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髙見山大五郎(Takamiyama Daigorō)について
髙見山大五郎(Takamiyama Daigorō)について
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5月20日 歴史 / 1984年 外国人初の関取・高見山が引退。(5月20日 今日は何の日~毎日が記念日~)
5月20日 できごと / 1984年 – 外国人初の関取・高見山が引退。(5月20日 – Wikipedia)
髙見山 大五郎(たかみやま だいごろう、1944年6月16日 – )は、アメリカ合衆国ハワイ準州 (Territory of Hawaii) マウイ島出身で高砂部屋所属の元大相撲力士。最高位は東関脇。身長192cm、体重205kg。本名は渡辺 大五郎(わたなべ だいごろう)、米国名はJesse James Wailani Kuhaulua(ジェシー・ジェームス・ワイラニ・クハウルア)、愛称はジェシー。来歴 / 常々「40歳まで相撲をとりたい」「(当時建造中だった)両国国技館で相撲をとりたい」と語っていたが、1984年(昭和59年)5月場所、40歳まであと1ヶ月のところで力尽き、引退を表明する。両国国技館で相撲をとる夢も果たせなかった。引退宣言は場所中に唐突に行われたため、相撲ファン以外も驚かせマスコミで大きく取り上げられた。同場所千秋楽の最後の一番(玉龍戦)は黒星だったが、満員の観衆から大声援を受け、花道を引き揚げる際には花束も贈呈された。引退に際して「20年間、相撲を取り続けてきたことを誇りに思う」「生まれ変わっても力士になりたい」と力強く語った。中国・韓国(朝鮮)など東アジア圏の出身者を除けば、外国出身者として当時最も上位で活躍した力士であり、後の各国出身力士、特にハワイ勢(すなわちポリネシア勢)の活躍の道を開いた。アメリカ人らしい陽気さと巨体を持つのと同時に、異境での辛い修行に耐え忍ぶ古来の日本人のような生き方も広く知られ、相撲ファン以外にも絶大な人気があった。独特の長いもみあげなど特徴ある容貌も人気で、テレビCMに出演するなど土俵の外でも活躍した。弟弟子になる小錦を自らスカウトし、自分の弟子である曙を横綱まで育てるなど、大相撲の国際化にも大きく貢献した。ハワイ出身の関取としては、この他に大喜を育てた。最近は、高見盛の師匠としても知られ、師弟2代で角界の人気者となった。東関部屋師匠としては「礼儀正しくきちんと挨拶できる力士」「相撲は攻撃相撲」「お客さんを大切にする」というモットーを掲げていた。エピソード / 高見山が現役引退を表明した頃、日本相撲協会を管轄していた森喜朗文部大臣(当時)が、昭和天皇より「髙見山がなぜ辞めたのかね」「髙見山は残念だったろうな」との下問を受けた。そのことを後に森が髙見山に伝えると「もったいないです、もったいないです」と涙を流したという。NHK大相撲中継では英語での解説も務める(衛星第2テレビ放送)。横綱・大鵬と対戦した経験のある最後の現役力士だった。ただし、大鵬とは11回対戦したものの1度も勝てなかった。定年退職の際に「一番の思い出は曙が横綱になったことかな。師匠としては最高の瞬間だったし、今でも誇りに思う」と語った。(高見山大五郎 – Wikipedia)
Takamiyama Daigorō (髙見山 大五郎, born 16 June 1944 as Jesse James Wailani Kuhaulua in Maui, Hawaii) is a former sumo wrestler, the first foreign-born wrestler to win the top division championship (in 1972). His highest rank was sekiwake. His active career spanned twenty years from 1964 to 1984, and he set a number of longevity records, including most tournaments ranked in the top makuuchi division, and most consecutive top division appearances. He is also the first foreign-born wrestler ever to take charge of a training stable, founding Azumazeki stable in 1986. His most successful wrestler was fellow Hawaiian Akebono who reached the highest rank of yokozuna in 1993. He retired as a coach in 2009. Early life / Kuhaulua was born in Happy Valley, Maui to parents who were mostly of Hawaiian descent. Sumo career / Takamiyama made his professional debut in March 1964. He achieved The