- Home
- 山口昌男 の検索結果
山口昌男 の検索結果: 24 件
文化の日 山口昌男さんに寄せる
文化の日 山口昌男さんに寄せる
日本の文化人類学者 山口昌男さんとお話ししたのは美幌町歌作曲の武満徹さんが亡くなった時でした。大変に驚かれていました。(美幌音楽人加藤雅夫)
その後、お会いしたのは中華人民共和国成立50周年記念祝賀会の時でした。日本の文化人類学の学者とは思えないほど気さくで親しみを感じました。(美幌音楽人加藤雅夫)
関連記事
山口昌男 / 山口 昌男(やまぐち まさお、1931年8月20日 – 2013年3月10日)は、日本の教育者、文化人類学者。位階は正四位。勲等は瑞宝中綬章。東京外国語大学名誉教授、文化功労者。麻布中学校教諭、イバダン大学講師、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所教授、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所所長、静岡県立大学国際関係学部教授、札幌大学文化学部教授、札幌大学文化学部学部長、札幌大学学長などを歴任した。 1984年から1994年まで磯崎新、大江健三郎、大岡信、武満徹、中村雄二郎と共に学術季刊誌『へるめす』(途中から隔月刊、岩波書店)の編集同人として活躍した。 NHK美術監督の山口類児は長男。札幌大学女子短期大学部教授の山口拓夢は次男。 美幌町時代 / 藁科雅美 Masami Warashina(音楽評論家、訳書・バーンスタイン物語、1950年第1回美幌町文化賞受賞)。戦後、北海道美幌町に疎開中の藁科雅美から英語の個人指導を受ける。藁科雅美はその後(1952年)團伊玖磨に北海道美幌農業高等学校校歌作曲を依頼、(1953年)武満徹に美幌町町歌作曲を依頼する。 (Wikipedia)
関連サイト
関連エントリー
日本ボーイスカウト美幌第1団の指導者 宇都宮観周さん
日本ボーイスカウト美幌第1団の指導者 宇都宮観周さん
美幌大谷幼稚園園長で観照寺前住職の宇都宮観周さんが死去した。宇都宮観周さんは、1959年(昭和34年)10月1日から発足した日本ボーイスカウト美幌第1団の初代のリーダー(隊長)だった。昭和46年頃、宇都宮観周さんから「日本ボーイスカウト美幌第1団のリーダーを引き継いでほしい」と言われた。私は「健康上の事情で無理です」と言った。その後、宇都宮観周さんと出会うたびに私の心が痛んだ。宇都宮観周さん、安らかにお眠りください 合掌。
動画は、1962年(昭和37年)に静岡県御殿場市・東富士演習場滝ヶ原駐屯地で開催された第3回日本ジャンボリー (アジアジャンボリー) 。日本ボーイスカウト美幌第1団が参加し、当時の明仁皇太子殿下 (上皇)と美智子妃殿下 (上皇后) に謁見行進した。
関連エントリ
日本の人類学者 – 山口昌男(Masao Yamaguchi)
Twitter ツイッター
Facebook フェイスブック
北海道の美幌町にゆかりのある著名人を探しています
北海道の美幌町にゆかりのある著名人を探しています
関連記事
美幌ゆかりの著名人教えて 2020/02/05掲載(美幌町/告知) 町が情報収集 / まちづくりにつなげる狙い / 美幌町は、美幌にゆかりがある著名人を探している。まちづくりの推進につなげる狙いで、情報提供を呼びかけている。さまざまな分野で活躍している著名人を美幌町の「人財バンク」として登録し、今後のまちづくりに役立てる狙い。現在までに、スポーツや医療、放送、産業・経済、美術・音楽など各分野の著名人60人以上をリストアップしているが、情報提供を呼びかけてさらにバンクを充実させたい考え。町は「たとえば講演会の講師など、さまざまな場面でお力を借りられたら。『こんな人を知っている』『身内がこんなことをしている』などの情報があれば寄せてほしい」と呼びかけている。問い合わせは美幌町政策担当(0152・73・1111内線299)へ。(浩) (オホーツクの日刊フリーペーパー経済の伝書鳩
美幌町にゆかりのある著名人を探しています / 美幌町では、幅広くまちづくりの推進につなげることを目的として、本町にゆかりのある様々な分野でご活躍されている方々の名簿を作成しています。なお、ご活躍の基準などはありませんので、「こんな方を知っている」、「身内がこんな活躍をしている」などいらっしゃいましたら、下記担当までご連絡ください。お問い合わせ / まちづくりグループ 政策担当 電話:0152-73-1111 (美幌町にゆかりのある著名人を探しています – 美幌町のホームページ)
