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松山バレエ団の 清水正夫 松山樹子 ご夫妻について
- 2018年06月25日(月) 0:03
- カテゴリ: お知らせ, アジア, オホーツク, 中国, 人民中国, 北海道, 国際, 日中文化交流, 日本, 映画, 現中映, 音楽
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松山バレエ団の 清水正夫 松山樹子 ご夫妻について
日中友好人士、松山芭蕾舞団・松山バレエ団創立者の清水正夫は、2008年6月25日、病気のため死去、87歳。1948年、清水正夫は妻の松山樹子とともに松山バレエ団、松山バレエ学校を創立し、団長として古典バレエ・現代バレエの創造、「白毛女」など多くの作品を制作した。1955年から中国と交流を始め、日中文化交流にも貢献した。松山バレエ団は2001年、清水哲太郎とその妻のバレエダンサー森下洋子が引継いだ。
清水正夫 松山樹子 こ夫妻にお会いしたのは、1999年5月14日、東京・ホテルニューオータニで開催された、中国文化大臣一行 孫家正(中国文化部長)の歓迎レセプションでした。清水正夫さんは「やあ、北海道美幌町からよくいらっしゃいました」と温かく歓迎してくれました。そして「中華人民共和国駐札幌総領事館の和風庭園は、僕がデザインしたんだよ」と教えてくれました。同席は。飯高和子(書道教育家・現代かな作家)「めぐりあいの うれしさ 美しく」、河合紀(陶芸・工芸家)、武田明倫(音楽学、武満徹と親交)。中国札幌総領事館を訪問して可愛い中庭を見るたびに、清水正夫 松山樹子 ご夫妻の温かい声と優しい笑顔が思い浮かぶ。日中友好人士清水正夫氏弔意 「世代(心)を受継ぎ、時代(平和)をつくる」 美幌音楽人 加藤雅夫。
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松山バレエ団(まつやまバレエだん)は、1948年に、日劇のバレリーナであった松山樹子と、彼女のファンであり、当時内務省の役人であった清水正夫(東京大学大学院修了/日本大学卒業)によって、東京・青山の幼稚園を借りて設立されたバレエ団。所在地は東京都港区、正式名称を「公益財団法人松山バレエ団」という。総代表・清水哲太郎は、清水正夫と名誉芸術監督・松山樹子の長男。また、団長・森下洋子は清水哲太郎の妻。松山バレエ団と日中友好運動 / 松山バレエ団は白毛女の舞台化に尽力したことでも知られる。白毛女の舞台化は中国でも高く評価され、日中友好運動において重要な貢献をはたした。文化大革命期においても松山バレエ団はたびたび訪中し、日中友好につとめた。このため清水正夫らは日本共産党から批判された。 (松山バレエ団 – Wikipedia)
関連サイト
2017 新「白毛女」 – 松山バレエ団/バレエ学校 | クラシックバレエ
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加藤雅夫のあゆみ 50代 1997〜 – 美幌音楽人 加藤雅夫
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日本映画 伊豆の踊子(吉永小百合)について
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『伊豆の踊子』(いずのおどりこ)は、1963年(昭和38年)制作の日本映画。川端康成の同名小説の4度目の映画作品。西河克己監督。吉永小百合、高橋英樹主演。あらすじ / 大学教授の川崎は、教え子である男子学生から或る相談を持ち込まれていた。それは「結婚の仲人になってほしい」という話だったが、学生結婚というものに少々の不安や心配を持つ川崎教授は躊躇を覚える。しかし、その男子学生と将来を誓い合う少女が「ダンサー」であることを知った教授の胸に、かつて旅芸人の踊子に淡い恋心を寄せた青春の思い出が甦るのだった。若い二人を見守りながら、教授の心は遠い過去へ遡っていく。作品解説 / ストーリーテリングが「或る大学教授の回想」という体裁になっている点が、原作小説との大きな相違点である。しかも、その回想シーンのきっかけとなる導入部が「学生結婚」という点もまた現代風な作劇であり、戦後の新教育を受けた若い世代にも馴染みやすい工夫がなされていた。冒頭の現代の場面はモノクロ、教授の青春時代の回想(踊子との交流すなわち原作小説のパート)が鮮やかなカラーフィルム、その回想から覚めると再びモノクロ、そして現代の若いカップルが希望を胸に走り出す場面でエンディングという演出になっている。年老いた現代の主人公は宇野重吉[1]が演じ、若い学生の頃を高橋英樹が演じた。回想シーンに出てくる踊子の薫と現代のダンサーは、吉永小百合が一人で二役を演じている。評価 / 映画撮影を見学した原作者の川端康成は、踊子姿の吉永小百合に「なつかしい親しみ」を感じたという。(伊豆の踊子 (1963年の映画) – Wikipedia)
