日本ショパン協会創立50年/北海道・美幌町ゆかりの藁科雅美

本年はポーランドのジェラゾヴァ・ヴォラ出身でピアノの詩人と呼ばれたフレデリック・ショパン(Chopin)生誕200年、北海道・美幌町ゆかりの藁科雅美が尽力された日本ショパン協会創立50年。

日本の音楽評論家でレコード音楽解説者として東京で活躍されていた藁科雅美ご一家が北海道の道東オホーツク海から30Kmほど内陸に位置する美幌町に疎開したのは65年前の昭和20年(1945)。

美幌町に来てすぐに英語が話せるからと進駐軍の隊長付き通訳として即日強制徴用。疎開するときに「東京から貨車一台分のSPレコードを運んだ」 「どうして知ったのか配属されて来た学徒の特攻隊員の何人かが訪ねて来てわずかの休憩時間かわるがわるバッハやベートーベンの作品に耳を傾け感謝のまなざしを私に向けて帰隊していった」と藁科雅美は言う。その当時、個人的に英語を教えた生徒に文化人類学者となった山口昌男がいた。

東京でも名の知れていたピアニストで海軍航空隊付属美幌病院医師の筧潤二は美幌小学校講堂でピアノリサイタルを開催し美幌町で藁科雅美と再会する。藁科雅美と筧潤二は慶應大学医学部で共に学んでいる。

国立高等音楽学校(現 国立音楽大学)出身でピアニスト藁科みつゑ夫人は美幌高等女学校で音楽を指導。慶応大学医学部中退の藁科雅美は理科など六教科を教えた。「授業より畑仕事の監督が多く生徒に植物の芽を見て種類を教えてもらった」

昭和21年(1946) 美幌文化協会創立に尽力し美幌レコード鑑賞会主宰の藁科雅美は音楽部長となる。藁科みつゑ夫人はドンコロ合唱団と漣女性合唱団を指導する。NHK北見放送局から合唱やレコードを放送したり、レコードコンサートではまだレコード会社が復興していない時期だったから自分のSPをかけた。 歓迎されて網走・釧路・旭川・小樽などからも呼ばれた。「そのSPは東京に戻るとき網走の奥谷という網元の息子に引き取ってもらった。その奥谷が後に東京に出るとき自分のコレクションも加えて網走市立図書館に寄贈。図書館によれば昭和43年の寄贈で全部で1113番まで番号が振られているとのことである。聴く人もなしに眠っているようだ」と藁科雅美は語っている。

昭和25年(1950) 藁科雅美は戦後いち早く「北海道音楽」という北海道全土の音楽を結ぶ報道評論誌を創刊した。日本近代音楽館と北海道立図書館に寄託されている。内容は荒谷正雄・小林健次・伊福部昭・早坂文雄などの地方出身の音楽家、チェロの鈴木聡・バイオリンの巖本真理ら来道音楽家の写真や演奏会評、道内各地の音楽状況報告、新譜紹介、インタビュー、作曲募集など多彩な編集である。第1回美幌町文化賞受賞。

昭和26年(1951) 藁科雅美と藁科みつゑは戦後 美幌高校と網走南ヶ丘高校の時間嘱託も勤めたが、日本の民間放送局で最も早く放送を始めた新日本放送(毎日放送)東京支社詰めの音楽ディレクターとして同年の秋に美幌町を離町した。「私たち家族にとって終生忘れ難い多数の人々の心暖かい見送りを受けて美幌の町を後にしたのだがその6年間の思い出は絶大である。美幌の豊かな自然の中で私たちの子供がすこやかに育ってくれたことも、それが戦後の混乱期であっただけにことさら感謝したい気持ちである。正直言って美幌時代の私は文化の中心地である東京が忘れられず、もしもここで死んだら遺骨を東京の空からばら散いてほしいと妻に頼んだような欲求不満と焦燥感にさいなまれた。しかし、今の私には冬の寒さが厳しい美幌を第二の故郷と思う懐かしさだけが残っている」

当時36歳の藁科雅美の居住先は神奈川県鎌倉市で近所に37歳の作曲家早坂文雄と27歳の作曲家團伊玖磨が居た。後に團伊玖磨は東京で病に苦しんでいた21歳の作曲家武満徹に「空気の良い鎌倉で療養しないか」と自宅を提供して横須賀市に移り住んだ。

昭和27年(1952) 美幌高校から校歌作曲の依頼を受けた藁科雅美は美幌町に團伊玖磨を紹介した。北海道美幌農業高等学校 校歌作詞は同校数学教諭の川上忠雄、校歌作曲は團伊玖磨。(2010年現在、北海道高等学校唯一の校歌)

昭和28年(1953) 美幌町から町歌作曲の依頼を受けた藁科雅美は早坂文雄を介して武満徹を紹介した。美幌町 町歌の作詞は美幌郵便局郵便配達員で39歳の大下孝一、町歌作曲は武満徹。(2010年現在、武満徹作曲の美幌町町歌は日本全国自治体唯一の町歌)
藁科雅美から作曲依頼された早坂文雄は病状悪化のため武満徹に「美幌町町歌」そして湯浅譲二に「美幌町病院歌」の作曲を依頼した。当時24歳の湯浅譲二は慶應大学医学部を中退して実験工房の瀧口修造・園田高弘・武満徹らと活動していた。

♪ Music Time : Chopin Nocturne ショパンの遺作

昭和35年(1960) ショパン生誕150年を記念し日本ショパン協会設立。初代の会長は高折宮次、名誉会長は河合滋、名誉会員は駐日ポーランド人民共和国大使、常任委員は藁科雅美。初代の理事は野村光一、永井 進、井口基成、大木正興、加藤成之、属 啓成、鈴木 聡、関 鑑子、園部三郎、山根銀二、前沢 功、駐日ポーランド人民共和国大使館文化担当官。
日本ショパン協会は「フレデリック・ショパン協会国際連盟」の会員として、世界各国のショパン協会と相互連携を保ちながら活動しています。 http://chopin-society-japan.com/

