2021 年のアーカイブ

12月の音楽 ある愛の歌(アメリカ合衆国の映画)

12月の音楽 ある愛の歌(アメリカ合衆国のも映画)

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ある愛の詩 / 『ある愛の詩』(あるあいのうた、英: Love Story)は、1970年のアメリカ合衆国の恋愛映画。 監督はアーサー・ヒラー、出演はライアン・オニールとアリ・マッグローなど。 有名なセリフ、”Love means never having to say you’re sorry.” とは「愛していれば後から謝ったりしなくていい。」という意味である。 (Wikipedia)

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フランシス・レイ の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

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12月の音楽 雪の中の戯れ Snow Frolic (Love Story)

Snow Frolic (Love Story)—Francis Lai
雪の中の戯れ(アメリカ合衆国の映画)ーフランシス・レイ

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Love Story (1970 film) – Wikipedia

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Francis Lai の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

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11月の歌 アダモの雪が降る

11月の歌 アダモの雪が降る

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雪が降る / 「雪が降る」(ゆきがふる、フランス語原題:Tombe la neige)は、イタリア生まれのベルギー人歌手サルヴァトール・アダモが歌ったフランス語の歌。アダモ自身が書いたもので、1963年にリリースされ、各国で大きなヒット曲となり、アダモにとって最もよく知られた代表曲のひとつとなった。 (Wikipedia)

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美幌町内で書道教室を開く横松静岳さん

美幌町内で書道教室を開く横松静岳さん

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手術のお礼に水墨画飾る
2021-11-17 掲載(美幌町/文化)
美幌の横松静岳さん、道立北見病院ロビーに
心臓の手術を受けたお礼がしたい−と、美幌町内で書道教室を開く横松静岳さん(82)が、北海道立北見病院1階ロビーに水墨画を展示した。龍や動物を描いた3点で「見る人に少しでも元気を届けられたら」と話している。
10月中旬に弓部大動脈瘤の手術を受け、下旬に無事、退院した。
特技の水墨画を生かして恩返しができたらと、作品を展示することに。龍が水しぶきを上げて天に昇るさまを描いた「活龍不滞水」(かつりゅうみずにとどこおらず)をはじめ、毎年描いてきた干支(えと)の中から、午(うま)と、来年の「寅」を選んだ。いずれも生き物の活力あふれる姿が描かれている。横松さんは「主治医の先生をはじめ、病院の皆さんに大変お世話になった。訪れた人が見て、少しでも元気になってくれたら」と話している。展示は25日午後まで。(浩) (経済の伝書鳩)

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日本書道研究会賞 溝渕孔翠さん (北海道美幌町) – 美幌音楽人 加藤雅夫

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11月の歌 見上げてごらん夜の星を


11月の歌 見上げてごらん夜の星を

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見上げてごらん夜の星を (曲) / 「見上げてごらん夜の星を」(みあげてごらんよるのほしを)は、1960年に初演されたミュージカル『見上げてごらん夜の星を』の劇中主題歌。作詞永六輔、作曲いずみたく。1963年、坂本九のカバーがヒットし第5回日本レコード大賞作曲賞を受賞。坂本の代表曲であり、後に数多くのアーティストにカバーされた。1987年には日本の中学生向け音楽教科書に、1984年以後は高校生向け音楽教科書に何度か掲載されている。2002年、全国の天文台が行ったインターネット調査で「『星』で思いつく歌」という質問に対して、ディズニー映画ピノキオのテーマ曲「星に願いを」に次いで、本楽曲が2位に選出。日本の歌百選。 (Wikipedia)

見上げてごらん夜の星を / 『見上げてごらん夜の星を』(みあげてごらんよるのほしを)は、日本のミュージカル、およびその劇中主題歌をモチーフにした映画。 ミュージカル / 夜間高校生たちのさまざまな青春像がテーマ。音楽はいずみたくで、本作がミュージカル処女作。台本・演出は自身もボランティアとして江東区の定時制高校に通った永六輔。当時音楽鑑賞団体の舞台監督であった永が、日本ではなじみの薄いミュージカルを広めようと、いずみに企画を持ちかけた。初演当時は集団就職時代で、全国から上京した若者たちは働きながらも向学心に燃える者が少なくなかった。定時制高校に通う坂本と昼間部の生徒ユミコは、教室の机を通じた文通をきっかけに交流してゆく。物語はそのような定時制高校生の生活を描き、普通高校へのコンプレックスを感じ、苦労をしながらも学べる喜びと楽しさが表現されている。テーマソング「見上げてごらん夜の星を」が坂本九の歌でヒットし、全国の高校演劇部で上演回数がもっとも多くなるなど、ミュージカルのスタンダード的存在になった。 (Wikipedia)

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六八九トリオ 上を向いて歩こう – 美幌音楽人 加藤雅夫

