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国立療養所美幌病院について (北海道美幌町)
- 2019年10月28日(月) 0:03
- カテゴリ: お知らせ, オホーツク, ギター, マンドリン, 健康・福祉, 北海道, 日本, 美幌町, 音楽, 音楽療法
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国立療養所美幌病院について (北海道美幌町)
1947年(昭和22年) 国立療養所美幌病院の開設。建物は、日本海軍・美幌海軍航空隊の建物。この年は、美幌音楽人 加藤雅夫が誕生。
1972年(昭和47年) 国立療養所美幌病院で慰問演奏会開催。小林啓一郎指揮 クシロマンドリンクラブ(北海道釧路市)。美幌ギター愛好会(美幌マンドリンクラブ、美幌ギター・マンドリン協会、オホーツクマンドリンアンサンブル)。美幌音楽人 加藤雅夫(25歳)。慰問コンサート終了後の1か月後に風邪をこじらせて国立療養所美幌病院の一般病棟に入院。入院患者たちは「あなた、この間、慰問演奏に来た人ですね、今度は入院しに来たの? ギターを持ってきたの?」私は「はい、ギター・マンドリンを持ってきました」。
国立療養所美幌病院には15年・20年の長期の入院患者たちがいました。国立療養所美幌病院附属の看護学校・准看護学校があり数十人の学生がいました。学生たちは、美幌高等学校定時制に通っていました。毎日、皆さんのためにギターを演奏しました。学生たちは、退院後にギター・マンドリンを習いに来てくれました。
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国立病院・国立療養所の一覧 ウィキメディアの一覧記事 / 日本の国立病院・国立療養所の一覧(こくりつびょういん・こくりつりょうようじょのいちらん)を下に示す。 北海道 / 国立療養所美幌病院(美幌町)2005年3月1日、経営移譲し美幌療育病院が開院した。 (国立病院・国立療養所の一覧 – Wikipedia)
国立療養所 ウィキメディアの曖昧さ回避ページ / 国立療養所(こくりつりょうようしょ)は、第二次世界大戦後に設置された長期入院患者向けの国立医療施設である。 1945年、50傷痍軍人療養所(結核36・精神3・脊髄1・温泉10)が厚生省に所管替えとなり、1947年には95結核療養所が日本医療団から厚生省に移管されて、国立療養所の体系が形成された。厚生省(のち厚生労働省)の附属機関(のち施設等機関)に位置づけられ、医療の専門化高度化に伴い整備・再編が進められた。2004年、独立行政法人化により多くが国立病院機構に改編された。 (国立療養所 – Wikipedia)
関連サイト
【美幌駐屯地】 陸上自衛隊 第5旅団ホームページ – 防衛省・自衛隊
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ぼくどうして涙がでるの (北海道の 札幌医科大学附属病院・ノンフィクション)
- 2019年10月27日(日) 0:01
- カテゴリ: 1000万アクセス, お知らせ, オホーツク, ギター, ドラえもん, 健康・福祉, 北海道, 北海道人, 日常生活, 美幌町, 音楽, 音楽療法
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ぼくどうして涙がでるの (北海道の 札幌医科大学附属病院・ノンフィクション)
1969年(昭和44年)10月、22歳の私は、札幌医科大学附属病院6階にある胸部外科の病棟に入院した。大人用の病室が満室だったので子供用の病室に入れられた。病室には二十歳の若者くん、中学生の男子、小学生の子供、4歳の子供、2歳の子供、6か月の赤ちゃん、三か月の赤ちゃんがいた。美幌町から来た赤ちゃんもいた。 皆さんは先天性の心疾患です。日本各地からやって来た。
私は、あいさつ代わりにギターを演奏した。ナースステーションから聴診器を拝借して、子供たちの耳にあててギターを演奏した。子供たちの顔色や爪色は悪いけれど、キラキラとした瞳はとても喜んでいた。毎日演奏した。皆は「ギターのお兄ちゃん、ありがとう」と言ってくれた。病気の苦しみは言わないけれど、ギター演奏の喜びは笑顔で表現してくれる。 脳性麻痺の重症患者(29歳)の男性が入院してきた。母親は「樺太からの引き揚げで息子(幼児)が高熱を出しました。手術後に献体します」と言った。その母子はクリスチャンだった。
