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1000万アクセス カテゴリのアーカイブ
1947年 (昭和22年) 9月3日 誕生日 (美幌音楽人 加藤雅夫)
- 2018年09月03日(月) 0:12
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1947年 (昭和22年) 9月3日 誕生日 (美幌音楽人 加藤雅夫)
2112年 9月3日 誕生日 (ドラえもん)
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今日(9月3日)は、ドラえもんと雅夫の誕生日です- 美幌音楽人 加藤雅夫
2112年9月3日、ドラえもんが誕生!(100年前) – 美幌音楽人 加藤雅夫
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9月3日 の誕生花。(ヒョウタン) – 美幌音楽人 加藤雅夫
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2112年 9月3日 誕生日 (ドラえもん)
- 2018年09月03日(月) 0:11
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9月3日 フィクションのできごと / 誕生日(フィクション) 2112年 – ドラえもん、藤子・F・不二雄作の漫画・アニメ『ドラえもん』の主人公。 (9月3日 今日は何の日~毎日が記念日~)
ドラえもんは、藤子・F・不二雄の漫画『ドラえもん』に登場する架空のネコ型ロボット[1]。漫画作品『ドラえもん』の主人公。概要 / 量産型の子守用ネコ型ロボット(友達タイプ)。性別は雄。何をやらせてもドジばかりの小学生・野比のび太を一人前の大人にするため、22世紀の未来からやってきた。生い立ち / 新設定 / 2112年9月3日(乙女座)、トーキョーマツシバロボット工場で製造されたネコ型ロボット第1号。 (ドラえもん (キャラクター) – Wikipedia)
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2016年(平成28年)8月8日 天皇陛下のおことば (日本)
- 2018年08月08日(水) 8:28
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8月8日 できごと / 2016年 – 今上天皇が、ビデオメッセージの形でお気持ち(コメント)を発表。 (8月8日 – Wikipedia)
象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(しょうちょうとしてのおつとめについてのてんのうへいかのおことば)とは、2016年(平成28年)8月8日15時に日本で放送された、第125代今上天皇自らによるビデオ映像を用いて国民向けに発した「おことば」である。 (象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば – Wikipedia)
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象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば – 政府インターネットテレビ
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日本の皇室のご活動・ニュース (平成30年 夏)
- 2018年08月01日(水) 7:39
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日本の皇室のご活動・ニュース (平成30年 夏)
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皇室(こうしつ)は、天皇および皇族の総称。 狭義には内廷皇族、広義には天皇とその近親である皇族を意味するが、皇族の範囲は時期によって異なる。 近代(明治維新)以降は、天皇と内廷皇族を家族とする内廷と皇太子以外の皇族男子及びその家族で構成される宮家を意味する。 皇室典範第五条に定める、天皇の配偶者である皇后、先代の天皇の未亡人である皇太后、先々代の天皇の未亡人である太皇太后、また、皇太子(皇太孫)、皇太子妃(皇太孫妃)、皇族男子たる親王、王、さらには生まれながらの皇族女子である内親王、女王がある。親王妃、王妃は親王、王の配偶者となることをもって、皇族とされる。戦前(大日本帝国憲法下、日本国憲法施行まで)においては、帝室(ていしつ)とも呼ばれていた。 一般国民の女性は、皇族男子との婚姻により皇族になることができる。また、15歳以上の内親王、王、女王はその意思により、皇太子、皇太孫を除く親王、内親王、王、女王は、その意思によるほかにやむをえない特別の事由があるとき、皇室会議の議決を経て皇族の身分を離脱できる。なお、皇族女子は天皇、皇族以外の者と婚姻したとき皇族の身分を離れる(臣籍降下・臣籍降嫁)。(皇室 – Wikipedia)