『伊豆の踊子』(いずのおどりこ)は、川端康成の短編小説。川端の初期の代表作で、伊豆を旅した19歳の時の実体験を元にしている。孤独や憂鬱な気分から逃れるため伊豆へ一人旅に出た青年が、修善寺、湯ヶ島、天城峠を越え湯ヶ野、下田に向かう旅芸人一座と道連れとなり、踊子の少女に淡い恋心を抱く旅情と哀歓の物語。孤児根性に歪んでいた青年の自我の悩みや感傷が、素朴で清純無垢な踊子の心によって解きほぐされていく過程と、彼女との悲しい別れまでが描かれている。日本人に親しまれている名作でもあり、今までに6回映画化され、ヒロインである踊子・薫は田中絹代から吉永小百合、山口百恵まで当時のアイドル的な女優が演じている。(伊豆の踊子 – Wikipedia)
吉永 小百合(よしなが さゆり、Sayuri Yoshinaga、1945年3月13日 – )は、日本の女優、歌手である。本名、岡田 小百合(おかだ さゆり)。東京都渋谷区代々木西原町(当時)出身。そのファンは、「サユリスト」と呼称される。1960年代を代表する人気映画女優で10年間で70本以上の映画に出演した。吉田正(作曲家)の門下生として、数多くのレコードを世に送り出している。早稲田大学第二文学部西洋史学専修を卒業[2]し、文学士の称号を受ける。夫はフジテレビディレクター、共同テレビ社長、会長、取締役相談役を歴任した岡田太郎。出演作品 / 映画 / 伊豆の踊子(1963年、日活) – 主演・薫、少女 役(二役)。(吉永小百合 – Wikipedia)
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Sayuri Yoshinaga の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫
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日本の歌手・女優 美空ひばりについて
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美幌町のみなさま、こんにちは! 美空ひばりです。今日は、わたしの歌 「美幌峠」そして「恋港」だけのカラオケコンクールだそうですが、新しい曲なのに美幌町の皆様には、もう覚えていただけたのですね! 本当にありがとうございます。わたくしも、舞台やテレビで機会ある度に歌っていくつもりでおります。歌うことはストレス解消に大変役立つそうですよ (フフフ)。みなさん、これからも大いに歌って発散してください。それでは、「カラオケ大会」どうかがんばってください。上記は、美空ひばりさんが入院中に、ご自身で録音したメッセージです。(1986年10月2日)
美空ひばりの歌「美幌峠」作詞 志賀貢、 作曲 岡千秋。1986年9月1日、日本コロンビアから発売。1986年7月 美幌観光牛肉まつり会場で発表し、1986年10月8日 美幌町民会館で記念カラオケ大会に出演予定だった。(入院中に録音した肉声メッセージが、会場に流れた)
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6月24日 林檎忌,麦の日 / 歌手・美空ひばりの1989年の忌日。ヒット曲『リンゴ追分』から「林檎忌」、「ひばり」という名前に因み、麦畑が鳥のひばりの住処となることが多いことから「麦の日」と呼ばれている。1989年 美空ひばり (歌手) <52歳>1989年国民栄誉賞(第7号) (6月24日 今日は何の日~毎日が記念日~)
6月24日 忌日 / 1989年 – 美空ひばり、歌手。記念日・年中行事 / 林檎忌・麦の日(日本)歌手美空ひばりの忌日。ヒット曲「リンゴ追分」から「林檎忌」、「ひばり」という名前にちなみ、麦畑が鳥のヒバリの住処となることが多いことから「麦の日」と呼ばれている。(6月24日 – Wikipedia)
美空 ひばり(みそら ひばり、Hibari Misora、1937年(昭和12年)5月29日 – 1989年(平成元年)6月24日)は、日本の歌手、女優。神奈川県横浜市磯子区滝頭出身。横浜市立滝頭小学校、精華学園高等部卒業。12歳でデビューして「天才少女歌手」と謳われて以後、歌謡曲・映画・舞台などで活躍し自他共に「歌謡界の女王」と認める存在となった。昭和の歌謡界を代表する歌手の1人であり、女性として史上初の国民栄誉賞を受賞した。本名は加藤 和枝(かとう かずえ)。愛称は御嬢(おじょう)。身長147cm。略歴 / 全国的人気を獲得 / 1952年映画『リンゴ園の少女』の主題歌『リンゴ追分』が当時の史上最高記録となる70万枚を売り上げる大ヒットとなった。死去 / その後も、はっきり報道されないひばりの容態から「もう歌えない」「復活は絶望的」などと大きく騒ぎ始めるマスコミに対し、入院中の同年5月27日にひばりは、再入院時の写真などと共に「麦畑 ひばりが一羽 飛び立ちて… その鳥撃つな 村人よ!」とのメッセージを発表。さらに「私自身の命ですから、私の中に一つでも悩みを引きずって歩んでいく訳には参りませんので、後悔のないように完璧に人生のこの道を歩みたいと願っているこの頃です」等と録音した肉声テープを披露。だが2年前の入院時と比較するとひばりの声は殆ど張りがなく、弱々しいものであった。結果的にこれがひばりからの、生涯最後のメッセージ及び肉声披露となった。それから2日後の5月29日、ひばりは病室で52歳の誕生日を迎えた。しかし、約2週間後の同年6月13日に呼吸困難の重体に陥り、人工呼吸器がつけられた。なおひばりの生涯最後の言葉は、順天堂病院の医師団に対して「よろしくお願いします。頑張ります」だったという。また和也が死の数日前に「おふくろ、頑張れよ」と声を掛けると、ひばりは最期を覚悟したのか両目に涙を一杯溜めていたと、のちに和也自身が語っている。そして1989年6月24日午前0時28分、再度「奇跡の復活」は果たせぬまま、特発性間質性肺炎の症状悪化による呼吸不全の併発により逝去した。52歳没。(美空ひばり – Wikipedia)