当時、胸部外科の病棟では、月曜日から土曜日まで手術があった。私は七か月入院した。そして、26人の子供たちが死去した。午前中に子供たちは「ギターのお兄ちゃん、行ってきます」と言います。午後に看護師たちがベッドの荷物を持ち去ります。そして、次の患者が入ってきます。病院の近所の旅館で何日も待機していたそうです。私は、新しく来た子供たちにギター演奏できなくなった。
退院後、美幌の音楽仲間から「加藤さんのギターは悲しい音色ですね」と言われた。その後、私の娘が誕生してからは「悲しい音色ですね」と言われなくなった。
もう半世紀、50年経った。あのときのキラキラとした瞳の26人の子どもたちは、今も美幌音楽人加藤雅夫と共に生きている。(ギターのおじいちゃん 72歳)
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和田心臓移植事件(わだしんぞういしょくじけん)とは、1968年(昭和43年)8月8日に札幌医科大学で行われた、日本初の心臓移植手術をめぐる事件である。 (和田心臓移植事件 – Wikipedia)
和田 寿郎(わだ じゅろう Juro Wada、1922年3月11日 – 2011年2月14日[1])は、日本の心臓血管外科医。札幌医科大学名誉教授。ワダ弁(人工心弁)の開発や、後に「和田心臓移植事件」として様々な疑惑が浮上する日本初の心臓移植手術を執刀したことで有名な医師。 人物 / 北海道札幌市生まれ。医学の道を志し、旧制札幌第一中学校から北海道帝国大学予科を経て、同大学医学部を1944年(昭和19年)に首席で卒業した。 心臓外科医としての歩み1950年(昭和25年)に北大医学部講師を辞め、アメリカへ4年に亘る留学をする。ミネソタ州立大学、オハイオ州立大学胸部外科、ハーバード大学などで研鑽を積む。ミネソタでは、世界初の心臓移植を執刀した南アフリカのクリスチャン・バーナードと知己を得、さらに犬を使った動物実験で画期的な成功を収め、その後も世界の心臓移植を牽引し続けたノーマン・シャムウェイともここで知り合った。アメリカ留学の間に合理主義を培った。 1954年(昭和29年)に帰国。和田の母校である北大医学部は彼の復帰を受け入れなかった。それ以来、旧帝国大学系医学部に敵愾心を抱くようになったとも言われている。初代学長大野精七の招きで新設されたばかりの札幌医科大学助教授に就任。 1958年(昭和33年)に同医大に胸部外科が創設されると、36歳の若さで初代胸部外科教授となった。当時画期的だった人工弁「ワダ弁」を自身の考案によって開発し、弁置換術において日本一の実績を誇った。なお「ワダ弁」は、後にバーナードによる世界初の心臓移植手術にも用いられている。論文の数と術例の豊富さで、歴史と伝統を誇る北大医学部第二外科に対抗した。その後も人工心肺の心内直視下手術(開心術)における使用時間の向上とともに、心臓外科における未知の領域を開拓していった。例えば1968年(昭和43年)には大血管完全転移症に対する根治手術のひとつであるマスタード手術に日本で初めて成功している。 同年、日本初の心臓移植手術を執刀し、大きくその名を世間に知られるが、心臓移植の際にドナーとレシピエントをともに殺したのではないかという強い疑いをかけられる、いわゆる和田心臓移植事件で注目を浴び、殺人罪で刑事告発されている(不起訴処分)。 (和田寿郎 – Wikipedia)
関連サイト
和田寿郎教授心臓移植事件 – クール・スーサン(音楽 芸術 医学 人生 歴史)
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ソビエト連邦サハリン州在住のコンスタンチン君
- 2019年10月27日(日) 0:00
- カテゴリ: お知らせ, オホーツク, サハリン, ポロナイスク, ロシア, 健康・福祉, 北海道, 国際, 日本, 東アジア, 美幌町
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ソビエト連邦サハリン州在住のコンスタンチン君
北海道札幌市内にある札幌医科大学附属病院の医師 金子正光さんの活躍は新聞・テレビニュースでよく見ていた。金子正光さんは 札幌医科大学附属病院の医師 和田寿郎さんのスタッフの一員でした。私が22歳のとき、1969年(昭和44年)10月、札幌医科大学附属病院胸部外科の病棟に入院・手術では大変お世話になりました。
私がソビエト連邦サハリン州を訪れたのは 1991年(平成3年)7月だった。北海道北見市の友好都市ポロナイスク市(敷香町)で音楽祭を開催するためだった。 この年の12月にソ連崩壊だった。