美幌町 日本の北海道の町 / 美幌町(びほろちょう)は、北海道オホーツク総合振興局管内にある町。概要 / 町名にはアイヌ語と「ピポロ」〔石・多い〕あるいは「ペホロ」〔水・多い〕の二説があり、特定しがたいとされる[3]。 陸上自衛隊の駐屯地があり、自然が豊かで降雪や災害が少なく、空港が近いことから道外からの移住者が多いのが特徴。美幌町の有名人 / 美幌町出身の有名人 / 伊藤博明 – 文学者、専修大学教授(元・埼玉大学副学長)。高山梨沙 – スピードスケート選手。2008年(平成20年)にISUワールドカップ日本代表として中学生としては史上初めて選出された。阿部由香里 – 長野オリンピックのバイアスロン選手。久保恒造のコーチ。久保恒造 – 障害者ノルディックスキー選手。2010バンクーバーパラリンピック日本代表。2009ワールドカップ大会カナダ大会バイアスロン ショート2位。2008ジャパンパラリンピッククロスカントリースキー競技大会初出場初優勝。株式会社日立ソリューションズ所属。美幌町「栄誉賞」(2回)「特別栄誉賞」(1回)受賞。ソチパラリンピック・バイアスロン競技で銅メダル獲得。石田正子 – クロスカントリースキー選手。バンクーバーオリンピック・トリノオリンピック・ソチオリンピック日本代表。2009年ワールドカップトロンハイム大会・女子30kmクラシカル3位。JR北海道所属。美幌町「栄誉賞」「特別栄誉賞」受賞。佃咲江 – 北京オリンピック日本代表選手(自転車競技女子スプリント)。美幌町「栄誉賞」受賞。鈴木李奈 – ソチオリンピック日本代表選手(バイアスロン)。美幌町「栄誉賞」受賞。藤村祥子 – ソチオリンピック日本代表選手(スピードスケート)。美幌町「栄誉賞」受賞。北の富士勝昭 – 力士(第52代横綱) 木村章司 – ボクサー 美幌町「栄誉賞」受賞。岡沢吉夫 – スキー選手、陸上選手、八王子市議会議員、全日本スキー連盟理事。日本初の常設スキー学校開設者、全日本スキー連盟(SAJ)公認スキー学校の起案者。鶴丸俊明 – 考古学者、札幌学院大学学長 。山口昌男 – 文化人類学者、元札幌大学学長。戦後、美幌町に疎開中の藁科雅美(音楽評論家、1950年第1回美幌町文化賞受賞)から英語の個人指導を受ける。内藤克 -北海道放送アナウンサー。Sepia’n Roses – ミュージシャン(メンバー4人中3人が美幌町出身)。松本亨 – 英語教育家、改革派教会教職。戦前に14年間アメリカに留学し、戦後NHKラジオ第2「英語会話」の講師を22年間務めた。美幌町ゆかりの有名人 / 円舘金 – 美幌町在住の天文学愛好家(小惑星ハンター)。岩手県岩泉町出身。藁科雅美 – 音楽評論家、毎日放送音楽ディレクター、訳書「バーンスタイン物語」など。戦後、美幌町に疎開し町民の文化向上に貢献する(1950年第1回美幌町文化賞受賞)。山口昌男に英語を個人指導、團伊玖磨に美幌農業高校校歌作曲を依頼(1952年)、武満徹に美幌町町歌作曲を依頼(1953年)。美ち奴(みちやっこ、本名:久保染子) – 日本の女性歌手、1937年美幌開基五十年を記念して制定された「美幌小唄 (作詞:大塚郷湖、作曲:須藤五郎)」を歌い、また、美幌観光協会の依頼により「美幌観光音頭 (作詞:大塚郷湖、作曲:松田喜一、唄:美ち奴)」は、帝蓄レコード(テイチクレコード)でレコード化された。宮嶋龍雄-小樽出身1954・1955冬季国体スキージャンプで優勝、兄は1936独ガルミッシュ・パルテンキルフェンオリンピックの日本代表宮嶋巌。クッシーブームの時には観光課長を務める。須藤五郎 ー 日本の音楽家。開基50年記念歌 美幌町町歌 ー 1937年(昭和12年)制定、作詞 大塚郷湖、作曲 須藤五郎、歌手 塩まさる。開基50年記念歌 美幌小唄 ー 1937年(昭和12年)制定、作詞 大塚郷湖、作曲 須藤五郎、歌手 美ち奴。湯浅譲二 ー 日本の作曲家。美幌病院歌または看護学校歌を作曲した。その他 / 名古屋市東山動物園と交流がある。同動物園で飼育されていた世界最長寿のヒグマ「美幌」(1985年、38歳没)による縁。1990年(平成2年)2月28日に円舘金が発見した小惑星4460は、発見者によって「びほろ(美幌)」と命名されている。 (美幌町 – Wikipedia)
関連サイト
美幌町 びほろちょう Bihoro Town – 美幌町のホームページ
関連エントリ
時を訪ねて クッシー伝説 (北海道新聞) – 美幌音楽人 加藤雅夫