坂本九の小惑星、見上げてごらん夜の星を – 美幌音楽人加藤雅夫

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懐かしい美幌の映像上映 美幌博物館

懐かしい美幌の映像上映 美幌博物館

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1930〜70年代…懐かしい美幌の映像上映
2021-11-15 掲載(美幌町/文化)
美幌博物館2階ロビーで30日まで
主に昭和初期の懐かしい美幌の映像が、美幌博物館2階ロビーで上映されている。
町民が記録し、寄せられた映像を約25分間にまとめ、繰り返し上映。1936(昭和11)年に旧美幌中学校近くの「美英の丘」で開かれたスキージャンプ大会、41年に開かれた役場職員らの草野球の試合など、戦前の美幌の様子を収めた9・5㍉フィルムの貴重な映像が見られる。
50年代後半〜60年代前半とみられる市街地の風景や、60年代後半〜70年代前半の小学校など8㍉フィルムの映像も見ることができる。
映像は、新型コロナウイルスワクチンの集団接種で会場を訪れた高齢者らに、接種後の待機時間などに見てもらおうと編集。好評だったため内容をさらに充実させた。
このほか、明治から大正、昭和にかけての写真を収めた冊子も置かれている。入場無料で、30日まで。(浩) (経済の伝書鳩)

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美幌博物館 | 美幌町

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美幌博物館 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

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日本映画の主題歌 あゝ洞爺丸

日本映画の主題歌 あゝ洞爺丸

歌 / 渡辺はま子
作詞 / 吉川静夫
作曲 / 清水保雄

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洞爺丸事故 1954年に日本の函館港沖で発生した海難事故 / 洞爺丸事故(とうやまるじこ)は、1954年(昭和29年)9月26日に青函航路で台風第15号(洞爺丸台風)により起こった、日本国有鉄道(国鉄)の青函連絡船洞爺丸が沈没した海難事故である。死者・行方不明者あわせて1155人[注 1]に及ぶ、日本海難史上最大の惨事となった。本事故を題材とした作品 / あゝ洞爺丸 (1954年に公開された東映製作の映画。監督は小沢茂弘。) (Wikipedia)

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あゝ洞爺丸

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洞爺丸事故 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

渡辺はま子 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

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父の遺品から67年前の文集発見

父の遺品から67年前の文集発見

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父の遺品から67年前の文集発見
2021-11-12 掲載
(網走市/歴史網走の男性)
訓子府町にあった南訓小中学校(小学校は昭和47年、中学校は同41年に閉校)で67年前に発行された文集「しらかば」創刊号を、網走市の男性が発見した。文集は茶褐色に変色しているものの、破れや折れなどはなく良好な状態。男性は、複写した創刊号を南訓校の卒業生らに送ったところ「泣きながら読まれた方もいました」という。
訓子府の南訓小中学校「しらかば」創刊号
児童・生徒の思い現代に伝える
創刊号の表紙
文集「しらかば」は、昭和29年11月に創刊。当時の古川信美校長の子どもで、網走市に住む79歳男性が発見した。「父の遺品を私の自宅で整理していた時に偶然見つけました」と振り返る。発行から70年ほどが経過しているため変色しているが、破れたり、折れている部分は皆無だ。
創刊号は30ページ。ガリ版印刷で、子どもたちが考えた句や詩、作文など約30作を掲載している。文集を作成した目的について、当時の古川校長は創刊号の巻頭ページで「作文を通して、人間を磨くための一端として、此処に文集刊行の計画を樹てて(原文ママ)くれたことは、誠に喜ばしい次第」などと記し、言葉と文字で表現することで「人間をみがく」ことに重点を置いたようだ。
収録作品の一つで作文「荒れ狂う夜海で死んだ兄さん」(中1の女子生徒)は、青函連絡船・洞爺丸の転覆事故で兄を失った切ない心情が書かれている。洞爺丸事故は、この文集が創刊される2カ月ほど前の昭和29年9月26日に発生し、死者行方不明者は1155人で日本海難事故史上最大とされる。
このほか、小6男子児童の作文「網走まで」は、学校行事としての鉄道旅行の思い出を綴った。
「美幌あたりまで行ったら、もう網走に着くかと思って、汽車には、もうじっとしてられなかった〜中略〜女満別あたりにいった時、湖がちらくと見え出し、僕達は、海だとばかり思っていると、それは、違って、湖であった。これで湖なら海はどの位でかいと思って、なほく早く網走に着けばいゝと思った」などと記されている。
当時の訓子府の子どもにとって網走は遠い所にあり、海を実際に見る機会は少なかったことがうかがえる。
男性は複写した創刊号を南訓校の卒業生数人に送ったところ「涙を流しながら読み進めたという人もいました。発見できてよかったです」と喜んでいる。(大)
(経済の伝書鳩)7