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コンスタンティン・イーゴレビチ・スコロプイシュヌイ(ロシア語: Константин Игоревич Скоропышный、1987年 – 愛称:コンスタンチン君、コースチャ)は、1990年に大火傷を負ったが日本へ緊急搬送されて一命を取り留めた、当時ソビエト連邦サハリン州在住の3歳幼児である。 大火傷と日本への緊急搬送 / 事故 / 1990年8月20日、断水のため湯が出ず、母は家事をしながら汲み置きしていた水をバケツに入れ、電熱棒をバケツにいれて熱していた。そして家で一人で遊んでいたコンスタンチンは、100度近くになった熱湯にしりもちをつく形でバケツ内に落下した。 母はコンスタンチンをユジノサハリンスク州立小児病院に緊急搬送したが、腹部・背中・尻が熱傷3度、手足が熱傷2度で、全身の90パーセントの大火傷をしており、医師に「この病院では50パーセントの火傷でも助からない」、「ここでは手の施しようがない」、「あと2週間も持たない」と言われた。病院で行われた治療は1日1回の輸血とビタミン剤と鎮痛剤の投与のみだった。両親は他の病院を回ったが、ここでは助からないと言われた。しかし他人の皮膚を移植する治療方法があるという話を聞いた。 緊急搬送 / 8月26日、友人の一人から、「近所に日本人が来ている。日本は医療が発達しているから日本に行けば助かるかもしれない」という話を聞き、その日本人男性の元へ行ったが、その日本人はロシア語がわからなかったため、近所の日本語ができる朝鮮系の男性を連れて再び訪れ、救助を求めた。 その日本人は8月27日朝10時に北海道庁国際交流課係長(当時)に「サハリンに大火傷をした子がいる。余命70時間しかない」と電話で助けを求めた。係長はすぐ外務省ソ連課に連絡を取り、外務省はすぐ法務省と協議した結果、コンスタンチン一家を仮上陸で日本へ入国させることで、査証なしで受け入れることを決めた。 北海道は午後1時すぎ、海上保安庁千歳航空基地に救援機の出動を依頼した。 午後2時20分、サハリン州のワレンチン・フョードロフ知事から北海道の横路孝弘知事宛に救援要請書が届く。 北海道庁国際交流課係長は、自身が以前出向していた札幌医科大学附属病院にサハリンへの医師の同行とその後の治療を依頼した。附属病院の医師は、緊急医療の原則として「助かる見込みがなければサハリンに置いてくる。しかし助かる見込みが少しでもあれば連れてくる。」とした上で、これを引き受けた。 ユジノサハリンスク空港のアプローチチャートをたまたま持っていた日本航空から取り寄せ、千歳航空基地でソ連領事館員と綿密な打ち合わせをしたあと、8月28日午前3時45分、操縦士、医師、通訳等、13名の日本人を乗せた海上保安庁千歳航空基地所属 YS11-LA782「おじろ」が、サハリンに向け千歳航空基地を離陸した。 YS-11は濃霧のためサハリン上空を1時間半旋回し、6時43分サハリン到着。 そこで医師は火傷をして1週間経っていることをはじめて知った。助かる可能性はわずかしかなかったが、コンスタンチンとサハリン州知事から唯一同行を許された父を乗せ、7時47分にユジノサハリンスク空港を離陸した。 機内ですぐに応急処置、酸素吸入、点滴が行われ、8時55分丘珠空港に着陸、すぐに北海道警察のヘリコプターで医大へ搬入、9時10分に医大に到着した。 日本での治療 / 8月30日、東京の病院から、遺族の了解を得て採取された移植用の人皮が病院に到着。4時間の皮膚移植手術が行われた。不足する皮膚は、キチン質から合成された人工皮膚も使用された。 一週間後、移植した皮膚が定着したことが確認され、火傷から10日目には意識を回復した。 9月8日には、母にサハリン州知事から出国の許可が下り、特別上陸手続きで来日した。 その後は一週間ごとに手術を繰り返し、10月23日には一般病棟に移るまでに回復した。そして11月23日に退院し、翌日帰国した。 その後 / 日ソ国境を越えたその救出劇は、冷戦終結直後の時代に、日本と旧ソビエト連邦との関係が改善されるきっかけとなった。緊急搬送の経過は、2000年7月25日にNHK『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』で、「国境を越えた救出劇 大やけどのコンスタンチン君・命のリレー」として放映された。 (コンスタンティン・スコロプイシュヌイ – Wikipedia)
関連サイト
コンスタンチン君~国境を越えた命のリレー~ 平成2年 – NHK札幌放送局
国境を越えた救出劇~大やけどコンスタンチン君・命のリレー~ – BIGLOBE
コンスタンチン君救命リレー忘れられた記事冷戦国境超えた医療 | 健康と子供生活
