ぼくどうして涙がでるの の検索結果: 2 件

ぼくどうして涙がでるの (北海道の 札幌医科大学附属病院・ノンフィクション)

ぼくどうして涙がでるの (北海道の 札幌医科大学附属病院・ノンフィクション)

1969年(昭和44年)10月、22歳の私は、札幌医科大学附属病院6階にある胸部外科の病棟に入院した。大人用の病室が満室だったので子供用の病室に入れられた。病室には二十歳の若者くん、中学生の男子、小学生の子供、4歳の子供、2歳の子供、6か月の赤ちゃん、三か月の赤ちゃんがいた。美幌町から来た赤ちゃんもいた。 皆さんは先天性の心疾患です。日本各地からやって来た。

私は、あいさつ代わりにギターを演奏した。ナースステーションから聴診器を拝借して、子供たちの耳にあててギターを演奏した。子供たちの顔色や爪色は悪いけれど、キラキラとした瞳はとても喜んでいた。毎日演奏した。皆は「ギターのお兄ちゃん、ありがとう」と言ってくれた。病気の苦しみは言わないけれど、ギター演奏の喜びは笑顔で表現してくれる。 脳性麻痺の重症患者(29歳)の男性が入院してきた。母親は「樺太からの引き揚げで息子(幼児)が高熱を出しました。手術後に献体します」と言った。その母子はクリスチャンだった。

当時、胸部外科の病棟では、月曜日から土曜日まで手術があった。私は七か月入院した。そして、26人の子供たちが死去した。午前中に子供たちは「ギターのお兄ちゃん、行ってきます」と言います。午後に看護師たちがベッドの荷物を持ち去ります。そして、次の患者が入ってきます。病院の近所の旅館で何日も待機していたそうです。私は、新しく来た子供たちにギター演奏できなくなった。

退院後、美幌の音楽仲間から「加藤さんのギターは悲しい音色ですね」と言われた。その後、私の娘が誕生してからは「悲しい音色ですね」と言われなくなった。

もう半世紀、50年経った。あのときのキラキラとした瞳の26人の子どもたちは、今も美幌音楽人加藤雅夫と共に生きている。(ギターのおじいちゃん 72歳)

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和田心臓移植事件(わだしんぞういしょくじけん)とは、1968年(昭和43年)8月8日に札幌医科大学で行われた、日本初の心臓移植手術をめぐる事件である。 (和田心臓移植事件 – Wikipedia)

和田 寿郎(わだ じゅろう Juro Wada、1922年3月11日 – 2011年2月14日[1])は、日本の心臓血管外科医。札幌医科大学名誉教授。ワダ弁(人工心弁)の開発や、後に「和田心臓移植事件」として様々な疑惑が浮上する日本初の心臓移植手術を執刀したことで有名な医師。 人物 / 北海道札幌市生まれ。医学の道を志し、旧制札幌第一中学校から北海道帝国大学予科を経て、同大学医学部を1944年(昭和19年)に首席で卒業した。 心臓外科医としての歩み1950年(昭和25年)に北大医学部講師を辞め、アメリカへ4年に亘る留学をする。ミネソタ州立大学、オハイオ州立大学胸部外科、ハーバード大学などで研鑽を積む。ミネソタでは、世界初の心臓移植を執刀した南アフリカのクリスチャン・バーナードと知己を得、さらに犬を使った動物実験で画期的な成功を収め、その後も世界の心臓移植を牽引し続けたノーマン・シャムウェイともここで知り合った。アメリカ留学の間に合理主義を培った。 1954年(昭和29年)に帰国。和田の母校である北大医学部は彼の復帰を受け入れなかった。それ以来、旧帝国大学系医学部に敵愾心を抱くようになったとも言われている。初代学長大野精七の招きで新設されたばかりの札幌医科大学助教授に就任。 1958年(昭和33年)に同医大に胸部外科が創設されると、36歳の若さで初代胸部外科教授となった。当時画期的だった人工弁「ワダ弁」を自身の考案によって開発し、弁置換術において日本一の実績を誇った。なお「ワダ弁」は、後にバーナードによる世界初の心臓移植手術にも用いられている。論文の数と術例の豊富さで、歴史と伝統を誇る北大医学部第二外科に対抗した。その後も人工心肺の心内直視下手術(開心術)における使用時間の向上とともに、心臓外科における未知の領域を開拓していった。例えば1968年(昭和43年)には大血管完全転移症に対する根治手術のひとつであるマスタード手術に日本で初めて成功している。 同年、日本初の心臓移植手術を執刀し、大きくその名を世間に知られるが、心臓移植の際にドナーとレシピエントをともに殺したのではないかという強い疑いをかけられる、いわゆる和田心臓移植事件で注目を浴び、殺人罪で刑事告発されている(不起訴処分)。 (和田寿郎 – Wikipedia)

関連サイト

和田寿郎教授心臓移植事件 – クール・スーサン(音楽 芸術 医学 人生 歴史)

関連エントリ

残疾人歳時記 – 美幌音楽人 加藤雅夫

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ぼくどうして涙がでるの (日本の映画・ノンフィクション)

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ぼくどうして涙がでるの (日本の映画・ノンフィクション)

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『ぼくどうして涙がでるの』は、『薔薇族』編集長として知られる伊藤文學と、その妹の伊藤紀子(みちこ)の共著によって1965年に第二書房から発表されたノンフィクション、また同名のテレビ映画、及び日活映画である。 書籍は紀子の闘病日記と文學の文章、また伊藤兄妹が受け取った手紙などを交えて構成されている。装幀は内藤ルネが担当。出版後には朝日新聞等で紹介され大きな反響を呼んだ。 内容 / 心臓病のための紀子の闘病生活と、その縁で伊藤兄妹が知り合った「芳っちゃん」をはじめとする心臓病の患者達との交流、また心臓病の子供たちのために「豆の木会」を創立する経緯が描かれている。1974年以後の版には紀子の復帰後の様子が描かれている。 芳っちゃんとの交流、紀子の手術 / 1962年10月24日に再設定された紀子の手術は再度延期になった。そして、10月の末にはファロー四徴症の5歳の男の子、野村芳和くんが紀子の401号室に入院した。これは子供用の病室が満室であったためであるが、結果、彼は文學と「芳っちゃん」「ブーン」と呼び合う仲になり、交流を深めていく。 12月10日、紀子の手術の直前、芳っちゃんは「お姉ちゃん、泣かないね」と指摘する。これはその病室に「手術の前に涙を見せた患者は病室に戻ってこれない」というジンクスがあり、手術の成功を示唆したものである。紀子の手術は予定時間を大幅に上回るが成功し、12月18日には集中治療室を出て病室に戻る。 芳っちゃんの手術 / 1963年1月24日、芳っちゃんの手術の前日、文學はかねてから頼まれていた『ジャックと豆の木』と『家なき子』の絵本を持って病室を訪れる。嬉しがる芳っちゃんは、手術が終わったら3日で病室に戻るから、その時には『名犬ラッシー』の絵本を持ってきて欲しいと文學にリクエストする。文學は指切りをして、絶対に戻ってくるように約束をさせる。 翌1月25日、芳っちゃんは手術室に向かう前に麻酔注射を受けるが、『ジャックと豆の木』の絵本を離さず、涙を流して「ぼく、どうして、涙がでるの、おしえてよ、かんごふさん」と言う。同席した一同はジンクスを思い出し、不安がるが、果たして芳っちゃんは手術中に死亡した。 (ぼくどうして涙がでるの – Wikipedia)

関連サイト

ぼくどうして涙がでるの | 映画 | 日活

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