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志賀貢作品集「美幌峠」「幻の美幌峠」の誕生秘話 ー 美幌音楽人 加藤雅夫
Hibari Misora の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫
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ワークフェアの うたごえ喫茶 (リブラぴあ~の)
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26日・北見で「うたごえ喫茶」 / NPO法人ワークフェア主催の地域コミュニティ行事「第3回うたごえ喫茶」が26日(火)午前11時から、北見市美芳町のコミュニティカフェ「リブラぴあ~の」で開かれる。戦後ブームとなった歌声喫茶の草分け的存在、東京の歌声喫茶店「ともしび」の歌詞本を元に、ピアノやギターの生演奏でロシア民謡、唱歌、歌謡曲などを来店者みんなで声を合わせて歌う。入場料500円(1ドリンク付)。出入り自由。地域住民をはじめ、誰でも参加できる。問い合わせはリブラぴあ~の(TEL 0157-33-3760)へ。 (2018年6月21日の記事経済の伝書鳩)
ワークフェア(Workfare)とは社会保障給付を支給する際に、その代わりに受給者に就労を義務付けることである。 (ワークフェア – Wikipedia)
歌声喫茶(うたごえきっさ)は、客全員が歌う(合唱)ことを想定した喫茶店である。1955年前後の東京など日本の都市部で流行し、1970年代までに衰退した。 (歌声喫茶 – Wikipedia)
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北見・カフェ「Libraぴあ~の」 イベント会場としても 【オホーツク発掘ブログ】
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近代日本の詩人・歌人 大町桂月 (桂浜月下漁郎)
- 2018年06月22日(金) 0:10
- カテゴリ: お知らせ, オホーツク, マンドリン, 中国, 北朝鮮, 北海道, 北見市, 国際, 常呂, 日本, 東アジア, 観光, 韓国
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近代日本の詩人・歌人 大町桂月 (桂浜月下漁郎)
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大町 桂月(おおまち けいげつ、1869年3月6日(明治2年1月24日)- 1925年(大正14年)6月10日)は高知県出身で、近代日本の詩人、歌人、随筆家、評論家。本名:大町芳衛(よしえ)。経歴 / 1869年(明治2年)、高知市北門筋に元土佐藩士の通の息子として生まれる。名は芳衛。昆虫学者の大町文衛は2男。雅号の桂浜月下漁郎はよさこい節にも唄われる月の名所桂浜に因み、桂月はそれを縮めたもの。1896年(明治29年)、東京帝国大学国文科卒。1899年(明治32年)、島根県で中学教師として奉職するも、1900年(明治33年)、乞われて博文館に入社し、1906年(明治39年)まで在籍。『文芸倶楽部』『太陽』『中學世界』などに随筆を書き美文家として知られた。それは韻文・随筆・紀行・評論・史伝・人生訓など多彩であった。格調高い文体から擬古派と言われた。1913年(大正2年)に出版された『人の運』は、洋の東西を問わず通ずる処世訓集として当時のベストセラーとなる。和漢混在の独特な美文の紀行文は広く読まれた。また、明治大学で教鞭を執った。終生酒と旅を愛し、酒仙とも山水開眼の士とも称された。晩年は遠く朝鮮、旧満州(中国東北部)まで足を延ばしている。桂月は北海道の層雲峡や羽衣の滝の名付け親でもある。北海道各地を旅行してその魅力を紀行文で紹介した。大雪山系の黒岳の近くには、彼の名前にちなんだ桂月岳という山がある。 (大町桂月 – Wikipedia)
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Here’s looking at you, kid. 君の瞳に乾杯
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6月20日 歴史 / 1946年 イングリッド・バーグマン主演の『カサブランカ』が日本で封切り。(6月20日 今日は何の日~毎日が記念日~)