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ぼくどうして涙がでるの (日本の映画・ノンフィクション)
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『ぼくどうして涙がでるの』は、『薔薇族』編集長として知られる伊藤文學と、その妹の伊藤紀子(みちこ)の共著によって1965年に第二書房から発表されたノンフィクション、また同名のテレビ映画、及び日活映画である。 書籍は紀子の闘病日記と文學の文章、また伊藤兄妹が受け取った手紙などを交えて構成されている。装幀は内藤ルネが担当。出版後には朝日新聞等で紹介され大きな反響を呼んだ。 内容 / 心臓病のための紀子の闘病生活と、その縁で伊藤兄妹が知り合った「芳っちゃん」をはじめとする心臓病の患者達との交流、また心臓病の子供たちのために「豆の木会」を創立する経緯が描かれている。1974年以後の版には紀子の復帰後の様子が描かれている。 芳っちゃんとの交流、紀子の手術 / 1962年10月24日に再設定された紀子の手術は再度延期になった。そして、10月の末にはファロー四徴症の5歳の男の子、野村芳和くんが紀子の401号室に入院した。これは子供用の病室が満室であったためであるが、結果、彼は文學と「芳っちゃん」「ブーン」と呼び合う仲になり、交流を深めていく。 12月10日、紀子の手術の直前、芳っちゃんは「お姉ちゃん、泣かないね」と指摘する。これはその病室に「手術の前に涙を見せた患者は病室に戻ってこれない」というジンクスがあり、手術の成功を示唆したものである。紀子の手術は予定時間を大幅に上回るが成功し、12月18日には集中治療室を出て病室に戻る。 芳っちゃんの手術 / 1963年1月24日、芳っちゃんの手術の前日、文學はかねてから頼まれていた『ジャックと豆の木』と『家なき子』の絵本を持って病室を訪れる。嬉しがる芳っちゃんは、手術が終わったら3日で病室に戻るから、その時には『名犬ラッシー』の絵本を持ってきて欲しいと文學にリクエストする。文學は指切りをして、絶対に戻ってくるように約束をさせる。 翌1月25日、芳っちゃんは手術室に向かう前に麻酔注射を受けるが、『ジャックと豆の木』の絵本を離さず、涙を流して「ぼく、どうして、涙がでるの、おしえてよ、かんごふさん」と言う。同席した一同はジンクスを思い出し、不安がるが、果たして芳っちゃんは手術中に死亡した。 (ぼくどうして涙がでるの – Wikipedia)
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ぼくどうして涙がでるの の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫
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8050問題について (北海道美幌町)
8050問題について (北海道美幌町)
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8050問題を考える 2019/10/19掲載(美幌町/社会) 美幌で現場職員、地域住民らが研修会 / 社会問題化する「8050問題」への対応を考える権利擁護研修会が11日、美幌町民会館で開かれた。介護・福祉の現場職員や地域住民らが講演とグループワークで支援のあり方を学んだ。 8050問題は、80代前後の親が、収入がない50代前後の子を養うケースが増えている問題をいう。親子が社会的に孤立し「共倒れ」になるリスクや、何らかの障がいを抱えているケースもあり、専門職の介入や地域の見守りが必要とされている。 研修会は美幌町と美幌町地域包括支援センターが主催。現場職員、民生委員児童委員、自治会役員、関係団体の役員ら約60人が参加した。 社会福祉法人あむ南9条通サポートセンター(札幌)所長の大久保薫さんが講演。「8050問題の背景にあるのは子どもの引きこもり。以前は若者の問題だったが、高齢化している」と分析し、全国には40~64歳の引きこもり状態の人が約61万人おり、15~39歳の約54万人より多いと推計する内閣府の調査結果を紹介した。夕食会やサロンの開催など8050問題の当事者を支援する全国各地の取り組みも紹介した。 講演後は、町職員らが演じる8050問題の寸劇を元にグループで対応を協議。「病院に行きたがらない母親に訪問看護をすすめる」「息子の金銭管理を支援する」などと発表し合い、専門職、住民の立場でよりよい支援を共有した。(浩) (オホーツクのフリーペーパー経済の伝書鳩)
