藁科雅美記念館

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日本の音楽評論家「藁科雅美記念館」を開設しました。藁科雅美の関連情報をお寄せください。北海道美幌町の恩人・藁科雅美ご家族の消息と連絡もお願いします。美幌音楽人 加藤雅夫 (連絡先)

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藁科 雅美(わらしな まさみ Masami Warashina、1915年1月15日 – 1993年1月3日)は、日本の音楽評論家。 人物・来歴 / 1915年(大正4年)1月15日に生れる。慶應大学医学部中退。昭和26年から毎日放送の音楽ディレクターとして活躍。著書「レコード音楽大事典」 訳書「バーンスタイン物語」等。日本ショパン協会常任委員。日本チェコスロヴァキア協会顧問。第1回美幌町文化賞受賞。1993年(平成5年)1月3日に死去した。 藁科一家の疎開先は美幌町(昭和20〜26年)。美幌町は鎌倉に移住した藁科雅美さんを介して権威者に町歌作曲を依頼した。 日本の音楽評論家でレコード音楽解説者として東京で活躍されていた藁科雅美ご一家が北海道の道東オホーツク海から30Kmほど内陸に位置する美幌町に疎開したのは73年前の昭和20年(1945年)。 美幌町に来てすぐに英語が話せるからと進駐軍の隊長付き通訳として即日強制徴用。疎開するときに「東京から貨車一台分のSPレコードを運んだ」 「どうして知ったのか配属されて来た学徒の特攻隊員の何人かが訪ねて来てわずかの休憩時間かわるがわるバッハやベートーベンの作品に耳を傾け感謝のまなざしを私に向けて帰隊していった」と藁科雅美は言う。その当時、個人的に英語を教えた生徒に文化人類学者となった山口昌男がいた。 東京でも名の知れていたピアニストで海軍航空隊付属美幌病院医師の筧潤二は美幌小学校講堂でピアノリサイタルを開催し美幌町で藁科雅美と再会する。藁科雅美と筧潤二は慶應大学医学部で共に学んでいる。 国立高等音楽学校(現 国立音楽大学)出身でピアニスト藁科みつゑ夫人は美幌高等女学校で音楽を指導。慶応大学医学部中退の藁科雅美は理科など六教科を教えた。「授業より畑仕事の監督が多く生徒に植物の芽を見て種類を教えてもらった」 昭和21年(1946年) 美幌文化協会創立に尽力し美幌レコード鑑賞会主宰の藁科雅美は音楽部長となる。藁科みつゑ夫人はドンコロ合唱団と漣女性合唱団を指導する。NHK北見放送局から合唱やレコードを放送したり、レコードコンサートではまだレコード会社が復興していない時期だったから自分のSPをかけた。 歓迎されて網走・釧路・旭川・小樽などからも呼ばれた。「そのSPは東京に戻るとき網走の奥谷という網元の息子に引き取ってもらった。その奥谷が後に東京に出るとき自分のコレクションも加えて網走市立図書館に寄贈。図書館によれば昭和43年の寄贈で全部で1113番まで番号が振られているとのことである。聴く人もなしに眠っているようだ」と藁科雅美は語っている。 昭和25年(1950年) 藁科雅美は戦後いち早く「北海道音楽」という北海道全土の音楽を結ぶ報道評論誌を創刊した。日本近代音楽館と北海道立図書館に寄託されている。内容は荒谷正雄・小林健次・伊福部昭・早坂文雄などの地方出身の音楽家、チェロの鈴木聡・バイオリンの巖本真理ら来道音楽家の写真や演奏会評、道内各地の音楽状況報告、新譜紹介、インタビュー、作曲募集など多彩な編集である。第1回美幌町文化賞受賞。 昭和26年(1951年) 藁科雅美と藁科みつゑは戦後 美幌高校と網走南ヶ丘高校の時間嘱託も勤めたが、日本の民間放送局で最も早く放送を始めた新日本放送(毎日放送)東京支社詰めの音楽ディレクターとして同年の秋に美幌町を離町した。「私たち家族にとって終生忘れ難い多数の人々の心暖かい見送りを受けて美幌の町を後にしたのだがその6年間の思い出は絶大である。美幌の豊かな自然の中で私たちの子供がすこやかに育ってくれたことも、それが戦後の混乱期であっただけにことさら感謝したい気持ちである。正直言って美幌時代の私は文化の中心地である東京が忘れられず、もしもここで死んだら遺骨を東京の空からばら散いてほしいと妻に頼んだような欲求不満と焦燥感にさいなまれた。しかし、今の私には冬の寒さが厳しい美幌を第二の故郷と思う懐かしさだけが残っている」 当時36歳の藁科雅美の居住先は神奈川県鎌倉市で近所に37歳の作曲家 早坂文雄と27歳の作曲家團伊玖磨が居た。後に團伊玖磨は東京で病に苦しんでいた21歳の作曲家 武満徹に「空気の良い鎌倉で療養しないか」と自宅を提供して横須賀市に移り住んだ。 昭和27年(1952年) 美幌高校から校歌作曲の依頼を受けた藁科雅美は美幌町に團伊玖磨を紹介した。北海道美幌農業高等学校 校歌作詞は同校数学教諭の川上忠雄、校歌作曲は團伊玖磨。(2018年現在、北海道高等学校唯一の校歌) 昭和28年(1953年) 美幌町から町歌作曲の依頼を受けた藁科雅美は早坂文雄を介して武満徹を紹介した。美幌町 町歌の作詞は美幌郵便局郵便配達員で39歳の大下孝一、町歌作曲は武満徹。(2018年現在、武満徹作曲の美幌町町歌は日本全国自治体唯一の町歌) 藁科雅美から作曲依頼された早坂文雄は病状悪化のため武満徹に「美幌町町歌」そして湯浅譲二に「美幌町病院歌」の作曲を依頼した。当時24歳の湯浅譲二は慶應大学医学部を中退して実験工房の瀧口修造・園田高弘・武満徹らと活動していた。(文責 / 美幌音楽人 加藤雅夫)