余談: 20年近くも前の話しです…中1の娘と私(加藤雅夫)は東京の帝国ホテルで日本ショパン協会顧問の遠山一行さんとお会いし美幌町のことや国際音楽交流の楽しい話をしてホテルから出ると、娘は「帝国ホテルのオレンジジュースは1700円です」と、私は「そう、おどろいた? コーヒーは2500円てした」と言うと、娘は「東京は お小遣いをたくさん持って遊びにくる所です。生活をする所ではありません」 私は「そう、よく学習しました。おめでとう!」。この話しは、今でも娘とよく話します。帝国ホテルのサンドイッチは美味しかったです。

藁科 雅美(わらしな まさみ、Masami Warashina): 日本の音楽評論家。大正4年(1915)1月15日生れ、慶應大学医学部中退。昭和26年から毎日放送の音楽ディレクターとして活躍。著書「レコード音楽大事典」 訳書「バーンスタイン物語」等。日本ショパン協会常任委員。日本チェコスロヴァキア協会顧問。第1回美幌町文化賞受賞。平成5年(1993)1月3日逝去。藁科一家の疎開先は美幌町(昭和20〜26年)。美幌町は鎌倉に移住した藁科雅美さんを介して権威者に町歌作曲を依頼した。(1959年に創立された日本チェコスロバキア協会、現在は日本チェコ協会/日本スロバキア協会として活動している)

早坂 文雄(はやさか ふみお、Fumio Hayasaka): 日本の作曲家。大正3年(1914)-昭和30年(1955)逝去。黒澤明の映画音楽〜酔いどれ天使、羅生門、白痴 生きる、七人の侍 などを作曲。鎌倉在住。病状悪化のため 武満徹に美幌町歌を そして 湯浅譲二に美幌病院歌または看護学校歌を依頼した。

湯浅 譲二(ゆあさ じょうじ、Joji Yuasa): 日本の現代音楽の作曲家。昭和4年(1929)生れ。慶甕大学医学部中退。昭和26年に武満徹、園田高弘、瀧口修造らと実験工房を結成。「二つのパストラー」でデビュー。日大芸術研究所教授、カリフォルニア大学サンディエゴ校名誉教授、国立音大コンピューター音楽センターと東京音大の客員教授。世界的に知られる現代音楽の作品は ホワイト・ノイズによるイコン ヴォイセス・カミング、芭蕉の句による情景、透視図法、世阿弥・九位。著書は 「音のコスモロジーへ」 「現代音楽ときのとき」。健在活躍中。

関連リンク
日本ショパン協会
http://chopin-society-japan.com/
カワイ音楽振興会
http://kawai-kmf.com/
日本チェコ協会/日本スロバキア協会
http://home.att.ne.jp/gold/czsk/

関連エントリー
美幌の歌/町歌・校歌
http://masaokato.jp/bihoro
美幌町町歌
http://masaokato.jp/bihoro/bihoro
北海道美幌農業高等学校校歌
http://masaokato.jp/bihoro/binou

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3 件のコメント

  1. 藁科雅美さん・・音楽評論などで著名な方ですね。もう95歳くらいですか、御元気なんですか。美幌にゆかりのある方とは存じませんでした。美幌って、名前もいいですが、文化都市なんですね。再認識しました。
    それにしても帝国ホテルのコーヒーのお値段は、ほとんど「場所代」ですね。私も経験いたしました。

    なりひら より 2010 年 3 月 13 日 01:22

  2. なりひらさん: ありがとうございます。

    DSC09259b3.jpg

    美幌(びほろ)って・・その名のとおり自然美豊かで「歌がうまれる良い町」です。ここに住む人々の心は温かくいつも穏やかで平和です。

    天下の絶景といわれる美幌峠の「場所代」はタダです。

    ※ 藁科 雅美(わらしな まさみ、1915年1月15日 – 1993年1月3日)

    ※ 「日本近代音楽館 遠山一行

    ※ 「信時潔研究ガイド」 http://home.netyou.jp/ff/nobu/
    信時潔/北海道北見柏陽高等学校校歌

    ※ No-b-log の・ぶ・ろぐ http://noblogblog.blog.shinobi.jp/
    信時裕子: 信時潔研究ガイド主宰者で日本近代音楽館勤務。信時潔の孫。

    加藤 雅夫 より 2010 年 3 月 13 日 11:49

  3. そのSPは東京に戻るとき
    網走の奥谷という網元の息子に引き取ってもらった。
    その奥谷が後に東京に出るとき自分のコレクションも加えて
    網走市立図書館に寄贈。
    図書館によれば昭和43年の寄贈で全部で
    1113番まで番号が振られているとのことである。
    聴く人もなしに眠っているようだ。と藁科雅美は語っている。

    ここに出てくる奥谷とは、網走市南4条東6丁目にいた
    奥谷達雄(おくやたつお)私と縁の切った父のことです。
    1987年12月14日に亡くなりました。

    このレコードのことは、
    当時の図書館長・船木氏が御存知かと思います。

    そういえば我が家にも武満徹氏から年賀葉書が届いておりました。

    父の実家は網元と申しましても、
    兄弟で分裂し祖父が築き上げたモノを
    全てダメにしている人達ばかりです。

    http://www.facebook.com/Mayuko.Akashi?sk=info

    http://twitter.com/roserose2000

    http://www.meifour.jp/Meifour2/

    明石麻友子 より 2011 年 7 月 24 日 01:30

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