皇室の系図一覧(こうしつのけいずいちらん)では、日本の皇室(天皇および皇族)、並びに皇室を祖とする氏族に連なる人物のうち、日本史上の主要な人物を配した系図の一覧を示す。神話上の人物も、実在の人物とする説はあるので記載する。(皇室の系図一覧 – Wikipedia)
関係サイト
The Imperial Household Agency Website
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ギターが大好きな 秋篠宮文仁親王殿下 – 美幌音楽人 加藤雅夫
皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀(皇室の儀式)について – 美幌音楽人 加藤雅夫
2019年 これからは美しく生きて行く時代へ – 美幌音楽人 加藤雅夫
2019年4月10日 天皇皇后両陛下の60回目の結婚記念日 – 美幌音楽人 加藤雅夫
4月9日 天皇皇后両陛下ご訪問の日(パラオ・ペリリュー州) – 美幌音楽人 加藤雅夫
天皇家の皆さま方と美幌峠(美幌町) ー 美幌音楽人 加藤雅夫
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中国の 江沢民国家主席に三つの高級手工ギターを献上
- 2018年07月08日(日) 0:32
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中国の 江沢民国家主席に三つの高級手工ギターを献上
1998年11月30日、中国の江沢民国家主席の北海道訪問(初)、日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約20周年を記念して、三つの高級手工ギターを献上。平和・友情・音楽交流の道具として。
1998年11月17日、中華人民共和国 駐札幌総領事館(王泰平総領事)でギターの献上式。代表・加藤雅夫(北海道美幌町)、ギター製作家・小森廣(北海道伊達市)井田英夫(東京都保谷市)青木保之(北海道当別町)。
1998年12月28日、中国の江沢民国家主席から返礼。国章付き紫砂茶器一式(中国茶具、江蘇省宣興の名品)、名刺、本など、札幌中国総領事館を通じて受ける。王泰平総領事談~ 中国の国家主席が日本の民間人に国章付きの礼品は先例がありません。加藤先生が中国でトラブルにあったら、江沢民国家主席の名刺は水戸黄門さまの印籠と同じ威力がありますよ。
中国の江沢民国家主席は、北海道の千歳空港から三つのギターを嬉しそうに大切に持ち帰った。国賓と民間の立場の違いはあっても、人の心のふれあいには上下関係がありません。国際交流の原点と一致です。心良い人々の協力と支援で実現できました。がんばって来て良かった! みなさん、本当にありがとうございました。
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江 沢民(こう たくみん、ジャン・ツォミン、1926年8月17日 – )は、中華人民共和国の政治家。鄧小平引退後の中国の最高指導者で、中国共産党中央委員会総書記、中国共産党中央軍事委員会主席、中華人民共和国主席、中華人民共和国中央軍事委員会主席を務めた。経歴 / テクノクラート / 江蘇省揚州市に生まれる。1943年に楊州中学卒業後、汪兆銘政権下の南京中央大学に入学し、日本語を専攻する。日中戦争終結後の1945年10月に南京中央大学が上海交通大学と合併したため、江沢民は上海交通大学に転籍し、1947年に卒業した。江沢民の経歴を語るとき、南京中央大学に在籍していたことについて触れられることは少ない。1946年4月、中国共産党に入党。このときの江は、大学の党支部書記など指導的立場ではなく、一党員に過ぎなかった。上海市長・党委書記 / 党総書記・国家主席 / 外交政策 / 対日関係 / 江沢民は1992年4月6日に田中角栄への見舞いも兼ねて訪日した際に天皇を中国に招待、同年10月に今上天皇・皇后は中国を訪問することになる。1998年11月、江沢民は中国の国家元首として初めて日本を訪れた。魯迅が留学していた仙台市を訪問した際には、魯迅が学んだ東北大学の教室で記念撮影をしたり、日中友好を願った直筆の漢詩を送るなど終始友好的なムードが保たれた。逸話 / 芸術に対する造詣が深い。ピアノ・二胡・ギターなどを弾ける。ハワイ訪問中にハワイアンギターで『アロハ・オエ』を演奏したこともある。また、外遊中に京劇や現地の歌謡曲を歌ったことがある。繁体字と簡体字を混用した揮毫好きは有名である。2003年時点で中国国内にある江の揮毫は既に毛沢東を超え、33,800点に上った。 (江沢民 – Wikipedia)
江泽民(1926年8月17日-),祖籍江西婺源江湾,出生于中國江苏扬州,1946年4月加入中国共产党。1989年6月至2002年11月担任中国共产党中央委员会总书记;1989年11月至2004年9月担任中国共产党中央军事委员会主席。1990年3月至2005年3月担任中华人民共和国中央军事委员会主席;1993年3月至2003年3月担任中华人民共和国主席。中国共产党第十三至十五届中央政治局常务委员会委员。中国共产党第三代中央领导集体的核心。 (江泽民- 维基百科,自由的百科全书