音楽評論家(おんがくひょうろんか)とは、音楽についての評論家である。日本の音楽評論家 / クラシック音楽 / 藁科雅美。(音楽評論家 – Wikipedia

團 伊玖磨(だん いくま、1924年4月7日 – 2001年5月17日)は、日本の作曲家、エッセイスト。日本を代表するクラシック音楽の作曲家の一人である。 逸話 / 北海道美幌町に疎開していた音楽評論家の藁科雅美(毎日放送の音楽ディレクター、訳書「バーンスタイン物語」)が鎌倉市に移住して、すぐ近所に住んでいた團に「美幌農業高校校歌」作曲を依頼した。その後、團は、東京で病に苦しんでいた武満徹(1953年「美幌町町歌」作曲)に自宅を提供して横須賀市に移住した。湯浅譲二 ー 日本の作曲家。美幌病院歌または看護学校歌を作曲した。(伊玖磨 – Wikipedia

武満 徹(たけみつ とおる、1930年10月8日 – 1996年2月20日)は、日本の作曲家。 デビュー、前衛作曲家への道 / 1953年には北海道美幌町に疎開していた音楽評論家の藁科雅美が病状悪化の早坂文雄を介して委嘱した「美幌町町歌」を作曲している。この間、私生活においては1954年に若山浅香と結婚した。病に苦しんでいた武満夫妻に團伊玖磨は鎌倉市の自宅を提供して横須賀市に移住した。(武満徹 – Wikipedia

山口 昌男(やまぐち まさお、1931年8月20日 – 2013年3月10日)は、日本の文化人類学者。勲等は瑞宝中綬章。東京外国語大学名誉教授、文化功労者。北海道美幌町出身。
関連人物 / 美幌町時代 / 藁科雅美 Masami Warashina(音楽評論家、訳書・バーンスタイン物語、1950年第1回美幌町文化賞受賞)。戦後、北海道美幌町に疎開中の藁科雅美から英語の個人指導を受ける。藁科雅美はその後(1952年)團伊玖磨に北海道美幌農業高等学校校歌作曲を依頼、(1953年)武満徹に美幌町町歌作曲を依頼する。(山口昌男 – Wikipedia

美幌町の有名人 / 美幌町ゆかりの有名人 / 藁科雅美 – 音楽評論家、毎日放送音楽ディレクター、訳書「バーンスタイン物語」など。戦後、美幌町に疎開し町民の文化向上に貢献する(1950年第1回美幌町文化賞受賞)。山口昌男に英語を個人指導、團伊玖磨に美幌農業高校校歌作曲を依頼(1952年)、武満徹に美幌町町歌作曲を依頼(1953年)。(美幌町 – Wikipedia

