国立療養所美幌病院 の検索結果: 7 件

北海道美幌町在住の医師 吉野勝夫 / 秋の叙勲

北海道美幌町在住の医師 吉野勝夫 / 秋の叙勲

北海道美幌町在住の医師・吉野勝夫さんは、日本の心臓血管外科医・札幌医科大学名誉教授の和田寿郎さんの最後の門下生です。

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秋の叙勲 2019/12/09掲載(美幌町/本誌連載)配布エリア受章者の横顔紹介 美幌・吉野 勝夫さん(78) / 受章は妻や多くの人のおかげ 国立療養所で結核などの診療に尽力 保健衛生功労で瑞宝中綬章 / 美幌町在住の医師、吉野勝夫(よしお)さん(78)は、国立療養所で結核などの診療に尽力した功労が認められ瑞宝中綬章を受章した。東京都出身で札幌医大卒。専門は胸部・心臓血管外科。医大などでの勤務を経て1970年から国立療養所帯広病院、85年から2003年まで院長として美幌病院に勤めた。「美幌病院時代は医師が少なく、今では考えられないほど忙しかった。家族とは一緒に朝食をとれたら良いほう。学会に妻を連れて行くのが旅行代わりだった」。結核診療は薬や予防接種などが登場し、時代とともに進み、軽い症状なら薬で治るように。「美幌病院時代にゼロになった」と振り返る。美幌病院退職後も、この地域で医療に携わる。現在は介護老人保健施設アメニティ美幌施設長。「受章は皆さんのお陰。妻にも感謝したい。地域には医師が少ないこともあり、体が動き、頭が働くうちは頑張りたい」と話している。(浩) (オホーツクの日刊フリーペーパー経済の伝書鳩)

関連エントリ

美幌の歌~大塚盈(みつる) – 美幌音楽人 加藤雅夫

国立療養所美幌病院 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

和田寿郎 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

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国立療養所美幌病院について (北海道美幌町)

国立療養所美幌病院について (北海道美幌町)

1947年(昭和22年) 国立療養所美幌病院の開設。建物は、日本海軍・美幌海軍航空隊の建物。この年は、美幌音楽人 加藤雅夫が誕生。

1972年(昭和47年) 国立療養所美幌病院で慰問演奏会開催。小林啓一郎指揮 クシロマンドリンクラブ(北海道釧路市)。美幌ギター愛好会(美幌マンドリンクラブ、美幌ギター・マンドリン協会、オホーツクマンドリンアンサンブル)。美幌音楽人 加藤雅夫(25歳)。慰問コンサート終了後の1か月後に風邪をこじらせて国立療養所美幌病院の一般病棟に入院。入院患者たちは「あなた、この間、慰問演奏に来た人ですね、今度は入院しに来たの? ギターを持ってきたの?」私は「はい、ギター・マンドリンを持ってきました」。

国立療養所美幌病院には15年・20年の長期の入院患者たちがいました。国立療養所美幌病院附属の看護学校・准看護学校があり数十人の学生がいました。学生たちは、美幌高等学校定時制に通っていました。毎日、皆さんのためにギターを演奏しました。学生たちは、退院後にギター・マンドリンを習いに来てくれました。

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国立病院・国立療養所の一覧 ウィキメディアの一覧記事 / 日本の国立病院・国立療養所の一覧(こくりつびょういん・こくりつりょうようじょのいちらん)を下に示す。 北海道 / 国立療養所美幌病院(美幌町)2005年3月1日、経営移譲し美幌療育病院が開院した。 (国立病院・国立療養所の一覧 – Wikipedia)

国立療養所 ウィキメディアの曖昧さ回避ページ / 国立療養所(こくりつりょうようしょ)は、第二次世界大戦後に設置された長期入院患者向けの国立医療施設である。 1945年、50傷痍軍人療養所(結核36・精神3・脊髄1・温泉10)が厚生省に所管替えとなり、1947年には95結核療養所が日本医療団から厚生省に移管されて、国立療養所の体系が形成された。厚生省(のち厚生労働省)の附属機関(のち施設等機関)に位置づけられ、医療の専門化高度化に伴い整備・再編が進められた。2004年、独立行政法人化により多くが国立病院機構に改編された。 (国立療養所 – Wikipedia)

関連サイト

施設案内(病院の概要) – 美幌療育病院のホームページ

【美幌駐屯地】 陸上自衛隊 第5旅団ホームページ – 防衛省・自衛隊

関連エントリ

国立療養所美幌病院 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

美幌海軍航空隊 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

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美幌町 町史発刊のお知らせ(北海道網走郡)

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美幌町 町史発刊のお知らせ(北海道網走郡)