Jiang Zemin (UK: /dʒiˈæŋ ʒeɪˈmɪn/, US: /dʒiˈɑːŋ zəˈmɪn/; born 17 August 1926) is a retired Chinese politician who served as General Secretary of the Communist Party of China from 1989 to 2002, as Chairman of the Central Military Commission from 1989 to 2004, and as President of the People’s Republic of China from 1993 to 2003. Jiang has been described as the “core of the third generation” of Communist Party leaders since 1989. Jiang Zemin came to power unexpectedly as a ‘compromise candidate’ following the Tiananmen Square protests of 1989, when he replaced Zhao Ziyang as General Secretary after Zhao was ousted for his support for the student movement. With the waning influence of Eight Elders due to old age and with the death of Deng Xiaoping, Jiang consolidated his hold on power and became the “paramount leader” of the country in the 1990s. Under Jiang’s leadership, China experienced substantial economic growth with the continuation of reforms, saw the peaceful return of Hong Kong from the United Kingdom and Macau from Portugal, and improved its relations with the outside world while the Communist Party maintained its tight control over the government. His contributions to party doctrine, known as the “Three Represents,” were written into the party’s constitution in 2002. Jiang vacated the post of party General Secretary and Politburo Standing Committee in 2002, but did not relinquish all of his leadership titles until 2005, and continued to influence affairs until much later. At the age of 91 years, 319 days Jiang Zemin is the longest-living General Secretary and President of the People’s Republic of China. (Jiang Zemin – Wikipedia)
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Jiang Zemin の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫
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日本の音楽家・作曲家 瀧廉太郎 (Rentaro Taki)
日本の音楽家・作曲家 瀧廉太郎 (Rentaro Taki)
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記念日 6月29日 / 廉太郎忌 / 作曲家・滝廉太郎の1903(明治36)年の忌日。6月29日 忌日 / 1903年 瀧廉太郎 (作曲家) <23歳> (6月29日 今日は何の日~毎日が記念日~)
6月29日 忌日 / 1903年 – 瀧廉太郎、作曲家。 (6月29日 – Wikipedia)