日本の歌手 田中星児 (ネッシーとクッシーの歌) – 美幌音楽人 加藤雅夫
日本の女性歌手 浦部雅美 (北海道 美幌町出身) – 美幌音楽人 加藤雅夫
ツイッター (Twitter)
フェイスブック (Facebook)
日本の 文化人類学者 文化功労者 山口昌男 (北海道美幌町出身)
日本の 文化人類学者 文化功労者 山口昌男 (北海道美幌町出身)
関連記事
山口 昌男(やまぐち まさお Masao Yamaguchi、1931年8月20日 – 2013年3月10日)は、日本の文化人類学者。勲等は瑞宝中綬章。東京外国語大学名誉教授、文化功労者。 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所所長、静岡県立大学国際関係学部教授、札幌大学学長などを歴任した。 人物 / 北海道美幌町出身。 関連人物 / 美幌町時代 / 藁科雅美 Masami Warashina(音楽評論家、訳書・バーンスタイン物語、1950年第1回美幌町文化賞受賞)。戦後、北海道美幌町に疎開中の藁科雅美から英語の個人指導を受ける。藁科雅美はその後(1952年)團伊玖磨に北海道美幌農業高等学校校歌作曲を依頼、(1953年)武満徹に美幌町町歌作曲を依頼する。 (山口昌男 – Wikipedia)
Masao Yamaguchi (山口 昌男 Yamaguchi Masao, August 20, 1931 – 10 March 2013) was a Japanese anthropologist. Yamaguchi was born in Bihoro, Hokkaidō. A key figure in the introduction of structural anthropology to Japan, Yamaguchi was also noted for his engagements with political questions such as the Japanese emperor system and assimilation policies. Yamaguchi was also noted as a writer on the concepts of hermaphroditism and the trickster, and performed fieldwork in Asia, Africa, and elsewhere. (Masao Yamaguchi – Wikipedia)
関連サイト
山口昌男 | NHK人物録 | NHKアーカイブス – NHKオンライン
関連エントリ
日本の人類学者 – 山口昌男(Masao Yamaguchi) – 美幌音楽人 加藤雅夫
ツイッター (Twitter)
フェイスブック (Facebook)
日本の作曲家 武満徹 (北海道美幌町町歌)
日本の作曲家 武満徹 (北海道美幌町町歌)
関連記事
武満 徹(たけみつ とおる Toru Takemitsu、1930年10月8日 – 1996年2月20日)は、日本の作曲家。 ほとんど独学で音楽を学んだが、若手芸術家集団「実験工房」に所属し、映画やテレビなどで幅広く前衛的な音楽活動を展開。和楽器を取り入れた『ノヴェンバー・ステップス』によって、日本を代表する現代音楽家となった。 1953年には北海道美幌町に疎開していた音楽評論家の藁科雅美が病状悪化の早坂文雄を介して委嘱した「美幌町町歌」を作曲している。 この間、私生活においては1954年に若山浅香と結婚した。病に苦しんでいた武満夫妻に團伊玖磨は鎌倉市の自宅を提供して横須賀市に移住した。 1957年、早坂文雄(1955年没)に献呈された『弦楽のためのレクイエム』を発表。日本の作曲家はこの作品を黙殺したが、この作品のテープを、1959年に来日していたストラヴィンスキーが偶然NHKで聴き、絶賛し、後の世界的評価の契機となる。 (武満徹 – Wikipedia)