『カサブランカ』(英語: Casablanca)は、1942年製作のアメリカ映画。概要 / 第二次世界大戦にアメリカが参戦した翌年の1942年に製作が開始され、同年11月26日に公開された、物語の設定時点の1941年12月時点では親ドイツのヴィシー政権の支配下にあったフランス領モロッコのカサブランカを舞台にしたラブロマンス映画。監督はマイケル・カーティス。配給はワーナー・ブラザース。評価 / アメリカ映画ベスト100(1998年)の2位、スリルを感じる映画ベスト100(2001年)の42位、情熱的な映画ベスト100(2002年)の1位、アメリカ映画主題歌ベスト100(2004年)の2位(『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』”As Time Goes By”)、アメリカ映画の名セリフベスト100(2005年)の5位(「Here’s looking at you, kid.(君の瞳に乾杯)」)、感動の映画ベスト100(2006年)の32位、アメリカ映画ベスト100(10周年エディション)(2007年)では、順位を一つ落としたものの3位。公開後80年近く経ってもなお、不滅の人気を誇るロマンス・フィルムである。なお、映画スターベスト100(1999年)の男性1位にハンフリー・ボガート、女性4位にイングリッド・バーグマンが選ばれている。また、ヒーローと悪役ベスト100(2003年)の4位には、ボガートの演じたRickが選ばれた。米脚本家組合(WGA)は、1930年以降の映画の中より「偉大な脚本歴代ベスト101」の1位として選出した。名文句 / アメリカ映画協会 (AFI)選定の 「アメリカ映画の名セリフベスト100」(2005年)の中に以下のセリフがランクインしている。第5位:”Here’s looking at you, kid.”「君の瞳に乾杯」。その他 / 映画のテーマ曲『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』は、音楽を担当したスタイナーの作曲ではなく、ハーマン・フップフェルド (Herman Hupfeld) がステージショーのために、1931年に作詞・作曲した古い流行歌を取り上げたものである。『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』と並んで劇中で演奏される『イット・ハド・トゥ・ビー・ユー』”It Had to Be You” は、ロブ・ライナー監督映画の『恋人たちの予感』(1989年)で引用される。 “It had to be you It had to be you I wandered around and finally found “(君だったんだ、探していたのは…)のフレーズは古典中の古典であり、フランク・シナトラのメドレーナンバーでもある。ハリー・コニック・Jrによる映画のサントラは、世界中で大ヒットし、この年のグラミー賞(最優秀男性ジャズ・ヴォーカル賞)を獲得した。前述の映画主題歌ベスト100(2004年)の60位である。劇中ドゥリー・ウィルソン演じるサムが使用したピアノは、2014年11月、ニューヨークでオークションにかけられ341万3000ドル(約4億円)で落札された。なお、実際にはウィルソンはピアノは弾けず、ほとんどの演奏が合成である。(カサブランカ (映画) – Wikipedia)
イングリッド・バーグマン(典: Ingrid Bergman, 1915年8月29日 – 1982年8月29日)は、ヨーロッパとアメリカで活躍したスウェーデン出身の女優。Ingrid Bergman はスウェーデン語ではインリド・ベリマン [ˈɪŋːrɪd ˈbærjman] と発音される。業績 / アカデミー賞を3回、エミー賞を2回、トニー賞の演劇主演女優賞の受賞経験があり、AFI(アメリカ映画協会)選定の「映画スターベスト100」の女優部門では第4位となっている。バーグマンが演じた役でもっとも有名な役と言われているのが、ハンフリー・ボガートと共演した『カサブランカ』(1942年)のイルザ・ラント役とケーリー・グラントと共演した『汚名』(1946年)のアリシア・ヒューバーマン役である。バーグマンはアメリカで女優として成功をおさめる以前から、スウェーデンでは名を知られた女優だった。バーグマンがアメリカ映画に初出演したのは、スウェーデン映画の『間奏曲』をリメイクした『別離』(1939年)である。その際立った美貌と知性でアメリカ映画に「北欧からの瑞々しい息吹」を吹き込んだバーグマンは、すぐさま「アメリカ人女性の理想」となりハリウッドを代表する女優の一人となったと『ポピュラーカルチャー百科事典』(en:St. James Encyclopedia of Popular Culture)に記されている。映画監督ヴィクター・フレミングがリメイクした映画『ジキル博士とハイド氏』(1941年)に出演したバーグマンは、後に自身をハリウッドへ招くことになる映画プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックに認められた。セルズニックはバーグマンのことを、今までともに仕事をしてきた中で「もっとも完成された誠実な女優」と評価している。セルズニックはバーグマンに7年間の出演契約を提示し、その後の女優活動をプロデューサーとして支えていくことになる。