、「義理チョコ」などバレンタインデーの習慣が多様化してきていることから、ホワイトデーにも「友チョコ」や「義理チョコ」のお返しが行われるなど多様化が見られる。ホワイトデーの習慣は日本で生まれ、中華人民共和国や中華民国(台湾)、大韓民国など東アジアの一部でも見られることがある。ヨーロッパやアフリカ、中東や南アメリカ、北アメリカやオセアニアなど世界の殆どの国ではこういった習慣は見られない。(ホワイトデー – Wikipedia)
白色情人節(英语:White Day;日語:ホワイトデー),源於日本,訂於3月14日。日本,通常欲告白的女方會在情人節(2月14日)的時候送禮給心儀的對象,而收到禮物的一方,則會在3月14日回禮並告訴女方自己的心意。南韓、台灣及香港、泰國、菲律賓等地也有类似的跟風習俗。都是3月14日。(白色情人節- 维基百科,自由的百科全书)
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Sculpture in Brass, Hiroaki Kataoka, Kitami Wind Ensemble
スカルプチャ・イン・ブラス 片岡寛晶 北見吹奏楽団
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全日本アンサンブルコンテスト出場 北見吹奏楽団 金管メンバー / 北見吹奏楽団の金管6重奏のメンバーが21日、神奈川県で開かれる第41回全日本アンサンブルコンテスト(職場・一般の部)に出場する。昨年までは8重奏で出場していたが今回、初めて6重奏で大舞台に挑む。6人は限られた練習時間の中で最後の仕上げに励んでいる。
3年連続 6重奏では初「いつも通りの楽しい演奏を」 いざ全国へ / 全日本アンサンブルコンテストは3~8人編成の楽団が練習の成果を競う。中学生から社会人まで4つの部門があり、職場・一般の部には各地区の代表22組が出場する。北見吹奏楽団は1月の北見地区管打楽器個人・アンサンブルコンクールの同部門で金賞を受賞。2月の北海道アンサンブルコンクールでも金賞を受賞し、道内2組の代表のひとつに選ばれた。全日本は3年連続6度目の出場となる。これまでは8重奏で出場していたが、今年は仕事の都合などで2人が欠け、初めて6重奏での出場となる。人数が少ない分、奏者個々の力量が問われるという。曲目は「スカルプチャー・イン・ブラス~金管6重奏のために」(片岡寛晶作曲)。仕事を持つ20~40代のメンバーが限られた練習の中で曲の完成度を高めている。同楽団の団長でチューバを担当する男性は「本番のステージでも、いつも通りの楽しい演奏を」。アンサンブルリーダーでトロンボーン奏者の男性は「初めての6重奏ですが、自分達にできる最高の演奏を披露したい」と意欲を見せる。(柏)(2018年3月9日の記事 経済の伝書鳩)
片岡 寛晶(かたおか ひろあき Hiroaki Kataoka、1983年 – )は日本の作曲家・編曲家、打楽器奏者。 主な作品 / アンサンブル曲 / スカルプチャー・イン・ブラス ~金管6重奏のために。(片岡寛晶 – Wikipedia)
関連サイト
北見吹奏楽団公式ウェブサイト | Kitami Wind Ensemble Web Site
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全日本アンサンブルコンテスト の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫
Kitami Wind Ensemble の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫
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東日本大震災から7年(哀悼の意)
東日本大震災から7年(哀悼の意)
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東北地方を中心に未曾有の被害をもたらした東日本大震災から7年が経とうとしています。3月11日(日)午後2時30分から、国においては「東日本大震災七周年追悼式」が執り行われます。この震災により、犠牲になられたすべての方々に対して哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りするため、3月11日(日)午後2時46分から1分間の黙とうを捧げていただきますよう、町民の皆様のご協力をお願いいたします。(当日は、地震発生の午後2時46分に消防サイレンを吹鳴いたします)(東日本大震災七周年追悼式(3月11日)の当日における黙とうについて | 美幌町)
東日本大震災(ひがしにほんだいしんさい)は、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による災害およびこれに伴う福島第一原子力発電所事故による災害である。大規模な地震災害であることから大震災と呼称される。発生した日付から3.11(さんてんいちいち)、311(さんいちいち)と称することもある。(東日本大震災 – Wikipedia)
北見藤高で東日本大震災追悼集会 被災地ボランティア報告や黙祷など / 東日本大震災の追悼集会が9日、北見藤女子高校で開かれた。生徒が被災地に黙祷と祈りを捧げた。同校では2012年から毎年、3月11日に合わせて追悼集会を実施。2013年からは学園祭バザーの収益金の助成で希望する生徒が被災地ボランティアに参加している。今年1月に4日間宮城県を訪れた2年女子生徒3人が、南三陸町などでのボランティアの様子を写真を交えながら紹介した。3人は農業・漁業の作業を手伝ったほか、多くの児童や教職員が津波で犠牲になった大川小学校跡地なども訪問。7年たった今でも仮設住宅で暮らす人達がいる状況などを説明し「私達一人ひとりが震災を忘れないことが大切」「この体験はつらいところもあったが、今後忘れられない大切な思い出になった」などと発表した。生徒達は真剣な表情で3人の話に聞き入り、被災地を思いながら祈った。(菊)(
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東日本大震災 前震 (2011年3月9日、午前11時45分) ー 美幌音楽人 加藤雅夫