Tōru Takemitsu (武満 徹 Takemitsu Tōru, October 8, 1930 – February 20, 1996) was a Japanese composer and writer on aesthetics and music theory. Largely self-taught, Takemitsu possessed consummate skill in the subtle manipulation of instrumental and orchestral timbre. He is famed for combining elements of oriental and occidental philosophy to create a sound uniquely his own, and for fusing opposites together such as sound with silence and tradition with innovation. He composed several hundred independent works of music, scored more than ninety films and published twenty books. He was also a founding member of the Jikken Kobo (experimental workshop) in Japan, a group of avant-garde artists who distanced themselves from academia and whose collaborative work is often regarded among the most influential of the 20th century. His 1957 Requiem for string orchestra attracted international attention, led to several commissions from across the world and established his reputation as one of the leading 20th-century Japanese composers. He was the recipient of numerous awards and honours and the Toru Takemitsu Composition Award is named after him. (Toru Takemitsu – Wikipedia)
美幌町(びほろちょう Bihoro)は、北海道オホーツク総合振興局管内にある町。 歴史 / 1953年(昭和28年) 美幌町町歌制定。大下孝一作詞、武満徹作曲。 美幌町の有名人 / 美幌町ゆかりの有名人 / 藁科雅美 – 音楽評論家、毎日放送音楽ディレクター、訳書「バーンスタイン物語」など。戦後、美幌町に疎開し町民の文化向上に貢献する(1950年第1回美幌町文化賞受賞)。山口昌男に英語を個人指導、團伊玖磨に美幌農業高校校歌作曲を依頼(1952年)、武満徹に美幌町町歌作曲を依頼(1953年)。 (美幌町 – Wikipedia)
関連サイト
美幌町 びほろちょう Bihoto Town | 美幌町ホームページ
関連エントリ
Toru Takemitsu の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫
ツイッター (Twitter)
フェイスブック (Facebook)
アントニオ・サリエリ(Antonio Salieri)について
アントニオ・サリエリ(Antonio Salieri)について
関連記事
アントニオ・サリエリ(Antonio Salieri、1750年8月18日 – 1825年5月7日)はイタリアのレニャーゴ生まれの作曲家。生前は神聖ローマ皇帝・オーストリア皇帝に仕えるカペルマイスター(宮廷楽長)としてヨーロッパ楽壇の頂点に立つ人物であり、またベートーヴェン、シューベルト、リストらを育てた名教育家でもあった。死後はその名と作品を忘れられたが、戯曲『アマデウス』(1979年)およびその映画版(1984年)の主人公として取り上げられたため、知名度が上昇。2003年に大メゾソプラノ歌手チェチーリア・バルトリがアルバムを出すなど、21世紀に入ってからは音楽家としての再評価の動きもあり、2009年からは生地レニャーゴでサリエリ・オペラ音楽祭が毎年開催されている。(アントニオ・サリエリ – Wikipedia)