highlight of his career came in July 1972 when he won the tournament championship with a 13–2 record – the first foreigner ever to do so. Ranked at maegashira 4, he lost only to Kotozakura and Takanohana and defeated Asahikuni on the final day to finish one win ahead of Takanohana. A congratulatory letter from US President Richard Nixon was read out by the US Ambassador to Japan at the presentation ceremony, marking the only time that English has been officially spoken on the dohyō. Retirement from sumo / Takamiyama’s goal had always been to fight until the age of forty, but a serious elbow injury sustained in November 1983 caused him to fall to jūryō, and in May 1984, facing certain demotion to the third makushita division, he announced his retirement after twenty years in sumo. He was just a few weeks short of his fortieth birthday. He became a member of the Japan Sumo Association, with the name Azumazeki. To do so he had taken Japanese citizenship in 1980 and adopted the Japanese name Daigoro Watanabe, his wife’s family name. His farewell party at a local hotel in Tokyo on 6 June 2009 attracted 1000 guests, including Akebono and Konishiki. A congratulatory letter from US President Barack Obama was read out. (Takamiyama Daigorō ー Wikipedia)
関連サイト
日本を愛し敬う大きな紳士、高見山大五郎さん―「ハワイと日本、人々の歴史」第4回 | Myハワイ
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Takamiyama Daigorō の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫
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北見藤女子高等学校のオープンスクールについて
- 2018年05月19日(土) 0:32
- カテゴリ: お知らせ, オホーツク, 北海道, 北見市
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北見藤女子高等学校のオープンスクールについて
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北見藤女子高でオープンスクール 共学化に向け / 男子生徒も参加 / 来年4月から男女共学になる北見藤女子高校のオープンスクールが12日、同校で行われた。男子30人を含む管内の中学3年生と保護者ら約300人が参加。授業のカリキュラムや学校施設などの説明を受けた。同校は経営移譲により、来年度から「北見藤高等学校」に名称を変更し、共学校としてスタートする。この日は、同校の教諭が制服や校舎の改築による男子トイレの設置、コースの選択など、来年度から変わること、変わらないことを説明。同校の生徒、保護者もそれぞれの立場から学校生活を紹介した。参加した男子中学生は「思ったよりも明るい雰囲気で、先生や生徒の笑顔が印象的でした」「進学がしやすいのでは、と感じました」「机や椅子が新しく、勉強がしやすいと思いました」とそれぞれ感想を話していた。(菊)(2018年5月16日の記事 経済の伝書鳩)
オープンキャンパスとは、学校法人がその学校へ入学を希望・考慮している者に対して、施設内を公開し、学校への関心を深めて貰おうとする、入学促進イベントの一種。日本では、主に大学、専門学校、高等学校などが開催しているが、大学以外では「体験入学」や「オープンスクール」と称することが多い。似た制度でオープンカレッジがあるが、こちらは一般の人の生涯学習を目的にして大学が行う専門の講座のことである。(オープンキャンパス – Wikipedia)