8050問題(八千五十もんだい、はちじゅうごじゅうもんだい)とは、2010年代以降の日本に発生している長期化した引きこもりに関する社会問題である。 概要 / 名付け親は大阪府豊中市社会福祉協議会所属のコミュニティ・ソーシャルワーカー勝部麗子である。 引きこもりの若者が存在していたがこれが長期化すれば親も高齢となり、収入に関してや介護に関してなどの問題が発生するようになる。これは80代の親と50代の子の親子関係での問題であることから「8050問題」と呼ばれるようになった。該当している親子の親には収入がなくなっている状態であり、様々な理由から外部への相談も難しく、親子で社会から孤立した状態に陥っている。 (8050問題 – Wikipedia)
関連サイト
ひきこもりクライシス “100万人”のサバイバル|NHK NEWS WEB – NHKオンライン
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北海道美幌町の災害ボランティアセンターについて
北海道美幌町の災害ボランティアセンターについて
災害ボランティアセンター立ち上げ機能訓練
参加は、美幌町内の方のみです。
参加料300円は、防災グッズ・保険料等。
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12月6日・災害ボランティアセンターフォーラム 2019/11/28掲載(美幌町/告知)美幌町民会館で / 美幌町災害ボランティアセンターフォーラムが12月6日(金)午後6時から8時まで美幌町民会館で開かれる。主催は美幌町たすけあいチーム活動推進協議会、美幌町自治会連合会福祉部会など。災害時に重要な自助力、共助力を学ぶ狙い。10月の台風で被害を受けた千葉県鋸南町の災害ボランティアセンターに派遣された美幌町社会福祉協議会の男性が帰任報告。厚真町社会福祉協議会の女性んが「住民力、そのときワタシはどう動く~まちに懸ける架け橋」をテーマに講演する。主催者側は事前の申し込みを呼びかけている。申し込みは協議会(0152・72・1165)へ。 (オホーツクの日刊フリーペーパー経済の伝書鳩)
27日・災害ボラセンター立ち上げの訓練を実施 2019/10/25掲載(美幌町/告知) 美幌町社協がマナビティーセンターなどで / 美幌町社会福祉協議会は27日(日)午前9時から、マナビティーセンターなどで災害ボランティアセンター立ち上げ機能訓練を初めて実施する。関係機関の職員や町民の参加を募り、被災時に訪れるボランティアらの調整などセンターの運営を訓練して災害時の対応力に磨きをかける。 センターは、災害時に社会福祉協議会が中心になって開設。全国から支援に集まる災害ボランティアと社会福祉協議会職員の支援の調整を担い、重要性が増している。センターの運営には地域を知る住民の力が不可欠なため、町民の参加を募って訓練を行う。 訓練は美幌町=ボランティアセンター運営委員会が主管。協議会役員や運営委員会委員をはじめ、民生委員児童委員、日本赤十字奉仕団美幌支部とたすけあいチームのメンバーが災害ボランティアセンターを運営する。町民は災害ボランティアとして旧美英福祉寮に派遣され、家財の搬出や原状回復、水出しや泥出し、炊き出しを行う。 センターに関するスライドの上映や炊き出しの試食も行う。 協議会は昨年9月と10月、胆振東部地震で被災した胆振管内厚真町の災害ボランティアセンターに職員を派遣。今年2月には、上川管内上川町で行われたセンター立ち上げ訓練にも職員を派遣した。 協議会は訓練参加を受け付けている。対象は小学生以上。参加料は300円。小中高生は無料。申し込みは協議会(0152・72・1165)へ。(浩) (オホーツクのフリーペーパー経済の伝書鳩)
災害ボランティアセンター(さいがいボランティアセンター)は、主に災害発生時のボランティア活動を効率よく推進するための組織である。 平常時においても常設されている組織がいくつかあり、この場合は、災害予防に関するボランティアの養成や市民向け防災教育訓練、防災啓蒙活動を行うボランティアの拠点の性格も有する。 1995年阪神・淡路大震災や1997年ナホトカ号重油流出事故で多くのボランティアが参集し、わが国で災害ボランティア活動が本格化したが、このとき、被災者支援などにおいてニーズに対して効率よくボランティアを派遣・調整する組織が必要とされ、災害ボランティアセンターが誕生。その後、大きな災害に見舞われた被災地に立ち上げられ、運営されるようになった。 2011(平成23)年3月11日に起こった東日本大震災では、日本のみならず世界から多くのボランティアが駆け付け活動した。 