Antonio Salieri (18 August 1750 – 7 May 1825) was an Italian classical composer, conductor, and teacher. He was born in Legnago, south of Verona, in the Republic of Venice, and spent his adult life and career as a subject of the Habsburg Monarchy. Salieri was a pivotal figure in the development of late 18th-century opera. As a student of Florian Leopold Gassmann, and a protégé of Christoph Willibald Gluck, Salieri was a cosmopolitan composer who wrote operas in three languages. Salieri helped to develop and shape many of the features of operatic compositional vocabulary, and his music was a powerful influence on contemporary composers. Appointed the director of the Italian opera by the Habsburg court, a post he held from 1774 until 1792, Salieri dominated Italian-language opera in Vienna. During his career he also spent time writing works for opera houses in Paris, Rome, and Venice, and his dramatic works were widely performed throughout Europe during his lifetime. As the Austrian imperial Kapellmeister from 1788 to 1824, he was responsible for music at the court chapel and attached school. Even as his works dropped from performance, and he wrote no new operas after 1804, he still remained one of the most important and sought-after teachers of his generation, and his influence was felt in every aspect of Vienna’s musical life. Franz Liszt, Franz Schubert, and Ludwig van Beethoven were among the most famous of his pupils. Salieri’s music slowly disappeared from the repertoire between 1800 and 1868 and was rarely heard after that period until the revival of his fame in the late 20th century. This revival was due to the dramatic and highly fictionalized depiction of Salieri in Peter Shaffer’s play Amadeus (1979) and its 1984 film version. The death of Wolfgang Amadeus Mozart in 1791 at the age of 35 was followed by rumours that he and Salieri had been bitter rivals, and that Salieri had poisoned the younger composer, yet it is likely that they were, at least, mutually respectful peers. (Antonio Salieri – Wikipedia)