北見藤女子高等学校(きたみふじじょし こうとうがっこう)は、北海道北見市三楽町にあるミッション系の私立女子高等学校。札幌市にある藤女子中学校・高等学校、旭川市にある旭川藤女子高等学校は姉妹校にあたる。学校法人藤学園が運営している。コースはキャリアが、2年次から、アクティブとフロンティアに、特進が、英語と特進に選択できることから、自分に合った進路を選ぶことができるようになっている。現在は女子校だが、2019年度には、男女共学になり、新しく校舎も改築することを検討中である。(北見藤女子高等学校 – Wikipedia)
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ジャクリーン・ケネディー・オナシス(Jacqueline Kennedy Onassis)について
ジャクリーン・ケネディー・オナシス(Jacqueline Kennedy Onassis)について
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5月19日 忌日 / 1994年 ジャクリーン・ケネディー・オナシス (米:ケネディ米35代大統領の妻) <64歳> Jacqueline Kennedy Onassis (5月19日 今日は何の日~毎日が記念日~)
5月19日 忌日 / 1994年 – ジャクリーン・ケネディ・オナシス、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ夫人。(5月19日 – Wikipedia)
ジャクリーン・リー・ブーヴィエ・ケネディ・オナシス(Jacqueline Lee Bouvier Kennedy Onassis、1929年7月28日 – 1994年5月19日)は、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの夫人。1961年から1963年までアメリカのファーストレディであった。(ジャクリーン・ケネディ・オナシス – Wikipedia)
Jacqueline Lee Kennedy Onassis (née Bouvier /ˈbuːvieɪ/; July 28, 1929 – May 19, 1994) was the wife of the 35th President of the United States, John F. Kennedy, and the First Lady of the United States from 1961 until his assassination in 1963. (Jacqueline Kennedy Onassis – Wikipedia)
ジョン・フィッツジェラルド・”ジャック”・ケネディ(John Fitzgerald “Jack” Kennedy、1917年5月29日 – 1963年11月22日)は、アメリカ合衆国の政治家。第35代アメリカ合衆国大統領。在任中の1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された(ケネディ大統領暗殺事件)。名前のイニシャルをとってJFKと呼ばれることも多い。ケネディの家族 / 36歳の時に結婚。ジャクリーン・ケネディ(1929〜1994) ジャッキー。3人の子どもが生まれた。しかし1人は2日後に死去。キャロライン・ケネディ(1957〜 )。ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ・ジュニア(1960〜1999) ジョンジョン。パトリック・ブービエ・ケネディ(1963)。(ジョン・F・ケネディ – Wikipedia)
John Fitzgerald “Jack” Kennedy (May 29, 1917 – November 22, 1963), commonly referred to by his initials JFK, was an American politician who served as the 35th President of the United States from January 1961 until his assassination in November 1963. Kennedy served at the height of the Cold War, and much of his presidency focused on managing relations with the Soviet Union. A member of the Democratic Party, Kennedy represented the state of Massachusetts in the United States House of Representatives and the United States Senate prior to becoming president. (John F. Kennedy – Wikipedia)
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駐日米国大使の キャロライン・ケネディ ー 美幌音楽人 加藤雅夫
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Caroline Kennedy の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫
John F. Kennedy の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫
ジャクリーン・ケネディー・オナシス の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫
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楢山節考の「親を捨てるか 子を捨てられるか」について
楢山節考の「親を捨てるか 子を捨てられるか」について
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5月19日 歴史 / 1983年 今村昌平監督の『楢山節考』が第36回カンヌ国際映画祭でパルム・ドール(グランプリ)受賞。(
『楢山節考』(ならやまぶしこう)は、1983年製作の日本映画。深沢七郎の同名小説(厳密には『楢山節考』と『東北の神武たち』の2つを原作とする)の2度目の映画化作品。1983年のカンヌ国際映画祭にてパルム・ドールを受賞した。概要 / 長野県北安曇郡小谷村の廃村をベースに、オール・ロケで撮影が行われた。キャッチ・コピーは「親を捨てるか、子を捨てられるか。」 楢山節考 (1983年の映画) – Wikipedia)
『楢山節考』(ならやまぶしこう)は、深沢七郎の短編小説。民間伝承の棄老伝説を題材とした作品で、当代の有力作家や辛口批評家たちに衝撃を与え、絶賛された、当時42歳の深沢の処女作である[1]。山深い貧しい部落の因習に従い、年老いた母を背板に乗せて真冬の楢山へ捨てにゆく物語。自ら進んで「楢山まいり」の日を早める母と、優しい孝行息子との間の無言の情愛が、厳しく悲惨な行為と相まって描かれ、独特な強さのある世界を醸し出している。(楢山節考 – Wikipedia)
深沢 七郎(ふかざわ しちろう Shichiro Fukazawa、1914年〈大正3年〉1月29日 – 1987年〈昭和62年〉8月18日) は、日本の小説家、ギタリスト。(深沢七郎 – Wikipedia)
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Shichiro Fukazawa の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫
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ウメの花 モクレンの花 について
ウメの花 モクレンの花 について
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1本の木から紅白の梅 北見の男性方で / 縁起良し… 四季“いろ撮る” / 東の風が吹き、北見地方にも梅の便りが届く季節が訪れた。北見市内で長く果樹栽培を手掛ける男性方では、庭に梅の木が十数本ある。このうちの1本が、1つの木に赤と白の花を鮮やかに着けた。園芸の技能を生かし、男性が接ぎ木して十数年来育てる1本。多数ある山桜の花が散り、春を忘れそうになるころに咲き始める。屏風絵を思い起こさせる華やかさ。ご利益がありそうで、めでたし、めでたし。(寒)(2018年5月16日の記事 経済の伝書鳩)
ウメ(梅、学名:Prunus mume、英: Japanese apricot[1])は、バラ科サクラ属の落葉高木、またはその果実のこと。花芽はモモと異なり、一節につき1個となるため、モモに比べ、開花時の華やかな印象は薄い。毎年2月から4月に5枚の花弁のある1センチメートルから3センチメートルほどの花を葉に先立って咲かせる。花の色は白、またはピンクから赤。葉は互生で先がとがった卵形で、周囲が鋸歯状。樹木全体と花は主に鑑賞用、実は食用とされ、枝や樹皮は染色に使われる。(ウメ – Wikipedia)
40年以上育てたモクレン満開 北見の夫妻宅で / ここ数年で一番の咲きぶり 花だより / 北見市内の男性(89)と女性(87)夫妻が約40年、庭で大切に育てているモクレンが満開になった。ここ数年で「一番の咲きぶりです」と喜んでいる。高さ4~5メートル。庭は道路沿いにあり、この季節になると道行く人も足を止めて花を眺めるそう。例年5月25日の女性の誕生日前後に見ごろとなるが、今年はやや早く満開となった。夫妻は、高齢により外出が難しくなっているが、息子夫婦の付き添いで庭に出て、モクレンのお花見を楽しんだ。大きく育った木を見上げ「きれいに咲いてくれて、本当にありがたいですね」と目を細めていた。以前のように手入れができなくなったが、女性は「モクレンは特別な花です。大事にしたい」と話している。(理)(2018年5月16日の記事 経済の伝書鳩)
モクレン(木蓮、木蘭、Magnolia quinquepeta もしくは Magnolia liliiflora、中国では紫玉兰と表記するが木兰、辛夷、木笔、望春、女郎花とも呼ばれる)は、モクレン目モクレン科モクレン属の落葉低木。花が紫色であることから、シモクレン(紫木蓮)の別名もある。ハネズ、モクレンゲと呼ばれることもある。昔は「木蘭(もくらん)」と呼ばれていたこともあるが、これは花がランに似ていることに由来する。今日では、ランよりもハスの花に似ているとして「木蓮(もくれん)」と呼ばれるようになった。(モクレン – Wikipedia)