災害ボランティアセンターの設置者と役割 / 災害ボランティアセンターは一般的に、被災した地域の社会福祉協議会やボランティア活動に関わっている関係団体、行政が協働して担うことが多い。被災地外から支援に駆けつける災害ボランティアセンターの運営経験者・団体が関わる場合もある。 主な役割としては、被災地でのニーズの把握(家の片づけ、避難所運営の手伝いなど)、ボランティアの受け入れ(ボランティア活動を希望する人の受付、情報提供、必要なボランティアの人数などの調整、ボランティアバスの受け入れなど)、人数調整・資機材の貸し出し(活動のために道具が必要な場合、それらを準備して貸し出し)、活動の実施(ボランティアによる家屋や避難所などで活動支援)、報告・振り返り(活動の総括、その後の活動ための教訓・情報整理など)となる。 なお、前述の社会福祉協議会(社会福祉法人。略称「社協(しゃきょう)」は、民間の社会福祉活動を推進している組織で、全国・都道府県・市区町村ごとに設置されている。日ごろから地域で各種福祉サービスや相談活動、ボランティアや市民活動の支援、共同募金運動への協力など、地域特性を踏まえた独自の事業を行い、地元の自治会・町内会、ボランティア団体などとの密接した連携を保っていることから、災害時に、ボランティア連絡協議会など、ボランティア活動に関わっている人やNPO、行政と協働で災害ボランティアセンターの運営に関わることが多い。 (災害ボランティアセンター – Wikipedia)
関連動画
災害ボランティアセンター運営入門 (1/6) はじめに – YouTube
災害ボランティアセンター運営入門 (2/6) ニーズ班 – YouTube
災害ボランティアセンター運営入門 (3/6) 受付班 – YouTube
災害ボランティアセンター運営入門 (4/6) マッチング班 – YouTube
災害ボランティアセンター運営入門 (5/6) 車両資材班 – YouTube
災害ボランティアセンター運営入門(6/6) 総務班 – YouTube
関連サイト
ボランティアセーについて | 美幌町社会福祉協議会ホームページ
平成30年度事業報告書(ファイル) – 美幌町社会福祉協議会
北海道被災者支援のためのボランティア情報
北海道災害ボランティアセンター | 北海道災ボラのホームページ
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災害ボランティアセンター の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫
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2019年(令和元年) 10月25日(金曜日) 北海道美幌町の配食サービス
2019年(令和元年) 10月25日(金曜日) 北海道美幌町の配食サービス
金曜日の宅配弁当 美幌町の気楽家(きらくや)
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配食サービス / 調理や外出(買い物)が困難な高齢者世帯・障がい者世帯へ、安否確認を兼ねて週3回、食事を届けるサービスです。 配食日 毎週月曜日・水曜日・金曜日 配達時間 午後2時30分~4時30分(配達時間の指定はできません) 利用料金 500円(課税状況により町から助成があります) 利用には、申請が必要です。 詳細は、社会福祉協議会へお問い合わせください。 (配食サービス | 美幌町社会福祉協議会ホームページ)
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ここはどこ? 私は誰? (健忘症 老人性認知症)
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健忘(けんぼう、Amnesia)は記憶障害のうち、特に宣言的記憶の障害された状態を指す。宣言的記憶(陳述記憶)とは記憶のうち言語で表現できる種類のもの、エピソード記憶や意味記憶のことである。 一般的に言う「もの忘れ」から「記憶喪失」まで含んだ概念である。 なお、この「健忘」の「健」は「甚だ」の意であり、「健闘」の「健」と同様である。 認知症(痴呆) 認知症で健忘は必発であり、初期からみられる。また、神経の変性疾患で健忘そのものが症状である疾患もこれに分類される。 (健忘 – Wikipedia)