関連エントリ
Antonio Salieri の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫
ツイッター( Twitter)
フェイスブック (Facebook)
藁科雅美記念館
日本の音楽評論家「藁科雅美記念館」を開設しました。藁科雅美の関連情報をお寄せください。北海道美幌町の恩人・藁科雅美ご家族の消息と連絡もお願いします。美幌音楽人 加藤雅夫 (連絡先)
関連記事
藁科 雅美(わらしな まさみ Masami Warashina、1915年1月15日 – 1993年1月3日)は、日本の音楽評論家。 人物・来歴 / 1915年(大正4年)1月15日に生れる。慶應大学医学部中退。昭和26年から毎日放送の音楽ディレクターとして活躍。著書「レコード音楽大事典」 訳書「バーンスタイン物語」等。日本ショパン協会常任委員。日本チェコスロヴァキア協会顧問。第1回美幌町文化賞受賞。1993年(平成5年)1月3日に死去した。 藁科一家の疎開先は美幌町(昭和20〜26年)。美幌町は鎌倉に移住した藁科雅美さんを介して権威者に町歌作曲を依頼した。 日本の音楽評論家でレコード音楽解説者として東京で活躍されていた藁科雅美ご一家が北海道の道東オホーツク海から30Kmほど内陸に位置する美幌町に疎開したのは73年前の昭和20年(1945年)。 美幌町に来てすぐに英語が話せるからと進駐軍の隊長付き通訳として即日強制徴用。疎開するときに「東京から貨車一台分のSPレコードを運んだ」 「どうして知ったのか配属されて来た学徒の特攻隊員の何人かが訪ねて来てわずかの休憩時間かわるがわるバッハやベートーベンの作品に耳を傾け感謝のまなざしを私に向けて帰隊していった」と藁科雅美は言う。その当時、個人的に英語を教えた生徒に文化人類学者となった山口昌男がいた。 東京でも名の知れていたピアニストで海軍航空隊付属美幌病院医師の筧潤二は美幌小学校講堂でピアノリサイタルを開催し美幌町で藁科雅美と再会する。藁科雅美と筧潤二は慶應大学医学部で共に学んでいる。 国立高等音楽学校(現 国立音楽大学)出身でピアニスト藁科みつゑ夫人は美幌高等女学校で音楽を指導。慶応大学医学部中退の藁科雅美は理科など六教科を教えた。「授業より畑仕事の監督が多く生徒に植物の芽を見て種類を教えてもらった」 昭和21年(1946年) 美幌文化協会創立に尽力し美幌レコード鑑賞会主宰の藁科雅美は音楽部長となる。藁科みつゑ夫人はドンコロ合唱団と漣女性合唱団を指導する。NHK北見放送局から合唱やレコードを放送したり、レコードコンサートではまだレコード会社が復興していない時期だったから自分のSPをかけた。 歓迎されて網走・釧路・旭川・小樽などからも呼ばれた。「そのSPは東京に戻るとき網走の奥谷という網元の息子に引き取ってもらった。その奥谷が後に東京に出るとき自分のコレクションも加えて網走市立図書館に寄贈。図書館によれば昭和43年の寄贈で全部で1113番まで番号が振られているとのことである。聴く人もなしに眠っているようだ」と藁科雅美は語っている。 昭和25年(1950年) 藁科雅美は戦後いち早く「北海道音楽」という北海道全土の音楽を結ぶ報道評論誌を創刊した。日本近代音楽館と北海道立図書館に寄託されている。内容は荒谷正雄・小林健次・伊福部昭・早坂文雄などの地方出身の音楽家、チェロの鈴木聡・バイオリンの巖本真理ら来道音楽家の写真や演奏会評、道内各地の音楽状況報告、新譜紹介、インタビュー、作曲募集など多彩な編集である。第1回美幌町文化賞受賞。 昭和26年(1951年) 藁科雅美と藁科みつゑは戦後 美幌高校と網走南ヶ丘高校の時間嘱託も勤めたが、日本の民間放送局で最も早く放送を始めた新日本放送(毎日放送)東京支社詰めの音楽ディレクターとして同年の秋に美幌町を離町した。「私たち家族にとって終生忘れ難い多数の人々の心暖かい見送りを受けて美幌の町を後にしたのだがその6年間の思い出は絶大である。美幌の豊かな自然の中で私たちの子供がすこやかに育ってくれたことも、それが戦後の混乱期であっただけにことさら感謝したい気持ちである。正直言って美幌時代の私は文化の中心地である東京が忘れられず、もしもここで死んだら遺骨を東京の空からばら散いてほしいと妻に頼んだような欲求不満と焦燥感にさいなまれた。しかし、今の私には冬の寒さが厳しい美幌を第二の故郷と思う懐かしさだけが残っている」 当時36歳の藁科雅美の居住先は神奈川県鎌倉市で近所に37歳の作曲家 早坂文雄と27歳の作曲家團伊玖磨が居た。