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「美幌町史」完成 30年間のできごと網羅 / 4月から販売 / 「美幌町史」が完成した。昭和62年度から平成27年度までの史実を中心にした新しい町史で、4月から販売を開始する。29年度に迎えた美幌町130年の記念事業として発刊。町史の発刊は平成元年度の「美幌町百年史」から29年ぶりで、町史編纂資料調査専門員が中心になり、26年6月から作業を進め、完成させた。「自治・行政」「商工・観光・労働」「教育」「文化・体育」「保健・医療・福祉」「社会基盤の整備」など全10編で構成。合併問題に揺れた「平成の大合併」、町内8つの小学校の統合・閉校、国立療養所美幌病院の経営移譲など、昭和62年以降の町のできごとを丹念につづっている。巻頭では、130年目の初日の出などカラー写真で美幌の史実を紹介している。A5判1227ページ。価格は町内在住者が3500円、町外在住者が4500円。役場庁舎2階まちづくりグループで販売し、着払いでの郵送にも応じる。購入した人のうち希望者には「美幌町百年史」を贈る。「百年史」は数に限りがある。詳しくは政策担当(TEL 0152-73-1111内線223)へ。(浩)(2018年3月31日の 記事経済の伝書鳩

美幌町史の販売について / 町では、美幌130年記念事業の一環として、前町史「美幌町百年史」以後の昭和62年度から平成27年度までの史実をまとめた「美幌町史〔昭和62~平成27年度〕」を発刊しました。(美幌町史の販売について | 美幌町

明治20年10月12日に戸長役場が開場されてから、美幌町は130年の歴史を重ねます。130年という長い歴史には、先人たちの開拓の苦労、発展への願い・喜びが込められており、それらが今日の美幌町の礎となっています。そしてこれらの歴史・思いは、親から子へ、子から孫へと受け継がれ、限りない未来へとつながっていきます。「ひとがつながる、みらいへつなげる ここにしかないまち びほろ」の将来像にあるように、美幌町のこれまで(歴史)とこれから(未来)を担う町民の皆さまと共に、平成29年度を美幌130年の祝賀の年としてここに特設ページを開設いたします。(美幌130年記念特設ページ | 美幌町

美幌町(びほろちょう)は、北海道オホーツク総合振興局管内にある町。概要 / 町名にはアイヌ語と「ピポロ」〔石・多い〕あるいは「ペホロ」〔水・多い〕の二説があり、特定しがたいとされる[3]。 陸上自衛隊の駐屯地があり、自然が豊かで降雪や災害が少なく、空港が近いことから道外からの移住者が多いのが特徴。地理 / 地形は網走川、およびその水系の河岸段丘および氾濫原に広がり、網走市と北見市のほぼ中間に位置する。人口の約9割が半径3キロの市街地に集中するコンパクトシティである。隣接する女満別空港から市街地までの移動時間は自動車で10分程度、石北本線や国道4路線、道道6路線が交わる道東交通の要衝の位置に当たる。日照率が高く、降雨量が少ないが、水道の水源地は、藻琴山から湧き出る女満別川上流であり、良好な水質を保っている。阿寒国立公園 / 山:藻琴山 / 川:網走川、美幌川、魚無川、女満別川、豊幌川、美幌川、石切川、鶯沢川、木禽川、駒生川、駒の沢川、トマップ川 / ダム:古梅ダム。歴史 / 1887年(明治20年) 美幌他5か村戸長役場を設置。1915年(大正4年)4月1日 美幌村、杵端辺(けねたんべ)村、古梅(ふるうめ)村、活汲(かっくみ)村、達媚(たっこぶ)村、飜木禽(ぽんききん)村が合併し、二級町村制施行、美幌村となる。1919年(大正8年)4月1日 活汲村、達媚村、飜木禽村の3大字を津別村(現津別町)として分村。1920年(大正9年) 美幌峠道路開通。1921年(大正11年)4月1日 津別村の一部を編入。1923年(大正13年)4月1日 一級町村制施行、美幌町となる。1934年(昭和9年) 美幌峠を含む阿寒一帯が国立公園に指定を受ける。経済 / 陸上自衛隊美幌駐屯地や日本甜菜製糖をはじめとする多くの食品工場があることから、関係者や家族(主に町外出身者)が多く暮らしており、経済活動にも少なからず影響を持っているとされる。さらに、自然が豊かで、降雪量が北海道の気候としては少ない部類に入り、自然災害が少なく、温和な環境である。そして、商業施設や交通、医療機関等の都市機能が充実しているため、町外はもとより、北海道での生活を求めた道外出身の移住者が多く在住している。(美幌町 – Wikipedia

関連サイト

北見工業大学図書館 » 美幌町

美幌町史 (美幌町): 1972|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

関連エントリ

町史 の検索結果 美幌音楽人 加藤雅夫

美幌町史 の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫

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イサドラの伝記映画「裸足のイサドラ」(映画音楽)

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イサドラの伝記映画「裸足のイサドラ」(映画音楽) / 1972年(昭和47年)、国立療養所美幌病院(北海道美幌町)慰問演奏会開催。小林啓一郎指揮 クシロマンドリンクラブ(北海道釧路市)。美幌ギター愛好会(美幌マンドリンクラブ、美幌ギター・マンドリン協会、オホーツクマンドリンアンサンブル)。

