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モンテンルパ カテゴリのアーカイブ
モンテンルパのオルゴール曲について
- 2018年05月18日(金) 0:25
- カテゴリ: お知らせ, アジア, オホーツク, フィリピン, モンテンルパ, 北海道, 国際, 日本, 東南アジア, 音楽
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モンテンルパのオルゴール曲について
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5月18日 できごと / 1953年 – フィリピン・モンテンルパのニュー・ビリビッド刑務所で減刑・助命の活動をしていた加賀尾秀忍教誨師、歌手・渡辺はま子から前年のクリスマス慰問の際に贈られたアルバム型オルゴールを持ってマラカニアン宮殿を訪問して、エルピディオ・キリノ大統領と会見。オルゴールを贈り、日本人BC級戦犯全員の早期釈放と帰国を要請する。(5月18日 – Wikipedia)
モンティンルパ市(Muntinlupa City)は、フィリピン共和国ルソン島にある市である。マニラ首都圏に属する。太平洋戦争(大東亜戦争)中の激戦地フィリピンにおいて、マニラ軍事裁判後にニュービリビット刑務所で処刑された、山下奉文大将以下17名が葬られた場所である。また、渡辺はま子のヒット曲『あゝモンテンルパの夜は更けて』で知られる、戦争犯罪者収容所の所在地であった。(モンティンルパ – Wikipedia)
加賀尾 秀忍(かがお しゅうにん、1901年1月5日 – 1977年5月14日)は、昭和期に活躍した真言宗の僧侶。フィリピン・モンテンルパの戦犯刑務所で教誨師として活躍したので『モンテンルパの父』ともよばれている。概要 / 1949年11月4日、フィリピン・マニラ郊外のモンテンルパにある、当時、戦犯刑務所だったニュー・ビリビット刑務所に、病気のため早期帰国した安達本識(あだち・ほんじき)教誨師の後任として赴任する。当初、6ヶ月の任期であったが、自ら無給で残ることを決め、死刑判決を受けて、処刑の瀬戸際に立つ日本人戦犯の助命活動にたずさわる。ダグラス・マッカーサー元帥などの、当時の日本の指導者たちに助命嘆願書を提出するも、1952年1月19日には、明らかに無実の者もいる日本人BC級戦犯14名の処刑に立ち会う。3月半ばのある日、戦犯たちと会議をもち日本への世論喚起のため、歌の作成を提案する。こうして完成した歌は、死刑囚である代田銀太郎作詞で、同じく死刑囚の伊藤正康作曲の『モンテンルパの夜は更けて』である。この歌はNHKラジオ「陽気な喫茶店」で紹介され、たまたまゲストとして出演していた歌手の渡辺はま子の目にとまった。そして当時、鎌倉にあった自宅に帰ると、すぐにピアノで試し弾きをやってみて、望郷と帰国の念に駆られる感じ漂う哀しいリズムの歌であることを知った。そして、自分がかつて、戦争協力者として台湾や中国大陸各地の前線を歌で慰問して巡っていた頃の自分を責め、生涯かけて歌っていこうと心に決めると、さっそく手直しと編曲にとりかかった。具体的には当初、5番から成っていたものを2番削除して3番構成とした。そして曲名も『あゝモンテンルパの夜は更けて』と改められて発表された。レコードも宇津美清とのデュエットで吹き込んだものがビクターレコードから発売され、20万枚の売り上げを記録するなど大ヒットする。当時のローマ法王のピウス12世に協力要請を行い、フィリピン大統領へのメッセージが実現し、フィリピン大統領との会見が実現する。1953年5月、当時のフィリピン大統領エルピディオ・キリノと面会した。そして、このときに『あゝモンテンルパの夜は更けて』のオルゴールをプレゼントする。大戦末期に行われたマニラ市街戦で、妻や子を日本軍に殺害されていたキリノ大統領も、オルゴールの中の曲の作詞作曲が2人の日本人戦犯であることを加賀尾氏より知る。そして、会見から1ヶ月後の6月27日、日本人戦犯の釈放が決定される。(加賀尾秀忍 – Wikipedia)
渡辺 はま子(わたなべ はまこ、1910年(明治43年)10月27日 – 1999年(平成11年)12月31日)は戦前から戦後にかけて活躍した日本の流行歌手。経歴 / 戦後 / 1952年(昭和27年)、NHKラジオ「陽気な喫茶店」を司会していた松井翠声の元に送られてきた、フィリピンの日本人戦犯が作詞作曲した曲「あゝモンテンルパの夜は更けて」を渡辺がレコード化。日本国政府の厚生省復員局と渡辺の奔走で、モンテンルパ市のニューピリビット刑務所へ慰問コンサートが実現。フィリピン政府当局に減刑、釈放を嘆願し、当時のフィリピンの首長であったキリノ大統領に日本人戦犯の釈放を決断させ、全員の日本への帰国が実現したことは、渡辺の歌手人生におけるハイライトといえる。(渡辺はま子 – Wikipedia)
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4月9日 バターンの日(Bataan Day)
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4月9日 バターンの日 [フィリピン] / 1942年のこの日、フィリピンのバターン半島が日本軍により占領された。多くの捕虜が徒歩により護送され、多数の死者が出たことから「死の行進」と呼ばれた。(4月9日 今日は何の日~毎日が記念日~)
4月9日 勇者の日(Araw ng Kagitingan、Bataan Day)(フィリピン) / 1942年のこの日、日本軍がフィリピンのバターン半島を占領し、バターン死の行進を起こした。追悼の日で休日。(4月9日 – Wikipedia)
バターン死の行進(バターンしのこうしん、タガログ語: Martsa ng Kamatayan sa Bataan、英語: Bataan Death March)とは、第二次大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦において、バターン半島で日本軍に投降したアメリカ軍・フィリピン軍の捕虜が、捕虜収容所に移動する際に多数死亡した行進のことを言う。全長は120kmで、その半分は鉄道とトラックで運ばれ、残り42kmを3日間徒歩で移動した。フィリピンでは、日本がアメリカ軍を破ってバターン半島を陥落させた4月9日を2009年から勇者の日 (タガログ語: Araw ng Kagitingan) としてフィリピン・アメリカの戦士を称える休日として定めている。(バターン死の行進 – Wikipedia)
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北見藤女子高等学校とNGO法人LOOBについて ー 美幌音楽人 加藤雅夫
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