瀧 廉太郎(たき れんたろう、Rentaro Taki、1879年(明治12年)8月24日 – 1903年(明治36年)6月29日)は、日本の音楽家、作曲家。明治の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人である。一般的には「瀧」は「滝」と表記されることも多い。生涯 / 1879年(明治12年)8月24日、瀧吉弘の長男として東京府芝区南佐久間町2丁目18番地(現:東京都港区西新橋2丁目)に生まれる。瀧家は江戸時代に、豊後国日出藩の家老職を代々つとめた上級武士の家柄である。父・吉弘は大蔵省から内務省に転じ、大久保利通や伊藤博文らのもとで内務官僚として勤めた後、地方官として神奈川県や富山県富山市、大分県竹田市などを移り住んだため、廉太郎も生後間もなくから各地を回ることにとなった。1886年(明治19年)5月、神奈川県師範学校附属小学校に入学。同年9月、富山県尋常師範学校附属小学校(現在の富山大学人間発達科学部附属小学校)に転校。1888年(明治21年)5月、麹町尋常小学校(現在の千代田区立麹町小学校)に転校し、同校を1890年(明治23年)に卒業。卒業時にはピアノを演奏したと伝えられるが、その曲目は不明。同年に15歳で東京音楽学校(現:東京藝術大学)に入学する。1898年(明治31年)に本科を卒業し、研究科に進む。こうして瀧は作曲とピアノ演奏でめきめきと才能を伸ばしていった。1900年10月7日には東京市麹町区(現:千代田区)にあった聖公会グレース・エピスコパル・チャーチ(博愛教会)で洗礼を受けてクリスチャンになり、10月28日にジョン・マキムから堅信礼を受けた。明治時代の前半に多くの翻訳唱歌ができたが、日本語訳詞を“無理にはめこんだ”ぎこちない歌が多く、日本人作曲家によるオリジナルの歌を望む声が高まっていた。彼の代表作である「荒城の月」は、「箱根八里」と並んで文部省編纂の「中学唱歌」に掲載された。また、人気の高い曲のひとつである「花」は1900年(明治33年)8月に作曲された、4曲からなる組曲『四季』の第1曲である。「お正月」、「鳩ぽっぽ」(「鳩」とは別物である)、「雪やこんこん」(文部省唱歌「雪」とは別物である)などは、日本生まれの最も古い童謡作品として知られるが、これらは1900年(明治33年)に編纂された幼稚園唱歌に収められた。また「荒城の月」は、ベルギーで讃美歌になったことも判明した。またピアニストとしては特にラファエル・フォン・ケーベルに私淑し、その影響を大きく受けてドイツ音楽を至上とする奏法を貫いていた。1901年(明治34年)4月、日本人の音楽家では2人目となるヨーロッパ留学生として出国し、5月18日にドイツのベルリンに到着。同地で日本語教師を務めていた文学者の巌谷小波や、ヴァイオリニストの幸田幸、また海軍軍楽隊から派遣されたクラリネット奏者吉本光蔵(後に「君が代行進曲」作曲)などと交友を持ち、共に室内楽を演奏したりした。さらにライプツィヒに向かい、ライプツィヒ音楽院(設立者:メンデルスゾーン)に入学する。文部省外国留学生として入学、ピアノや対位法などを学ぶが、わずか5か月後の11月に肺結核を発病し、現地の病院で入院治療するが病状は改善せず、帰国を余儀なくされる。1902年(明治35年)7月10日にドイツを発ち、ロンドンを経由して10月17日に横浜に着く。その後は父の故郷である大分県で療養していたが、1903年(明治36年)6月29日午後5時に大分市稲荷町339番地(現:府内町)の自宅で死去した。23歳没(満24歳)。結核に冒されていたことから死後多数の作品が焼却されたという。作曲数が多かったと考える者もいるようだが、現在はっきりとその存在が確認されている作曲作品は34曲と決して多くはない(編曲作品も幾らか現存)。瀧家の墓所は日出町の龍泉寺であるが、廉太郎は父と親交のあった大分市金池町の万寿寺に葬られた。戒名は直心正廉居士。2011年(平成23年)3月、廉太郎の墓は、親族らの意向により万寿寺から先祖の眠る龍泉寺へと移設された。龍泉寺には、瀧がドイツ留学時に愛用していた火鉢が残されている。作品 / 歌曲に有名な作品が多い瀧だが、1900年には日本人作曲家による初めてのピアノ独奏曲『メヌエット』を作曲している。肺結核が悪化して、死期が近いことを悟った時、死の4か月前に作曲したピアノ曲『憾(うらみ)』が最後の作品として残された。『メヌエット』『憾』を除いて、全て声楽作品である。 (瀧廉太郎 – Wikipedia)
『憾』(うらみ/ドイツ語:Bedauernswerth)は、日本の作曲家瀧廉太郎の数少ないピアノ曲の一つ。死の数ヶ月前という中(1903年)で作られた作品。ピアノ演奏技術として極端な進展はないものの、文明開化の中で西洋器楽音楽を取り入れようとする創意がある。全音楽譜出版社の『全音ピアノピース』で発売されているが、出版譜と自筆譜には差異が指摘されており、ミューズテック音楽出版から「メヌエット」と共に校訂版が出版されている。日本人のピアノ独奏作品としては最も古いものの一つ。『荒城の月』をはじめとする歌曲が作品のほとんどを占める作曲者であるが、器楽曲を日本に導入しようという強い意思が早すぎる晩年に現れている。なお、「憾」とは、憎しみの気持ちのことではなく、心残りや未練、無念といった気持ちのことである。この曲の自筆譜の余白に「Doctor!Doctor!」と走り書きがあったとされており、自身の若すぎる死を控えた「憾」の表れと考えられている。 (憾 (瀧廉太郎) – Wikipedia)
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Bedauernswerth の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫
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ギターが大好きな 秋篠宮文仁親王殿下
- 2018年06月29日(金) 0:22