後に團伊玖磨は東京で病に苦しんでいた21歳の作曲家 武満徹に「空気の良い鎌倉で療養しないか」と自宅を提供して横須賀市に移り住んだ。 昭和27年(1952年) 美幌高校から校歌作曲の依頼を受けた藁科雅美は美幌町に團伊玖磨を紹介した。北海道美幌農業高等学校 校歌作詞は同校数学教諭の川上忠雄、校歌作曲は團伊玖磨。(2018年現在、北海道高等学校唯一の校歌) 昭和28年(1953年) 美幌町から町歌作曲の依頼を受けた藁科雅美は早坂文雄を介して武満徹を紹介した。美幌町 町歌の作詞は美幌郵便局郵便配達員で39歳の大下孝一、町歌作曲は武満徹。(2018年現在、武満徹作曲の美幌町町歌は日本全国自治体唯一の町歌) 藁科雅美から作曲依頼された早坂文雄は病状悪化のため武満徹に「美幌町町歌」そして湯浅譲二に「美幌町病院歌」の作曲を依頼した。当時24歳の湯浅譲二は慶應大学医学部を中退して実験工房の瀧口修造・園田高弘・武満徹らと活動していた。(文責 / 美幌音楽人 加藤雅夫)
音楽評論家(おんがくひょうろんか)とは、音楽についての評論家である。日本の音楽評論家 / クラシック音楽 / 藁科雅美。(音楽評論家 – Wikipedia)
團 伊玖磨(だん いくま、1924年4月7日 – 2001年5月17日)は、日本の作曲家、エッセイスト。日本を代表するクラシック音楽の作曲家の一人である。 逸話 / 北海道美幌町に疎開していた音楽評論家の藁科雅美(毎日放送の音楽ディレクター、訳書「バーンスタイン物語」)が鎌倉市に移住して、すぐ近所に住んでいた團に「美幌農業高校校歌」作曲を依頼した。その後、團は、東京で病に苦しんでいた武満徹(1953年「美幌町町歌」作曲)に自宅を提供して横須賀市に移住した。湯浅譲二 ー 日本の作曲家。美幌病院歌または看護学校歌を作曲した。(伊玖磨 – Wikipedia)
武満 徹(たけみつ とおる、1930年10月8日 – 1996年2月20日)は、日本の作曲家。 デビュー、前衛作曲家への道 / 1953年には北海道美幌町に疎開していた音楽評論家の藁科雅美が病状悪化の早坂文雄を介して委嘱した「美幌町町歌」を作曲している。この間、私生活においては1954年に若山浅香と結婚した。病に苦しんでいた武満夫妻に團伊玖磨は鎌倉市の自宅を提供して横須賀市に移住した。(武満徹 – Wikipedia)
山口 昌男(やまぐち まさお、1931年8月20日 – 2013年3月10日)は、日本の文化人類学者。勲等は瑞宝中綬章。東京外国語大学名誉教授、文化功労者。北海道美幌町出身。
関連人物 / 美幌町時代 / 藁科雅美 Masami Warashina(音楽評論家、訳書・バーンスタイン物語、1950年第1回美幌町文化賞受賞)。戦後、北海道美幌町に疎開中の藁科雅美から英語の個人指導を受ける。藁科雅美はその後(1952年)團伊玖磨に北海道美幌農業高等学校校歌作曲を依頼、(1953年)武満徹に美幌町町歌作曲を依頼する。(山口昌男 – Wikipedia)
美幌町の有名人 / 美幌町ゆかりの有名人 / 藁科雅美 – 音楽評論家、毎日放送音楽ディレクター、訳書「バーンスタイン物語」など。戦後、美幌町に疎開し町民の文化向上に貢献する(1950年第1回美幌町文化賞受賞)。山口昌男に英語を個人指導、團伊玖磨に美幌農業高校校歌作曲を依頼(1952年)、武満徹に美幌町町歌作曲を依頼(1953年)。(美幌町 – Wikipedia)
関連サイト
藁科, 雅美, 1915-1993 – Web NDL Authorities – 国立国会図書館
関連エントリ
日本ショパン協会創立50年/北海道・美幌町ゆかりの藁科雅美 – 美幌音楽人 加藤雅夫
Masami Warashina の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫
ツイッター( Twitter)
フェイスブック (Facebook)
地域おこし協力隊の募集について(北海道 美幌町)
地域おこし協力隊の募集について(北海道 美幌町)
美幌町地域おこし協力隊の募集について
美幌町では『地域おこし協力隊』を募集しています!!
美幌町では、平成30年4月以降から活動する「地域おこし協力隊」を募集します。 意欲のある方、力を発揮していただける方、そして美幌町に興味のある方からのご応募をお待ちしております。
募集要項 / 美幌町にある豊かな地域資源を活用した観光と林業の振興を!!
