オホーツクの句碑 の検索結果: 5 件

高浜虚子 オホーツクの句碑

高浜虚子 オホーツクの句碑

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連載 オホーツクの句碑
2021-11-09 掲載
(北見市/本誌連載・歴史)
皆降りて 北見富士見る 旅の秋
俳人・高浜虚子 JR留辺蘂駅前広場
碑文には「列車の窓越しからわずかに見えた北見富士を、停車中のプラットホームにわざわざ降り立って、その端麗な姿をあらためて遠望した様子であろう」とある。
高浜虚子(本名・高浜清)は、1874(明治7)年愛媛県生まれの俳人・小説家。近代俳句の代表的な俳人の1人として知られている。正岡子規に俳句を教わり、正岡子規の友人が創刊した俳誌「ホトトギス(ほととぎす)」を引き継いだ。「ホトトギス派」は数多くの俳人を輩出し、一大勢力となった。北見の俳人・唐笠何蝶は、門下生。
虚子は全国各地で俳句の指導や講演を行っており、句碑の俳句も1933(昭和8)年に旭川で開催された俳句の大会に講師として訪れ、層雲峡での吟行後に駅を訪れた時の作品と見られている。
句碑は線路が見える場所に設置され、虚子が訪れたことを伝えるとともに、到着する列車を迎え続けている。(菊) (経済の伝書鳩)

高浜虚子 日本の俳人、小説家 / 高浜 虚子(たかはま きょし、旧字体: 高濱 虛子、1874年〈明治7年〉2月22日 – 1959年〈昭和34年〉4月8日)は、明治・大正・昭和の3代にわたる俳人・小説家。本名は高浜 清(たかはま きよし、旧字体: 高濱 淸)。 (Wikipedia)

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オホーツクの句碑 の検索結果 美幌音楽人 加藤雅夫

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名塩呑空 オホーツクの句碑

名塩呑空 オホーツクの句碑

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連載 オホーツクの句碑 2021-10-04 掲載(北見市/本誌連載・歴史) 美しく 花野にくるひ 羅臼川 / ナシオ創業者・名塩呑空 北海学園北見校地(北見) / 花が咲き乱れる原野に羅臼川が流れている様子を詠んだ句だという(花野は秋の季語)。名塩呑空(本名・良造)は1883(明治16)年、大阪で生まれた。1911(明治44)年に北見で雑貨店を開業し、14(大正3)年に菓子問屋の名塩商店(株式会社ナシオ)を設立。42(昭和17)年には「志のある子ども達のために図書館を」と、駅前にあった店舗を市に寄贈し、北見市に図書館が誕生した。俳人としても知られており、北見の俳句仲間、唐笠何蝶や吉岡秋帆詠らと俳誌「阿寒」を創刊するなど、熱心に活動。市立中央図書館には功績をたたえ、胸像とともに俳板が設置されている。句碑はもともと、1958(昭和33)年に市内の河西ぼたん園に建立されたが、85年に現在地に移設。同校地内の茶室(研修施設)入り口付近で、今も堂々としたたたずまいを見せている。※同校地内は私有地のため、一般は見ることができません。 (経済の伝書鳩)

関連サイト

名塩良造 – 株式会社 ナシオ

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嶋田摩耶子 オホーツクの句碑

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連載 オホーツクの句碑 2021/02/15掲載(北見市/本誌連載・歴史)ピアソン記念館(北見) / 雪止んで 景色止まって をりにけり 嶋田摩耶子 / 降っていた雪がぴたりと止んで、青空と静寂による美しい景色が広がっている様子を詠んだ。ピアソン邸での思い出を句にしたと思われる。嶋田摩耶子(まやこ、1928~2012)は、宮城県生まれ。ホトトギス派の俳人であり、医師でもある唐笠学(雅号・何蝶)氏の長女として生まれた。唐笠氏は、現ピアソン記念館の建物を守ろうとピアソン邸を購入し、暮らした人物。父から俳句の手ほどきを受け、ホトトギス、玉藻に投句し、高浜虚子らからも指導を受けた。句碑は、2001(平成13)年にピアソン記念館30周年を記念して、唐笠氏、夫で医師・俳人の嶋田一歩(本名・力)氏と自分の三基を建立。建立前には夫とともに現地を訪れ、自ら入り口から見える柏の木の前を選んだという。句碑の後ろには「俳誌『阿寒』発祥の地」の文字が記され、北見の俳句文化を担った歴史を伝えている。(菊) (Wikipedia)

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ピアソン記念館 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

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唐笠何蝶 オホーツクの句碑

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連載 オホーツクの句碑 2021/02/11掲載(北見市/本誌連載・歴史) ピアソン記念館(北見) 大幹を 駆けのぼりつつ 吹雪かな / ピアソン邸を保存した唐笠何蝶 / 風と雪が激しく、まるで大樹を駆け上るように見える様子を表した句。北見俳句連盟の渡部彩風さんは「吹雪の凄まじさが句に現れている」と話す。唐笠何蝶は1902(明治35)年に神奈川県で生まれた。千葉大学医学部を卒業し、37(昭和12)年に野付牛町(現北見市)で産婦人科を開業。建物を保存したいと、ピアソン邸(現ピアソン記念館)を購入して暮らした。高浜虚子の門下生で、ホトトギス派の俳人としても活躍。ピアソン邸で句会を開いたり、俳誌「阿寒」を発行するなど活動し、『唐笠何蝶』の名前は全国にも知られるようになっていったという。NPO法人ピアソン会は功績をたたえ、2001(平成13)年に庭園に句碑を建立。かつて何蝶が暮らした美しい建物と庭を眺めるように、句碑が静かに佇んでいる。(菊) (Wikipedia)

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ピアソン記念館 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

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臼田亞浪 オホーツクの句碑

臼田亞浪 オホーツクの句碑

連載 オホーツクの句碑 2021/02/19掲載(網走市/本誌連載・歴史) 臼田亞浪 天都山(網走) 今日も暮るる 吹雪の底の 大日輪 / 1924(大正13)年に網走を訪れた俳人の臼田亞浪が、網走の雄大な大自然を前に詠んだと言われている。臼田亞浪(1879年~1951年)は、長野県出身。大学在中に短歌、俳句を学び、記者などを経て俳人として活躍。俳誌を創刊するなど活動し、全国に句碑が建立されている。網走の句碑は1957(昭和32)年、管内でも歴史のある網走の俳句会「十七美会」が網走市内天都山に建立。オホーツク流氷館前のゆるい坂道を登った先、網走の街並みを見渡すかのように句碑が建っている。句碑に書かれた碑文によると、臼田亞浪が網走を訪れたのは1月。斜里の俳人を訪ねる旅の途中に立ち寄ったという。吹雪や夕日など冬の網走の美しさが感じられる句が、天都山を訪れた人達を出迎え続けている。(菊) (Wikipedia)

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