「ああ モンテンルパの…」 (音楽の誕生)

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「ああ モンテンルパの…」(音楽の誕生)
“Ah Muntinlupa of …” (Music birth)

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1953年(昭和28年)5月18日 – フィリピン・モンテンルパのニュー・ビリビッド刑務所で減刑・助命の活動をしていた加賀尾秀忍教誨師、歌手・渡辺はま子から前年のクリスマス慰問の際に贈られたアルバム型オルゴールを持ってマラカニアン宮殿を訪問して、エルピディオ・キリノ大統領と会見。オルゴールを贈り、日本人BC級戦犯全員の早期釈放と帰国を要請する。

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加賀尾秀忍, Kagao Shunin
加賀尾 秀忍(かがお しゅうにん、1901年1月5日 – 1977年5月14日)は、昭和期に活躍した真言宗の僧侶。フィリピン・モンテンルパの戦犯刑務所で教誨師として活躍したので『モンテンルパの父』ともよばれている。 その後、日本国内で僧侶として活躍しながら、『13階段と平和』と題して講演活動を行う。1973年には、日比親善に功労があったとして、勲三等旭日中綬章を授与された。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/加賀尾秀忍

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ああモンテンルパの夜は更けて
あゝモンテンルパの夜は更けて(ああモンテンルパのよはふけて)は、渡辺はま子、宇都美清が歌ってヒットした流行歌で、1952年(昭和27年)9月、ビクターレコードから発売された。 作詞:代田銀太郎、作曲:伊藤正康、歌唱:渡辺はま子、宇都美清。 曲誕生まで: 1952年6月、当時鎌倉にあった渡辺はま子の自宅に一通の封書が届いたことから始まる。その封書の中には、楽譜と短い手紙が入っており、その楽譜の題名には「モンテンルパの歌」作詞代田銀太郎、作曲伊藤正康と書いてあった。二人はフィリピンのマニラ郊外のモンテンルパの丘にあったニュービリビット刑務所で戦犯として死刑判決を受けていた人物であった。作詞の代田銀太郎は元フィリピン憲兵隊少尉。作曲の伊藤正康は元陸軍将校。「モンテンルパの歌」は、刑務所で収容されていた日本人111名の望郷の念を込めた曲であった。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/ああモンテンルパの夜は更けて

渡辺はま子, Watanabe Hamako
渡辺 はま子(わたなべ はまこ、1910年(明治43年)10月27日 – 1999年(平成11年)12月31日)は戦前から戦後にかけて活躍した日本の流行歌手。 経歴: 横浜生まれで横浜育ちの、文字通りハマっ子の渡辺は美貌で知られた歌手であった。祖父がアメリカ人のクォーターであった。 戦後: 戦地への慰問として訪れていた大陸の天津で終戦を迎え、捕虜として1年間の収容所生活を余儀なくされる。が、その間も渡辺はま子は、日本人捕虜仲間を美しい歌声で慰めることを忘れなかった。 1952年(昭和27年)、NHKラジオ「陽気な喫茶店」を司会していた松井翠声の元に送られてきた、フィリピンの日本人戦犯が作詞作曲した曲「あゝモンテンルパの夜は更けて」を渡辺がレコード化。日本政府の復員局と渡辺の奔走でモンテンルパの収容所へ慰問コンサートが実現。フィリピン政府当局に減刑、釈放を嘆願し、当時のフィリピンの首長であったキリノ大統領に日本人戦犯の釈放を決断させ、全員の日本への帰国が実現したことは、渡辺の歌手人生におけるハイライトといえる。 晩年: 亡くなる5日前の1999年(平成11年)のクリスマスの日、長女が渡辺にモンテンルパ慰問の際に録音したテープを聞かせると、普段は病気のため表情を変えることのなかった渡辺が長女の言葉に何度も頷き、一筋の涙を流したという。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/渡辺はま子

代田銀太郎, Shirota Gintaro
代田 銀太郎(しろた ぎんたろう、1914年 – 2006年6月7日)は、日本の陸軍軍人・作詞家。最終階級は中尉。 戦後の死刑囚時代に「ああモンテンルパの夜は更けて」の作詞を手がけたことで知られる。 生涯: 長野県下伊那郡松尾村(現在の飯田市)出身。第二次世界大戦の勃発に伴い陸軍に召集され、憲兵としてフィリピン・セブ島を転戦。終戦時は少尉であったが、ポツダム宣言により中尉に昇進。 その後、戦犯死刑囚としてフィリピンのモンテンルパにある刑務所に収容された。1951年、自身と同じ死刑判決をうけた日本兵が処刑されたのを契機に、同僚たちを勇気付けるため「ああモンテンルパの夜は更けて」を作詞。代田と同じく死刑囚となっていた伊藤正康大尉が曲をつけた。 この歌は1952年に当時のトップ歌手・渡辺はま子が歌い、空前の大ヒットとなった。渡辺はこの年の暮れに収容所を慰問。100人以上の日本兵の前で「モンテルンパの夜は更けて」を涙ながらに熱唱したという。この歌がきっかけとなって、フィリピンのエルピディオ・キリノ大統領による日本人戦犯の特赦、釈放が行われたともいわれ、結果的に代田は多くの日本人戦犯の命を救った。代田らは1953年に赦免をうけ、7月22日、白山丸で祖国に帰還。巣鴨に収監された後、年末までに全員が釈放された。 戦後は農業の傍ら、地元の土建会社に勤務し、1968年からは通信制高校にも通った。家族には戦犯当時の事をほとんど話さなかったという。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/代田銀太郎

伊藤正康, Ito Masayasu
伊藤 正康(いとう まさやす、1923年 – 2009年6月11日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官、作曲家。 略歴: 陸軍士官学校56期、歩兵第17連隊に所属しフィリピンを転戦。終戦時陸軍大尉。第二次世界大戦後、戦犯死刑囚としてフィリピンのモンテンルパにある刑務所に収容された。1951年、自身と同じ死刑判決をうけた日本兵が処刑されたのを契機に、同僚たちを勇気付けるため、伊藤と同じく死刑囚となっていた代田銀太郎が作詞した「ああモンテンルパの夜は更けて」に曲をつけた。この歌は1952年に当時の日本を代表する歌手であった渡辺はま子が歌い、空前の大ヒットとなった。渡辺はこの年の暮れに収容所を慰問。100人以上の日本兵の前で「モンテルンパの夜は更けて」を涙ながらに熱唱したという。この歌がきっかけとなって、フィリピンのキリノ大統領による日本人戦犯の特赦、釈放が行われたともいわれ、結果的に伊藤は多くの日本人戦犯の命を救った。伊藤も1953年に赦免をうけ復員した。 復員後は陸上自衛隊幹部自衛官となり東部方面総監部幕僚長兼市ヶ谷駐屯地司令、第6師団長、陸上自衛隊富士学校長などを歴任した。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤正康

関連エントリ

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