バーグマンがセルズニックとは無関係に出演した映画には『カサブランカ』(1942年)、『誰が為に鐘は鳴る』(1943年)、『ガス燈』(1944年)、『聖メリーの鐘』(1945年)『汚名』(1946年)、『山羊座のもとに』(1949年)があり、独立系映画としては『ジャンヌ・ダーク』(1948年)がある。ハリウッド進出以来、10年間にわたってアメリカでスター女優の地位を守り続けたバーグマンは、1950年にロベルト・ロッセリーニが監督するイタリア映画『ストロンボリ/神の土地』に主演した。この作品がきっかけとなり、バーグマンとロッセリーニはともに既婚者であったにも関わらず、不倫関係を持つようになる。この不倫関係とその後の二人の結婚は大きなスキャンダルとなり、バーグマンはその後の数年間アメリカに戻ることができなくなった。1956年の『追想』でハリウッドに復帰したバーグマンは、この映画でアカデミー主演女優賞を受賞するとともに、旧来のファンもバーグマンを許したといわれている。バーグマンに関する私生活や映画関連の文献は、ウェズリアン大学のシネマ・アーカイブが多く所蔵している。 ハリウッド時代、1939年 – 1949年 / 『カサブランカ』(1942年) / スウェーデンで最後の映画に出演した後、1941年にバーグマンは『四人の息子』、『天国の怒り』、『ジキル博士とハイド氏』の3本のアメリカ映画に出演し、どの作品も大きな成功を収めた。翌1942年には、現在でもバーグマンの代表作と目されている『カサブランカ』でハンフリー・ボガートと共演した。『カサブランカ』の舞台はナチスの影響力が及ばない中立地帯であるフランス領モロッコのカサブランカで、バーグマンはポール・ヘンリードが演じた反ナチス地下組織の指導者ヴィクター・ラズローの妻である美しいノルウェー人女性イルザ役を演じた。世評とは裏腹にバーグマン自身は『カサブランカ』に必ずしも満足しておらず「私は多くの映画に出演し、なかには『カサブランカ』よりも重要な役も演じてきたつもりです。しかし人々が話題にしたがるのはボカートと共演した映画のことばかりなのですと語ったこともある。しかしながら後にバーグマンは「すでに『カサブランカ』は独り歩きしている映画なのでしょう。人々を惹き付ける不思議な魅力を持つ作品で、映画に求められていた想いを十分に満足させることができる作品といえます」とも語っている。(イングリッド・バーグマン – Wikipedia)
関連サイト
イングリッド・バーグマン の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫
カサブランカ (映画) の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫
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アメリカ合衆国のジャズピアニスト Ronnell Bright について
アメリカ合衆国のジャズピアニスト Ronnell Bright について
1987年6月2日、アメリカ合衆国のジャズピアニスト ロンネル・ブライト(ローネル・ブライト、Ronnell Bright)北海道美幌町で公演。生演奏。
Ronnell Bright (Live in Bihoro Hokkaido Japan June 2, 1987.) / Sweet Pumpkin(甘いかぼちゃ)、Don’t Call It Love、Tender Loving Care、Cherry Blossom、Missing You、Smoke Gets In Your Eyes(煙が眼にしみる)。
アメリカ合衆国のジャズピアニスト、ロンネル・ブライト (往年の大歌手サラ・ヴォーンのピアノ伴奏者)が、親子ギター「優しさごっこ」を見て、「Oh! My God!! こんど親子でニューヨークに来いよ、 オレの家でごはん食べてニューヨークのマンハッタンでジョイントライブやろうぜ」。彼はハーレムのピアノ神様です、どんな料理が出てくるのかな? 美幌のギター神様「オー! うマイ!! ゴッドさん」。
画像を拡大すると、Ronnell Bright のメッセージがあります。音楽動画は関係がありません。
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Ronnell Lovelace Bright (born July 3, 1930) is an American jazz pianist. He has also dabbled in acting, with cameo appearances in the TV shows The Jeffersons, The Carol Burnett Show, and Sanford and Son. Ronnell Bright has four children. Lois Rene’ Bright Wilkins (Michigan), Faye Bright Juliot (California), Ronnell R. Bright (Texas), and Ronnece (Nevada). Source: Ronnell Bright’s family. Career / Bright played piano from a young age