関連サイト

藁科雅美 プロフィール – あのひと検索スパイシー

藁科雅美 – 20世紀 BOX

藁科, 雅美, 1915-1993 – Web NDL Authorities – 国立国会図書館

協会について – 日本ショパン協会

日本チェコ協会/日本スロバキア協会

関連エントリ

日本ショパン協会創立50年/北海道・美幌町ゆかりの藁科雅美 – 美幌音楽人 加藤雅夫

音楽評論家 の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫

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4 件のコメント

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    コメント欄を閉鎖しました。

    メッセージはこちらから

    加藤 雅夫 より 2018 年 7 月 30 日 06:49

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    コメント欄を再開いたしました。

    コメントをどうぞ。

    加藤 雅夫 より 2019 年 10 月 18 日 19:20

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    藁科雅美さんについて

    2019年(令和元年)は 美幌町文化連盟(美幌町文化協会)の創立50周年を迎え、美幌町民会館で記念式典が行われました。そして、11月には、第70回 美幌町文化祭が開催されます。 1946年(昭和21年) 美幌町文化協会創立に尽力し、1950年(昭和25年)に第1回美幌町文化賞を受章された藁科雅美さんと夫人の藁科みつえさんのゆかりある方からメール便が届きました。一部を掲載いたします。ありがとうございました。

    加藤雅夫様 突然のメールで失礼します。某、掲示板で美幌町に記念館が出来た事を知り、webページに辿り着きました。私の幼馴染の祖父が藁科雅美さんでした。私が、小学校5年の時に初めて鎌倉二階堂の自宅に御邪魔しました。未だそのその頃は、友達の鉄道好きで料理の上手な爺さん程度の認識しかありませんでしたが、中学.高校時代になって、評論家と言う事を知りました。 22歳の時に、幼馴染の孫が病死して、その後法事で会ったのが最後だったと思います。チェコ音楽の専門家として、スプラフォン・レーベルの日本語ライナーノートを執筆していました。長年の我が国におけるチェコ音楽の普及功績から、国際ヤナーチェク協会からはヤナーチェク・メダルを授与されています。 「1955年プラハの春音楽祭で、ショスタコーヴィチに単独インタヴューした」と御話して下さいました。「握手して貰ったんだ!!」と少年の様に話されていたのを、昨日の様に覚えています。私にとって、あの伝説の作曲家と会っていた事が衝撃でした。御爺さんが亡くなられたのは、その翌年の93年1月3日に幼馴染の妹さんからの電話で知りました。 兎に角、通夜.葬儀に参列する為にバタバタしたのを思い出します。長男さんから、遺族席にと薦められましたが、断って藁科家の提灯を持って国道16号線沿いに案内係として寒空に立ちました。 私は、早世した幼馴染とその御爺さんの骨を拾いました。藁科家との直接の付き合いは、みつえさんが亡くなられてからは有りません。長女(幼馴染の母親)とは、年一度の年賀の遣り取りだけです。 CDジャーナル編集長だった、評論家.平林直哉さんがCDジャーナルの前身のディスクレポート時代から付き合いがあったと思います。紙媒体の資料等は、近代音楽館と慶応大学.三田キャンパス内の「藁科文庫」に納められていると聞きました。私にとって、藁科雅美さんは、師と呼べる数少ない存在であり唯一無二の人でした。しかし、御爺さんは最後まで私の事を友として見て下さっていた事を、後に長女さんから聞かされました。決して、私の前では作品や演奏家の愚痴は言わなかった。自分の立場(影響力)を解っていた人です。少なくとも後10年は生きていて欲しかった、もっともっと色んな事を教えて頂きたかった。あれから、26年と言う歳月が流れたのですね。(Y.U)

    加藤 雅夫 より 2019 年 10 月 18 日 22:27

  4. はじめまして。宅井義晴と申します。先日、藁科雅美さんが主筆者として活躍していた『プレイバック』を入手し、感想を下記のサイトに書きました。

    https://note.com/plugcm/n/na4c79feebe3c
    雑誌『プレイバック』復刊号(1955年5月号)を読んで

    その拙文の最後に、こちらの「藁科雅美記念館」にも、リンクを貼らせて頂きました。事後報告で大変失礼致します。藁科雅美さんの情報は非常に少なく、こうしてまとめて頂いていることが大変貴重で、記事を書く際にも参考にさせて頂きました。ありがとうございます。

    宅井義晴 より 2020 年 5 月 10 日 09:33

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