年間70万人以上が訪れ、”天下の絶景”と謳われる『美幌峠』を有している美幌町。 平成28年度から環境省が進めている「国立公園満喫プロジェクト」に美幌峠を含む阿寒摩周国立公園が選定され、当町はこのプロジェクトをチャンスとし、更なる観光振興を推し進めるべく、様々な地域資源を活用した観光戦略が求められています。 また、基幹産業が農業のまちですが、林業も盛んで、行政区域面積の62%を森林が占めています。 この豊富な森林資源を地域活性化に役立てようと、美幌町では、国際的な森林認証制度を取得し、木材の高付加価値化、ブランド化、利用促進を図っています。 この2つの分野について、新たな視点と発想でもって、共に振興していただけませんか?(美幌町地域おこし協力隊について ー 美幌町ホームページ)
関連記事
美幌町
美幌町(びほろちょう)は、北海道オホーツク総合振興局管内にある町。陸上自衛隊の駐屯地があり、自然が豊かで降雪や災害が少なく、空港が近いことから道外からの移住者が多い。 町名の由来 / アイヌ語に由来するが、「ピポロ」〔石・多い〕あるいは「ペホロ」〔水・多い〕の二説があり、特定しがたいとされる。 地理 / 地形は網走川、およびその水系の河岸段丘および氾濫原に広がり、網走市と北見市のほぼ中間に位置する。人口の約9割が半径3キロの市街地に集中するコンパクトシティである。 隣接する女満別空港から市街地までの移動時間は自動車で10分程度、石北本線や国道4路線、道道6路線が交わる道東交通の要衝の位置に当たる。 日照率が高く、降雨量が少ないが、水道の水源地は、 藻琴山から湧き出る女満別川上流であり、良好な水質を保っている。 経済 / 陸上自衛隊美幌駐屯地や日本甜菜製糖をはじめとする多くの食品工場があることから、関係者や家族(主に町外出身者)が多く暮らしており、経済活動にも少なからず影響を持っているとされる。さらに、自然が豊かで、降雪量が北海道の気候としては少ない部類に入り、自然災害が少なく、温和な環境である。そして、商業施設や交通、医療機関等の都市機能が充実しているため、町外はもとより、北海道での生活を求めた道外出身の移住者が多く在住している。 美幌町の有名人 / 美幌町出身の有名人/ 阿部由香里 – 長野オリンピックのバイアスロン選手。久保恒造のコーチ。久保恒造 – 障害者ノルディックスキー選手。石田正子 – クロスカントリースキー選手。北の富士勝昭 – 力士(第52代横綱)。山口昌男 – 文化人類学者、元札幌大学学長。戦後、美幌町に疎開中の藁科雅美(音楽評論家、1950年第1回美幌町文化賞受賞)から英語の個人指導を受ける。 美幌町ゆかりの有名人 / 円舘金 – 美幌町在住の天文学愛好家(小惑星ハンター)。藁科雅美 – 音楽評論家、毎日放送音楽ディレクター、訳書「バーンスタイン物語」など。戦後、美幌町に疎開し町民の文化向上に貢献する(1950年第1回美幌町文化賞受賞)。山口昌男に英語を個人指導、團伊玖磨に美幌農業高校校歌作曲を依頼(1952年)、武満徹に美幌町町歌作曲を依頼(1953年)。美ち奴(みちやっこ、本名:久保染子) – 日本の女性歌手、1937年美幌開基五十年を記念して制定された「美幌小唄 (作詞:大塚郷湖、作曲:須藤五郎)」を歌い、また、美幌観光協会の依頼により「美幌観光音頭 (作詞:大塚郷湖、作曲:松田喜一、唄:美ち奴)」は、帝蓄レコード(テイチクレコード)でレコード化された。(美幌町ーWikipedia)
地域おこし協力隊
地域おこし協力隊(ちいきおこしきょうりょくたい)とは、人口減少や高齢化等の進行が著しい地方において、地域外の人材を積極的に受け入れ、地域協力活動を行ってもらい、その定住・定着を図ることで、意欲ある都市住民のニーズに応えながら、地域力の維持・強化を図っていくことを目的とした制度である。(地域おこし協力隊 ー Wikipedia)
関連サイト
美幌町地域おこし協力隊 | 美幌町(http://www.town.bihoro.hokkaido.jp)
美幌町 びほろちょう Bihoro Town | 美幌町(http://www.town.bihoro.hokkaido.jp)
関連エントリ
地域おこし協力隊 の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫(masaokato.jp)
ツイッター( Twitter)
加藤 雅夫 (@bihorokato) | Twitter
https://twitter.com/bihorokato
フェイスブック (Facebook)
加藤 雅夫 | Facebook
https://www.facebook.com/bihoro.kato
2015年 5月 – 広報 びほろ (北海道 美幌町)
2015年 5月 – 広報 びほろ (北海道 美幌町)
May 2015 – Public Relations Bihoro (Bihoro town, Hokkaido)
- Home
- 山口昌男 の検索結果