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新江繁規さん 激戦地ガダルカナル島の日章旗

新江繁規さん 激戦地ガダルカナル島の日章旗

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兄ちゃん、お帰り
2021-11-10 掲載(北見市/社会)
北見市常呂の新江繁規さん遺品
太平洋戦争で旭川の陸軍支隊に所属し、激戦地ガダルカナル島で1942(昭和17)年に戦死した、北見市常呂の新江(あらえ)繁規さんが戦地で持っていた日章旗が6日、同市在住の妹ら遺族のもとに返還された。旧日本兵の遺品返還を進める米国の非営利団体OBON(オボン)ソサエティが日本の遺族会の協力を得て実現。81年を経て故郷に帰ってきた兄の生きた証を握りしめ、妹達は「兄ちゃんに会えた」と涙を流し、受け取った。
約80年経て日章旗が妹らの元へ
激戦地ガダルカナルで戦死
米国OBONソサエティの仲介で返還
遺族の3姉妹と仲介したOBONソサエティの工藤さん(左)
 当時の常呂村豊浜の新江家に生まれた繁規さんは20歳で徴兵検査に合格し、21歳で旭川の部隊に入営するため、働いていた夕張炭鉱を出征。その際に同僚らが寄せ書きした日章旗と思われる。武運長久、七生報國など気持ちを高ぶらせる言葉が並ぶ。
そのとき13歳だった三女の中股かず子さん(93、北見市常呂)は、いったん故郷・常呂に帰ってからの出征を網走駅まで見送りに行った。五女の渡部規子さん(85、江別市)は6歳で「お風呂に入れてくれたり、いい人でした」、六女の工藤早苗さん(80、札幌市)は「市松人形を買ってくれました」とそれぞれ思い出を語る。
新江さんは旭川で一木支隊に配属。OBONソサエティと日本遺族会常呂支部によると「一木支隊には、この地方からかなり配属になり、熊部隊と呼ばれ強健で、畏れられた」という。42(昭和17)年8月に空港奪還の命令でガダルカナル島に上陸侵攻したが、まちぶせに遭い、先発隊の多数が壊滅した。
元米軍パイロットの米ルイジアナ州に住む親族がテレビで遺品返還の活動を知り2019年に同団体に連絡。札幌在住の同団体日本スタッフ・工藤公督さんが「新江という珍しい名前を頼りに」探し出したそう。道内では4例目の返還となった。親族は米国から遺族宛に「心のくぎりとなりますように」とビデオメッセージを寄せた。
6日、市常呂老人いこいの家に妹ら家族3人が集まり、辻直孝市長を通じて返還された。同遺族会の土本勝昭常呂支部長が「お兄さんが帰って来たね」と声を掛けると、中股さんは涙を旗で隠した。そして「兄の形見であり宝ものです。仏壇に供え、みんなで兄ちゃんをしのびたい」とお礼の言葉を述べた。(寒) (経済の伝書鳩)

ガダルカナル島の戦い 1942年にソロモン諸島のガダルカナル島で日本軍と連合軍が行った第二次世界大戦中の戦い / ガダルカナル島の戦い(ガダルカナルとうのたたかい、Battle of Guadalcanal)は、第二次世界大戦において1942(昭和17)年8月以降日本軍と連合軍が西太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島を巡って繰り広げた戦いである。ミッドウェー海戦と共に太平洋戦争における攻守の転換点となった。日本側は激しい消耗戦により、戦死者だけでなく兵員に多数の餓死者を発生させたうえ、軍艦、航空機、燃料、武器等多くを失った。 (Wikipedia)

関連サイト

旧日本兵の日章旗、古里の常呂に住む妹へ 元米兵の親族が保管 道内4例目 – 北海道新聞社

北見市出身の男性 日章旗が79年ぶり 遺族に返還 – NHK

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高浜虚子 オホーツクの句碑

高浜虚子 オホーツクの句碑

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連載 オホーツクの句碑
2021-11-09 掲載
(北見市/本誌連載・歴史)
皆降りて 北見富士見る 旅の秋
俳人・高浜虚子 JR留辺蘂駅前広場
碑文には「列車の窓越しからわずかに見えた北見富士を、停車中のプラットホームにわざわざ降り立って、その端麗な姿をあらためて遠望した様子であろう」とある。
高浜虚子(本名・高浜清)は、1874(明治7)年愛媛県生まれの俳人・小説家。近代俳句の代表的な俳人の1人として知られている。正岡子規に俳句を教わり、正岡子規の友人が創刊した俳誌「ホトトギス(ほととぎす)」を引き継いだ。「ホトトギス派」は数多くの俳人を輩出し、一大勢力となった。北見の俳人・唐笠何蝶は、門下生。
虚子は全国各地で俳句の指導や講演を行っており、句碑の俳句も1933(昭和8)年に旭川で開催された俳句の大会に講師として訪れ、層雲峡での吟行後に駅を訪れた時の作品と見られている。
句碑は線路が見える場所に設置され、虚子が訪れたことを伝えるとともに、到着する列車を迎え続けている。(菊) (経済の伝書鳩)

高浜虚子 日本の俳人、小説家 / 高浜 虚子(たかはま きょし、旧字体: 高濱 虛子、1874年〈明治7年〉2月22日 – 1959年〈昭和34年〉4月8日)は、明治・大正・昭和の3代にわたる俳人・小説家。本名は高浜 清(たかはま きよし、旧字体: 高濱 淸)。 (Wikipedia)

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オホーツクの句碑 の検索結果 美幌音楽人 加藤雅夫

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