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金子 みすゞの忌日と金子みすゞの小惑星について
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金子みすゞ忌 / 童謡詩人、金子みすゞの1930(昭和5)年の忌日。西条八十から「若き童謡詩人中の巨星」と称えられたが、結婚後夫から詩作を禁じられ、夫から病をうつされた末、自ら命を絶った。(3月10日 今日は何の日~毎日が記念日~)
金子 みすゞ(かねこ みすず Misuzu Kaneko、1903年(明治36年)4月11日 – 1930年(昭和5年)3月10日)は、大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した日本の童謡詩人。本名、金子 テル(かねこ テル)。大正末期から昭和初期にかけて、26歳で死去するまでに500余編もの詩を綴ったとされる。1923年(大正12年)9月に『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星』の4誌に一斉に詩が掲載され、西條八十からは「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛された。 作品 / 代表作には「私と小鳥と鈴と」や「大漁」などがある。仙崎は古くから捕鯨で成り立っていた漁師の村であった。鯨に対する畏敬の念から鯨墓が存在する。金子みすゞは鯨の供養のために、鯨法会をする地域の慣わしに感銘し「鯨法会」という作品を書いている。自然とともに生き、小さないのちを慈しむ思い、いのちなきものへの優しいまなざしが、金子みすゞの詩集の原点とも言われ、「お魚」「大漁」などに繋がっている。 音楽化と詩の広まり / みすゞの詩は元々曲をつけられることを想定したものではなかったが、詩作への評価の広まりと共に、童謡・歌曲・合唱曲として中田喜直、池辺晋一郎、吉岡しげ美、 李政美、沢知恵、野田淳子、石若雅弥を初めとする作曲家や歌手によって広く作曲されている。西村直記、大西進のように、全ての詩に付曲した者もいる。2006年12月には「私と小鳥と鈴と」の詩に、作曲家の杉本竜一が曲を作り、テノール歌手新垣勉がアルバム「日本を歌う」内で発表している。この楽曲は、その年のNHK「みんなのうた」でも放送された。みすゞと同郷の歌手ちひろは、金子みすゞの詩の50編近くに作曲し歌っており、2004年から2010年の間に、1stCDアルバム『わたしと小鳥とすずと』、2nd『星とたんぽぽ』、3rd『大漁』、4th『花のたましい』、ベストアルバム『私と小鳥と鈴と』と『明るいほうへ』をリリースしている。(金子みすゞ – Wikipedia)
金子みすゞ(かねこみすず、100309 Misuzukaneko)は小惑星帯の小惑星。愛媛県久万高原町の久万高原天体観測館で中村彰正が発見した。大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した童謡詩人金子みすゞから命名された。(金子みすゞ (小惑星) – Wikipedia)
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友の遺志を継ぐ 16年目で200回目の寄付
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北見市社協に200回目の寄付 北見・男性(87) / 亡くなった親友の遺志を継いで平成14年9月から毎月、北見市社会福祉協議会への寄付を続けている市内の男性(87)の寄付の回数が、1日で200回になった。寄付の総額は103万円に。寄付のため市総合福祉会館を訪れ、市社協の佐藤周一会長から感謝状を受けた男性は「今後もできる限り寄付を続けます」と決意を新たにした。
友の遺志継ぎ… 毎月欠かさず16年目で「今後もできる限り続けたい」 / 親友は、市社協でリフト付きバスの運転手のボランティアをしていた故・玉田好弘さん。玉田さんはボランティアをしながら毎月、市社協に寄付を続け、亡くなる平成14年6月まで114回寄付した。男性は、ボランティアと寄付を続けた玉田さんに感動。「寄付を引き継ぎたい」と申し出た。市社協の休日とぶつからなければ決まって毎月1日、市総合福祉会館を訪れ、5千円を寄付。自身のお祝い事などがあった時には、これとは別に寄付を行った。また、都合が悪くて同館に行けないことが事前に分かっている時には「来月の分も」と2回分を託し、16年目を迎えた今年3月分で寄付回数が200回となった。100回目、丸10年、玉田さんの回数を超える115回目などの節目を超えて迎えた大台。男性は「寄付に訪れるたびに職員の皆さんから声掛けしていただき、来るのが楽しくなっていました。200回を達成できたのは、皆さんのおかげです」と笑顔を浮かべた。佐藤会長は「男性の顔を見て、1カ月が始まる。職員はそう思っていますよ」と、毎月欠かさず寄付に訪れる男性をたたえ、感謝を述べた。男性は「今後もできる限り続けます」と応えた。寄付金は地域福祉のために活用される。(匡)(2018年3月8日の記事 経済の伝書鳩)
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今日(3月6日)は 香淳皇后のお誕生日です
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香淳皇后(こうじゅんこうごう、1903年(明治36年)3月6日 – 2000年(平成12年)6月16日)は、昭和天皇の皇后。今上天皇の実母。名は良子(ながこ)、久邇宮家出身で、皇后となる以前の身位は女王。歴代皇后の中で最長寿である(満97歳没)。(香淳皇后 – Wikipedia)
地久節(ちきゅうせつ)は、昭和時代の第二次世界大戦までの祝日の一つで、皇后の誕生日を祝う日。天皇誕生日(天長節)と異なり、国の祝祭日として勅令で定められることはなかったが、女子校などにおいて天長節に準じた扱いで祝いの儀式が行われた。1931年(昭和6年)の大日本連合婦人会の結成とともに、地久節が母の日に定められ、戦前昭和期を通じて祝われた。1948年(昭和23年)7月に、地久節は皇后誕生日に改称された。(地久節 – Wikipedia)
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