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イサドラ・ダンカン(Isadora Duncan, 1877年5月26日- 1927年9月14日)は、20世紀を代表するアメリカのダンサー。モダンダンスの祖でもあった。 生涯 / サンフランシスコで生まれる。イサドラの両親はアイルランド人で、音楽教師であった母親から音楽の基礎教育を受けた。早くから古典舞踊を学んだが、その慣習的な動きに満足できず自分自身の創作する自由な舞踊を考えた。アメリカでダンスの仕事を少しした後、ヨーロッパに渡った。フランソワ・デルサルトに強く影響を受け、また古代ギリシャの壷やパルテノンの壁画などから感化を受けており、当時のギリシャ・リバイバルの波に乗り新しいダンスを生み出した。衣装もギリシャ風のチュニックを用い、靴を用いず裸足で踊った。 ドイツのベルリンとフランスのパリ、そしてロシア革命後のモスクワにダンス学校を創立、20世紀のダンス、舞踊だけでなく身体表現の形そのものを変革したといわれ、「裸足のイサドラ」のあだ名で呼ばれた。 しかし、1927年9月14日にフランスのニース近郊で首にまいたスカーフが自動車の車輪に巻き込まれ、イサドラは転倒して惨死した。享年49歳。イサドラの遺体は荼毘に付され、遺灰がパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。 イサドラの舞踊は即興的な面が多く一定の理論を持たなかったため、その死と共に途絶えたが近代舞踊に多大な影響を与えた事は高く評価されている[2]。また、イサドラは大のカメラ嫌いとしても知られ、イサドラの舞踊を記録した動画映像は屋外で隠し撮りされたものが一つ存在するのみである。この映像は1995年3月25日に「映像の世紀第1集 20世紀の幕開け カメラは歴史の断片をとらえ始めた」で放送された。 1968年にはヴァネッサ・レッドグレイヴ主演でイサドラの伝記映画『裸足のイサドラ』が制作された。(Wikipedia ー イサドラ・ダンカン

『イサドラ』(Isadora)は、1976年に初演された全1幕のバレエ作品である。振付はモーリス・ベジャール、音楽はフレデリック・ショパン、ヨハネス・ブラームス、フランツ・リスト、フランツ・シューベルト、アレクサンドル・スクリャービンなど(バベッタ・クーパー選曲)、主演はマイヤ・プリセツカヤによる。20世紀前期を代表するダンサーで舞踊の変革者・モダンダンスの祖といわれるイサドラ・ダンカン(1877年5月26日 – 1927年9月14日)へのオマージュ作品である。(Wikipedia ー イサドラ

音楽動画

波乱の人生を歩んだダンサー「イサドラ・ダンカン」は踊りの際にクツを履かなかったことから「裸足のイサドラ」の異名を持ち、そして美しいプロポーションでのエロティック­なダンスは異様な迫力をもって観客を魅了したとの伝説が残されています。そのイサドラ役にはバネッサ・レッドグレイヴが当たりました。音楽担当はモーリス・ジャール。ここ­では、ドイツのバイオリニスト「ヘルムート・ツァハリアス」の演奏でお楽しみください。

Helmut Zacharias 映画「裸足のイサドラ」 Isadora(natumelow

Isadora – Paul Mauriat ポール・モーリアのイサドラ(:ovoushka

Isadora Duncan(stormieweather21)

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裸足のイサドラ の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫

イサドラ・ダンカン の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫

Isadora Duncan の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

映画音楽 の検索結果 美幌音楽人 加藤雅夫

美幌ギター愛好会 の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫

美幌マンドリンクラブ の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫

美幌ギターマンドリン協会 の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫

オホーツクマンドリンアンサンブル の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫

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イサドラ・ダンカン(Isadora Duncan, モダンダンスの母)

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今日は、母の日(日本)。20世紀を代表するアメリカのダンサーで「モダンダンスの母」といわれたイサドラ・ダンカン(Isadora Duncan,)を思い出しました。

映画音楽「裸足のイサドラ」との最初の出会いは、国立療養所美幌病院の講堂でした。慰問演奏会(1972)釧路マンドリンクラブ「毬藻の唄」「裸足のイサドラ」 美幌ギタークラブ「白鳥の湖」「太陽がいっぱい」。

写真: イサドラ・ダンカン(1877年5月26日- 1927年9月14日) イサドラ・ダンカンの墓(ペール・ラシェーズ墓地

イサドラ・ダンカン(Isadora Duncan, モダンダンスの母) の全文を読む

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小林啓一郎氏(JMU 日本マンドリン連盟顧問)年譜

北海道釧路市出身の音楽愛好家・小林啓一郎(JMU 日本マンドリン連盟顧問)を偲ぶ年譜を作成しました。小林啓一郎氏の「音楽普及・振興活動」(明治・大正・昭和・平成)をご覧ください。(美幌の加藤雅夫)

写真: 道民芸術祭で釧路マンドリンアンサンブルと美幌マンドリンクラブ共演(1990 美幌町民会館)

小林啓一郎氏(JMU 日本マンドリン連盟顧問)年譜 の全文を読む

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20代 1967〜

1969.7.20   アポロ11号 月面着陸

 

“That’s one small step for [a] man,
one giant leap for mankid.”  Neil Alden Armstrong

「一人の人間にとっては小さな一歩だが、
人類にとっては大きな飛躍だ」

                                            ニール・アームストロング船長(宇宙飛行士)の名言

 

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