and won a piano competition when he was nine years old. In 1944, he played with the Chicago Youth Piano Symphony Orchestra. He studied at Juilliard, graduating early in the 1950s. Moving back to Chicago, he played with Johnny Tate and accompanied Carmen McRae before moving to New York City in 1955. There he played with Rolf Kuhn and assembled his own trio in 1957. In 1957–58 he was with Dizzy Gillespie and acted as an accompanist for Sarah Vaughan, Lena Horne, and Gloria Lynne over the next few years. His compositions were recorded by Vaughan, Cal Tjader, Horace Silver, and Blue Mitchell. In 1964, he became Nancy Wilson’s arranger and pianist after moving to Los Angeles. Later in the decade he found work as a studio musician, playing in Supersax from 1972 to 1974. (Ronnell Bright – Wikipedia)
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加藤雅夫のあゆみ 30代 1977〜 ー 美幌音楽人 加藤雅夫
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The Water Is Wide (song) 広い河の岸辺 (歌)
- 2018年06月18日(月) 6:01
- カテゴリ: お知らせ, オホーツク, ギター, スコットランド, マンドリン, 北海道, 北見市, 国際, 日本, 映画, 美幌町, 音楽, 音楽療法
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The Water Is Wide (song) 広い河の岸辺 (歌)
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「広い河の岸辺」(ひろいかわのきしべ)、ないし、「流れは広く」(ながれはひろく)、あるいは「悲しみの水辺」(かなしみのみずべ)などとして知られる、「ザ・ウォーター・イズ・ワイド」(The Water Is Wide)、別名「オー・ワリー・ワリー」(O Waly, Waly) は、スコットランドに起源をもつ民謡であり、歌詞の一部は17世紀に起源をもつとされている。21世紀に至っても人気を保っている楽曲である。セシル・シャープ(英語版)は、1906年にこの曲を『Folk Songs From Somerset』に収録して出版した。この曲は、チャイルド・バラッド(英語版)204(ラウド・フォークソング・ インデックス(英語版)87)の「Jamie Douglas」と関係がある内容であり、表向きには第2代ダグラス侯爵ジェイムズ・ダグラスの、レディ・バーバラ・アースキン (Lady Barbara Erskine) との不幸な最初の結婚について言及したものとされる。近年における演奏 / 編曲 / 「オー・ワリー・ワリー」は、クラシック音楽系の作曲家たちに人気のある編曲の素材となっており、特にベンジャミン・ブリテンが1948年に出版した声楽とピアノのための編曲はよく知られている。ジョン・ラターは、この曲を『弦楽のための組曲』(1973年)の第3楽章で用いている。この曲は、アイザック・ウォッツによる賛美歌「さかえの主イエスの (When I Survey the Wondrous Cross) として歌われることもよくある。また、ジョン・L・ベル(英語版)の「When God Almighty came to Earth」(1987年)[15]や、フレッド・プラット・グリーン(英語版)の「An Upper Room did our Lord Prepare」(1974年)にも用いられている。さらに、ハル・ホプソン(英語版)は、作品『The Gift of Love』の中に、この曲を組み込んだ。ホプソンはまた、「ザ・ウォーター・イズ・ワイド」の曲に載せたキリスト教的な歌詞も書いており、教会の合唱隊によってしばしば歌われている。マック・ウィルバーグ(英語版)は、オリバー・ウェンデル・ホームズ・シニアの詩「Thou Gracious God」に合わせてこの曲を編曲しており、モルモンタバナクル合唱団がアルバム『Peace Like a River』に収録した。