認知症(にんちしょう、英: Dementia、独: Demenz)は認知障害の一種であり、後天的な脳の器質的障害により、いったん正常に発達した知能が不可逆的に低下した状態である。認知症は犬や猫などヒト以外でも発症する。狭義では「知能が後天的に低下した状態」の事を指すが、医学的には「知能」の他に「記憶」「見当識」を含む認知障害や「人格変化」などを伴った症候群として定義される。これに比し、先天的に脳の器質的障害があり、運動の障害や知能発達面での障害などが現れる状態は知的障害、先天的に認知の障害がある場合は認知障害という。単に老化に伴って物覚えが悪くなるといった誰にでも起きる現象は含まず、病的に能力が低下して性格の先鋭化、強い承認欲求、理性的思考力衰退、被害妄想を招く症状をさす。 現在の医学において、認知症を治療する方法はまだ見つかっていない。安全で効果的な治療法を模索する研究が行われているが、その歩みは難航している。 (認知症 – Wikipedia)
老人性認知症(ろうじんせいにんちしょう)は、認知症のうち、加齢の寄与が多いと思われる状態。老年痴呆とも。 概要 / 一般に脳及び精神に関する疾患は、患者本人の具体的意思を尊重し専門医が問診・診察及び診断をするが、このような疾患をもつ者は、その発言及び行動の一部、時として全てが、おおよそ一般の健康な状態の人たち(健康な状態かの解り易い判断は、向精神病薬を常用している期間や副作用などの不快感で決まる)からの視点を中心にみている現実がある為、患者本人の真意が治療の根幹に触れているとは限らない。 また、患者本人は、家族、親戚、社会などあらゆる環境と調和することにかなりの労力と精神力、生命力の全てを費やして生きようとしている。しかし、患者本人は、先に挙げた数多くの不快感などの為、現在自分が、不快感を持っていることをも認識できないことはよくある。不快感を不快であると感じることの出来る脳の仕組みも機能しない時がある。不快感が、最もわかりづらい病状として躁鬱病・適応障害などが挙げられる。一見、一聴すると元気に見える、落ち込んでいるように見えるだけと周りから見過ごされ、判断されてしまう。しかし、本人は、絶望的に孤立する日常の連続である。 また高齢者の場合、躁鬱病や適応障害が、老人性痴呆症などと誤診されてしまっている例 がある。患者本人は、完全に近い状況で社会と自分の存在との間に大きな隔たりと絶望を日々感じて生きていかなければならないので、偶発的・自然的・突発的な自殺などのあり得る危険性に十分考慮し、優しく見つめ続け、患者本人の話していることや感じているものを正面から聴き受け入れることが治療の根本であり不可欠で基本的な姿勢である。また、このような疾患の人々の生活(衣食住・就学・就業・就労・婚姻などのあらゆる社会的な場面)で、信頼できる心の通じ合った人々が一人でも多くいると患者本人は救われやすいようである。 (老人性認知症 – Wikipedia)
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認知症の人が劇的変化! “アイコンタクト”パワー全開SP – NHK ガッテン
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認知症による徘徊(はいかい)について
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【動画でわかる認知症】もし町で認知症の人に出会ったら… | NHK健康チャンネル
「認知症と徘徊(はいかい)の理由」(視点・論点) – NHK
行方のわからない認知症高齢者等をお探しの方へ | 厚生労働省ホームページ
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聴覚過敏・聴覚過敏症について
聴覚過敏・聴覚過敏症について
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聴覚過敏(ちょうかくかびん、英: hyperacusis)は、大抵の人が十分我慢できる音を、苦痛を伴う異常な音として経験することである。耳の病理と関係する生理学的な要素だけでなく、心理学的な要素も含まれている。 聴覚過敏症、音過敏(おとかびん)ともよばれる。普通の環境音に対する耐性が失われることもある。重度の聴覚過敏では、他の人々にとって何の問題もない音声が、患者にとってのみ不愉快で苦痛を伴う音として聴こえる。苦痛軽減のための専用のイヤーマフや聴覚プロテクターも販売されている。それらの保護具には聴覚過敏保護用シンボルマークが付されていることもある。 (聴覚過敏 – Wikipedia)
関連サイト
聴覚が過敏「音」で極端に疲れる:困りごとのトリセツ(取扱説明書)|発達障害プロジェクト – NHK
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