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モンテンルパのオルゴール曲について
- 2018年05月18日(金) 0:25
- カテゴリ: お知らせ, アジア, オホーツク, フィリピン, モンテンルパ, 北海道, 国際, 日本, 東南アジア, 音楽
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モンテンルパのオルゴール曲について
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5月18日 できごと / 1953年 – フィリピン・モンテンルパのニュー・ビリビッド刑務所で減刑・助命の活動をしていた加賀尾秀忍教誨師、歌手・渡辺はま子から前年のクリスマス慰問の際に贈られたアルバム型オルゴールを持ってマラカニアン宮殿を訪問して、エルピディオ・キリノ大統領と会見。オルゴールを贈り、日本人BC級戦犯全員の早期釈放と帰国を要請する。(5月18日 – Wikipedia)
モンティンルパ市(Muntinlupa City)は、フィリピン共和国ルソン島にある市である。マニラ首都圏に属する。太平洋戦争(大東亜戦争)中の激戦地フィリピンにおいて、マニラ軍事裁判後にニュービリビット刑務所で処刑された、山下奉文大将以下17名が葬られた場所である。また、渡辺はま子のヒット曲『あゝモンテンルパの夜は更けて』で知られる、戦争犯罪者収容所の所在地であった。(モンティンルパ – Wikipedia)
加賀尾 秀忍(かがお しゅうにん、1901年1月5日 – 1977年5月14日)は、昭和期に活躍した真言宗の僧侶。フィリピン・モンテンルパの戦犯刑務所で教誨師として活躍したので『モンテンルパの父』ともよばれている。概要 / 1949年11月4日、フィリピン・マニラ郊外のモンテンルパにある、当時、戦犯刑務所だったニュー・ビリビット刑務所に、病気のため早期帰国した安達本識(あだち・ほんじき)教誨師の後任として赴任する。当初、6ヶ月の任期であったが、自ら無給で残ることを決め、死刑判決を受けて、処刑の瀬戸際に立つ日本人戦犯の助命活動にたずさわる。ダグラス・マッカーサー元帥などの、当時の日本の指導者たちに助命嘆願書を提出するも、1952年1月19日には、明らかに無実の者もいる日本人BC級戦犯14名の処刑に立ち会う。3月半ばのある日、戦犯たちと会議をもち日本への世論喚起のため、歌の作成を提案する。こうして完成した歌は、死刑囚である代田銀太郎作詞で、同じく死刑囚の伊藤正康作曲の『モンテンルパの夜は更けて』である。この歌はNHKラジオ「陽気な喫茶店」で紹介され、たまたまゲストとして出演していた歌手の渡辺はま子の目にとまった。そして当時、鎌倉にあった自宅に帰ると、すぐにピアノで試し弾きをやってみて、望郷と帰国の念に駆られる感じ漂う哀しいリズムの歌であることを知った。そして、自分がかつて、戦争協力者として台湾や中国大陸各地の前線を歌で慰問して巡っていた頃の自分を責め、生涯かけて歌っていこうと心に決めると、さっそく手直しと編曲にとりかかった。具体的には当初、5番から成っていたものを2番削除して3番構成とした。そして曲名も『あゝモンテンルパの夜は更けて』と改められて発表された。レコードも宇津美清とのデュエットで吹き込んだものがビクターレコードから発売され、20万枚の売り上げを記録するなど大ヒットする。当時のローマ法王のピウス12世に協力要請を行い、フィリピン大統領へのメッセージが実現し、フィリピン大統領との会見が実現する。1953年5月、当時のフィリピン大統領エルピディオ・キリノと面会した。そして、このときに『あゝモンテンルパの夜は更けて』のオルゴールをプレゼントする。大戦末期に行われたマニラ市街戦で、妻や子を日本軍に殺害されていたキリノ大統領も、オルゴールの中の曲の作詞作曲が2人の日本人戦犯であることを加賀尾氏より知る。そして、会見から1ヶ月後の6月27日、日本人戦犯の釈放が決定される。(加賀尾秀忍 – Wikipedia)
渡辺 はま子(わたなべ はまこ、1910年(明治43年)10月27日 – 1999年(平成11年)12月31日)は戦前から戦後にかけて活躍した日本の流行歌手。経歴 / 戦後 / 1952年(昭和27年)、NHKラジオ「陽気な喫茶店」を司会していた松井翠声の元に送られてきた、フィリピンの日本人戦犯が作詞作曲した曲「あゝモンテンルパの夜は更けて」を渡辺がレコード化。日本国政府の厚生省復員局と渡辺の奔走で、モンテンルパ市のニューピリビット刑務所へ慰問コンサートが実現。フィリピン政府当局に減刑、釈放を嘆願し、当時のフィリピンの首長であったキリノ大統領に日本人戦犯の釈放を決断させ、全員の日本への帰国が実現したことは、渡辺の歌手人生におけるハイライトといえる。(渡辺はま子 – Wikipedia)
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「ああ モンテンルパの…」 (音楽の誕生) ー 美幌音楽人 加藤雅夫
Muntinlupa (Japan song) の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫
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双喜紋 双喜纹 Double Happiness について
双喜紋 双喜纹 Double Happiness について
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双喜紋(そうきもん、双喜、拼音: shuāngxǐ , シュアンシー)とは、中華圏で用いられるデザインのひとつで、「喜」を横に二つ並べた「囍」の字を意匠化したもの。下部が簡略化された字体が用いられたり、左右が連結されたりすることが多い。縁起物として結婚式や春節などで用いられる。日本においては、中華料理店の壁や器の装飾デザインとして広く知られる。英語では、「Double Happiness」と訳されている。(双喜紋 – Wikipedia)
双喜纹是中国传统纹饰之一。是文字纹的一种。中国民间将“喜”字加以图案化,施用于瓷器、布帛、家具、木雕等器物之上,作为装饰。寄寓了双喜临门,喜上加喜之意。常见的文字纹除双喜纹外还有万字纹、寿字纹、福字纹等。中文名 双喜纹。类型 中国传统纹饰。用于 瓷器、布帛、家具、木雕等器物。寓意 双喜临门,喜上加喜。简介 / 双喜纹是中国传统纹饰之一。是文字纹的一种。中国民间将“喜”字加以图案化,施用于瓷器、布帛、家具、木雕等器物之上,作为装饰。寄寓了双喜临门,喜上加喜之意。常见的文字纹除双喜纹外还有万字纹、寿字纹、福字纹等。(双喜纹_百度百科)
Double Happiness (simplified Chinese: 双喜; traditional Chinese: 雙喜; pinyin: shuāngxǐ) sometimes translated as Double Happy, is a Chinese traditional ornament design, commonly used as a decoration and symbol of marriage. Outside of China, it is also used in the United States, Europe and Southeast Asia. Typically the character “囍” is written in Chinese calligraphy, and frequently appears on traditional decorative items, associated with marriage. Double happiness symbol also often found all over the wedding ceremony, as well as on gift items given to the bride and groom. The color of the character is usually red, occasionally black. (Double Happiness (calligraphy) – Wikipedia)
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Double Happiness の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫
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倒福 とうふく dào fú について
倒福 とうふく dào fú について
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倒福(とうふく、拼音:dào fú)とは春節の際に家々に貼られる「福」の字を書いた赤色の紙。一般に上下逆さまに貼ることから「倒」(逆さにする)「福」と称される。「福」の文字は現在「幸福」の意味で使用されることが多いが、倒福では「福気・福運」の意味で使用されている。その福が到(中国語の発音は拼音: dào)るようにという願いを込めて、倒(拼音: dăo)して貼ることが一般的となっている。歴史 / 宋代に記された『夢梁録』に“洒掃間閭,去塵穢,浄庭戸,換門神,掛鍾馗,釘桃符,貼春牌,祭祀祖宗”との記載があり、“春牌”が赤紙に“福”の字を記した倒福であり、現在確認できる最も古い倒福の記録である。伝承 / 倒福の習慣に関しては明洪武帝の皇后であった馬皇后の伝承がある。(倒福 – Wikipedia)
関連サイト
倒福 中華料理店などで見かける逆さまの福の字 | 中国文化 – 中国語スクリプト
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幸福の木(good luck plant)について
幸福の木(good luck plant)について
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ちょっと・いい話(北見) 育てて18年…「幸福の木」初開花 / 留辺蘂・女性 義父の退院に合わせたように / 北見市留辺蘂の女性(51)が育てている幸福の木がこのほど初めて花を咲かせた。「我が家に来てから18年。初めて花が咲いたので嬉しいです」と家族を喜ばせている。4月から花芽を付けていて「もしかして…」と期待していたところ、数日前の夕方に強い香りとともに開花した。ちょうど入院治療中だった義父の病状が落ち着き退院するという嬉しいニュースがあった後の開花だったことから『幸福の木の花だけに…その事と関係があるのかな?』と家族の話題をさらっている。女性は「花はお世辞でもいい匂いとは言えませんが、咲いている間は楽しもうと思っています」と話している。(公)(2018年5月11日の記事 経済の伝書鳩)