映画 / 2005年の日本映画『リンダ リンダ リンダ』では、文化祭の場面で、湯川潮音がこの曲を演奏する。日本における普及 / この曲の日本への普及には、ピーター・ポール&マリーが「There is a Ship」として歌ったバージョンが大きく影響したと考えられており、白鳥英美子などが英語詞による歌唱を録音している。佐川満男と伊東ゆかりの娘である宙美は、この曲を、山川啓介の日本語詞による「ふたりの小舟」として2007年6月6日にシングル・リリースしている。この曲は伊東ゆかりもレパートリーとしており、アルバムにも収録している。2013年、この曲に先行する日本語詞はないと誤解していたケーナ奏者八木倫明は、「広い河の岸辺」として独自の日本語詞を綴り、クミコに提供した。翌2014年、「広い河の岸辺」はシングル化され、さらにアルバム『広い河の岸辺 〜The Water Is Wide〜』もリリースされた。2014年上半期のNHKの連続テレビ小説『花子とアン』では、カナダ人女性教師の愛唱歌がこの曲という設定があり、また、同年下半期の連続テレビ小説『マッサン』では、スコットランド人であるヒロインが、この曲を口ずさむ場面があった。こうした経緯が重なり、2014年に、この曲はUSENの演歌・歌謡曲部門で8週間にわたって第1位ないし第2位となるヒットとなった(広い河の岸辺 – Wikipedia)
“The Water Is Wide” (also called “O Waly, Waly” or simply “Waly, Waly”) is a folk song of Scottish origin, based on lyrics that partly date to the 1600s.[citation needed] It remains popular in the 21st century. Cecil Sharp published the song in Folk Songs From Somerset (1906). It is related to Child Ballad 204 (Roud number 87), Jamie Douglas, which in turn refers to the ostensibly unhappy first marriage of James Douglas, 2nd Marquis of Douglas to Lady Barbara Erskine (The Water Is Wide (song) – Wikipedia)
音楽動画 (YouTube)
O Waly, Waly (The Water is Wide)
Pete Seeger – The Water is Wide
関連サイト
“The Water Is Wide” はスコットランド民謡か(1) – 日本バラッド協会
“The Water Is Wide” はスコットランド民謡か(2) – 日本バラッド協会
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赤毛のアン – 小池喜孝 (北海道 北見北斗高等学校) – 美幌音楽人 加藤雅夫
The Water Is Wide の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫
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2018 置戸グリーンフェスティバルについて
2018 置戸グリーンフェスティバルについて
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野外音楽祭OKETO GREEN FESTIVAL 7月1日・置戸町で / 置戸町内の若者らが力を合わせて開く、野外音楽祭「OKETO GREEN FESTIVAL(略称OGF)」が7月1日(日)に町スポーツセンター横特設会場で3年ぶりに開催される。沖縄県出身の人気バンド「HY」など6組のアーティストが出演する。実行委は「親子3代で楽しめるイベントにしたい」と準備を進めている。3年ぶり あの感動を再び 町内の若者中心に準備 人気アーティスト6組が出演 / OGFは若者中心の実行委の主催で、開町100周年記念事業として2015年に初めて開かれた。町内外から約3700人が来場する盛況ぶりを見せ、「1回限りでなく、続けてほしい」などと継続を求める声が多かった。こうした声を受け、昨年9月に当時の実行委メンバーを中心とする20~30代の若者約20人が「あの感動と達成感をもう一度味わいたい」「置戸を盛り上げたい」と、実行委を発足。町からの支援も受けられることとなり、3年越しの開催にこぎつけた。出演アーティストは若大将こと加山雄三さん率いるロックバンド「THE King ALL STARS」をはじめ、スカパンクバンド「KEMURI」や女性2人組ユニット「PUFFY」など全6組。「親子3代で楽しめるフェス」をコンセプトにしており、子ども向けの遊戯スペースや屋台など入場無料エリアを充実させる。実行委員長は「置戸だからこそできる、どこにもない野外音楽フェスを目指し、来場者に置戸の良さを届けることができれば」と話している。入場料6500円(小学生以下無料)、駐車券2000円。各チケットはローソンチケット、チケットぴあなどで販売している。北見バスターミナル発着のシャトルバス(有料)もある。詳細は「OGF」オフィシャルサイトまたは町中央公民館(TEL 0157-52-3075)へ。(理) (2018年6月15日の記事 経済の伝書鳩)