ドラセナ属(ドラセナぞく、学名Dracaena)は、スズラン亜科の属の一つ。リュウケツジュ(竜血樹)属ともいう。利用 / 強靭な生命力を持ち、インテリアとして気軽に栽培することが可能である。飲食店やオフィスなどでも多く見られ、クリーンなイメージで管理が容易なことから、公共施設や病院などでも見かけることがある。観葉植物として流通している種類としては、「コンシンナ」 「ソング・オブ・ジャマイカ」 「サンデリアーナ」などがあり、品種によって形状や葉の色などに微妙な違いがある。園芸品種・文化 / 中華文化圏、特に台湾では金運を呼ぶ植物とされており、何本も束にしてリボンと金色の鈴で装飾された鉢植えが縁起物の装飾品にされる。日本においても「万年竹」と称され愛されており、「縁起の良い植物」として世界的に人気が高い植物である。多くの類似品種があり、中には専門家以外の者では判断し難い種類も存在する。特にコルディリネ属(Cordyline)とよく似ているので、園芸上「ドラセナ」といわれるものの中にはコルディリネ属のものが含まれていることがある。「ティ」と呼ばれるハワイで幸運の象徴として儀礼用の装飾品などに古来より使用されるコルディリネ・テルミナリス・ティが「ドラセナ」として紹介されることもあるが、これは外見や縁起物としての扱いが類似していることから発生した誤認である。主な種 / D. fragrans 日本における「幸福の木」。ただし、本来の “goodluck plant” はCordyline terminalis Ti である。(ドラセナ属 – Wikipedia)
コルディリネ属(コルディリネぞく、学名Cordyline)とは、リュウゼツラン科(APG植物分類体系ではキジカクシ科ロマンドラ亜科 Lomandroideae)の属の1つ。コルディリーネ属ともいう。和名はセンネンボク属。主な種 / コルディリネ・フルティコサ Cordyline fruticosa
観葉植物としてよく栽培されており園芸品種も多い。本種の園芸品種ヒロバ(C. terminalis ‘Hiroba’)は、本来のドラセナ(ドラセナ属)でないのにヒロバドラセナ、ヒロドラなどといわれている。 ティー(C. terminalis ‘Ti’)はハワイでは神聖な木とされ、玄関先によく植えられるほか、フラの衣装やレイ、髪飾り、また料理の素材などとしても用いられる。日本における「幸福の木(ドラセナ属のD. fragrans)」はこれが誤認されて定着したものである。(コルディリネ属 – Wikipedia)
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good luck plant の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫
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家具の音楽(Furniture music)について
- 2018年05月17日(木) 0:34
- カテゴリ: お知らせ, フランス, 音楽, 音楽療法
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家具の音楽(Furniture music)について
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『家具の音楽』(かぐのおんがく、仏: musique d’ameublement)は、フランスの作曲家であるエリック・サティが1920年に作曲した室内楽曲。家具のように、そこにあっても日常生活を妨げない音楽、意識的に聴かれることのない音楽、といったものを目指して書かれた曲である。またこの曲に限らず、サティが提唱した「生活の中に溶け込む音楽」という思想そのものを「家具の音楽」と呼ぶこともある。またそのコンセプトからアンビエント音楽やバックグラウンドミュージックの祖とされる曲でもあり、ウィリアム・アッカーマンなど多くのアーティストに影響を与えた。(家具の音楽 – Wikipedia)
Furniture music, or in French musique d’ameublement (sometimes more literally translated as furnishing music), is background music originally played by live performers. The term was coined by Erik Satie in 1917. (Furniture music – Wikipedia)
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Furniture music の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫
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