関連サイト
OKETO GREEN FESTIVAL 2nd | 置戸グリーンフェスティバル 2nd | 2018.07 91 SUN
【公式】祝!ブログ開設!【OGF】 – OKETO GREEN FESTIVAL official blog
オケトグリーンフェスティバル(OGF 2nd) | 社会教育・社会体育 | 教育・文化 | 置戸町役場
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OKETO GREEN FESTIVAL の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫
置戸グリーンフェスティバル の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫
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laufen(ラウフェン)のボーカル・Cuka(くか)について
laufen(ラウフェン)のボーカル・Cuka(くか)について
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オホーツクをもっと広めたい! 観光大使務める 音楽プロジェクト laufenのボーカル・Cuka(くか)さん / 第14代オホーツク観光大使を務める音楽プロジェクト「laufen(ラウフェン)」のボーカル・Cuka(くか)さんは斜里町生まれで北見緑陵高校出身。札幌を拠点としながら活動の場を道内外に広げていて、音楽だけではなく映像や言葉を通してオホーツクの魅力を発信しています。今週末に網走と北見でインストアライブのため管内入りするのに合わせて、今年上半期の活動を振り返ってもらい今後の目標についても聞きました。(公)
音楽と映像と本で 今後の目標は台湾ライブ、写真展…これからも頑張ります / laufenは平成14年にバンドとして結成。その後、ギター兼エンジニア、サウンドプロデューサーの克さんが加入しユニット形態に。活動は音楽にとどまらず、Cukaさんはラジオ番組でオホーツク地方の人々を多くゲストに招いてインタビューをしたり、道内の魅力をインターネットで伝えるサイト「北海道ファンマガジン」ではオホーツクを紹介する連載を5年に渡って続けています。そんなlaufenは、昨年の大みそかに夕張で行われたカウントダウンイベントに参加して新年を迎え、お正月の3日にはCukaさんの地元・知床でのライブと忙しいスタートを切りました。その後も初のクラウドファンディングを実施(1月)、さっぽろ雪まつり会場でのライブフェス出演(2月)、結成15周年を記念したライブを東京と札幌で開催(3月)など精力的に活動。ほかにも東京でのライブ(4月)、札幌・旭川でのライブ(5月)、そして初めての名古屋ライブ(同)も実現させました。中でもlaufen初のクラウドファンディングは「北海道オホーツクを音楽と映像と本でもっと広めたい!」を目標にインターネット上で寄付を呼びかけ、1月下旬~2月初旬の15日間で153万円を超える資金が集まったそう。集まった資金を元に、よりクオリティの高いCD、MV(ミュージックビデオ)を制作。3月に完成したCD「色彩世界」は初のミニアルバムで、MVの題材となった楽曲「ブルー」や、斜里町のオーロラファンタジー公式ソング「幻想花」のリミックスバージョンなど5曲を収録。加えてラジオでのインタビューや北海道ファンマガジンの連載などをまとめた書籍「laufen Cukaのオホーツクまち発見!!旅紀行」を同時に発売し話題となりました。クラウドファンディングによって、目標がより明確になり、夢の実現に向けて次の一歩が踏み出せたとlaufen。中国語を勉強中というCukaさんは、台湾への短期留学も経験し「中国語圏の皆さんにも、もっとオホーツクのことを知ってほしいんです」と話し、今年度中に目標の台湾ライブの実現を目指しています。また、オホーツクでの取材を続けてきたCukaさんに同行し撮影を担当するうちに写真が評価され、フォトグラファーとしても活動を始めた克さんの写真展も開催予定。「写真でもオホーツクの魅力を伝えたい。同時にライブを行うことで、よりオホーツクに興味を持ってもらえるはず」と意気込んでいます。
16日 網走・17日 北見でインストアライブ / トークも交えたインストアライブは、16日(土)がTSUTAYA網走店で午後1時からと4時からの2回。同店ではライブに先行してlaufenのCDや書籍、グッズを販売中です。17日(日)はコーチャンフォー北見店で午後1時からと3時からの2回です。(2018年6月15日の記事 経済の伝書鳩)
関連サイト
NEW RELEASE – laufen official website
laufen(ラウフェン)にインタビュー – 北海道ファンマガジン [ファンマガ]
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