- カテゴリ: 1000万アクセス, お知らせ, アジア, オホーツク, ギター, 北海道, 国際, 日本, 日本の皇室, 美幌町, 音楽
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ギターが大好きな 秋篠宮文仁親王殿下
1992年(平成4年)7月10日、秋篠宮家の宮邸を訪問。庭園のアジサイ(紫陽花)が歓迎してくれました(うるはしき 色は匂へど 何んとなく さびしく見ゆる あちさゐの花 明治天皇)。日中国交正常化20周年記念音楽祭ご招待(新宿文化センター大ホール)葉紅旗&南京伝統楽器演奏団・新堀寛己指揮新堀ギターオーケストラ。宮務官・富士亮さん(農学博士 宮内庁オーケストラ・ビオラ演奏者)の心良きはからいで訪問できました。ありがとうございました。
赤坂御用地の巽門を一歩入ると、ほど良く手入れされた緑の自然が豊かに広がっていました。ここは都会の真ん中かしら? 北海道の美幌町に帰って来てしまったような気持ちです。庭園を1人で歩いていると、高校生らしい女の子がやってきて「ごきげんよう!」と丁寧にあいさつをしてくれました。私は、こういうところの職員の子は良く躾けられているんだなあ、と感心して気軽に片手をあげて「やあ!こんにちは」と言って通り過ぎてしまいました。そして秋篠宮家の宮邸の玄関に着くと、宮務官が「今さっき、紀宮清子さま(黒田清子)がお帰りになられましたが途中でお会いされましたか」私は「はい、ちゃんとご挨拶いたしました!」 。
1999年(平成11年)5月14日、秋篠宮家の宮邸を訪問。日中音楽交流とギター贈呈について。お土産は、美幌町のスズラン(50苗)新居の庭で可愛く咲きますように。眞子さま、佳子さま、喜びますように! オホーツクの澄んだ空気と青空の下で、お会い出来ますように。
2006年(平成18年)2月24日、秋篠宮文仁親王妃 紀子さま(39歳)ご懐妊(宮内庁発表)。9月下旬ご出産予定。おめでとうございました。5月24日、秋篠宮家の宮邸にお祝いメッセージと懐かしの資料を送呈。5月29日、秋篠宮家の宮邸の宮務官・徳丸久衛さんから電話「とても喜ばれて、宜しくとのことです」。よかった!「美幌町の夕食宅配サービス」「イランカラプテ川柳」ご覧になっている?!
2006年(平成18年)6月1日、秋篠宮文仁親王殿下(40歳)東京農大オホーツクキャンパスご来訪。生き物文化誌学会 第4回芸術大会(オホーツク大会)ご出席。
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秋篠宮(あきしののみや)は、日本の皇室の宮家の一つで、今上天皇の第二皇男子・文仁親王の宮号。概要 / 1990年(平成2年)6月29日、秋篠宮文仁親王と川嶋紀子との結婚を機に創設された。構成 / 秋篠宮文仁親王、文仁親王妃紀子、眞子内親王、佳子内親王、悠仁親王。(秋篠宮 – Wikipedia)
秋篠宮文仁親王(あきしののみや ふみひとしんのう Fumihito, Prince Akishino、1965年〈昭和40年〉11月30日 – )は、日本の皇族。今上天皇の第二皇男子。秋篠宮の家祖。母は皇后美智子。身位は親王、皇室典範における敬称は殿下。お印は栂。皇位継承順位は兄・皇太子徳仁親王に次ぐ第2位。勲等は大勲位菊花大綬章。学位は博士(理学)(総合研究大学院大学・1996年)。そのほか、タイ王国複数の大学より、名誉博士の名誉学位・称号を授与されている。住居(秋篠宮・宮邸)は東京都港区元赤坂二丁目の赤坂御用地内。1997年(平成9年)3月からは旧秩父宮・宮邸を使用している。2007年9月5日から現在まで皇室会議の議員を務めている。皇位継承資格 / 現在の皇位継承順位は実兄の皇太子徳仁親王に次いで第2位。天皇陛下の譲位にあたり、2018年現在皇位継承順位1位の実兄である皇太子徳仁親王が皇位を継承した場合、文仁親王は新たに皇位継承順位1位となる。政府は文仁親王の新たな敬称について、「皇嗣殿下」とする方針を固めた。なお、その待遇については現在の皇太子と同等になる。(秋篠宮文仁親王 – Wikipedia)
赤坂御用地(あかさかごようち)は、東京・赤坂にある皇室関連施設の名称であり、敷地内には以下の御所・宮邸がある。また、敷地の内部には園遊会が開催されることで知られる赤坂御苑がある。宮邸 / 秋篠宮邸 / 秋篠宮邸は御用地の南東部に位置する秋篠宮家の宮邸である。北に赤坂東邸が隣接し、正門は巽門という。秋篠宮邸は、改修した旧秩父宮邸を1997年(平成9年)3月から現宮邸として使用しているものである。文仁親王が皇嗣となった後は、増築が予定されている他、赤坂東邸も秋篠宮邸と一体となった利用が検討されている。(赤坂御用地 – Wikipedia)
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Here’s looking at you, kid. 君の瞳に乾杯
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6月20日 歴史 / 1946年 イングリッド・バーグマン主演の『カサブランカ』が日本で封切り。(6月20日 今日は何の日~毎日が記念日~)
『カサブランカ』(英語: Casablanca)は、1942年製作のアメリカ映画。概要 / 第二次世界大戦にアメリカが参戦した翌年の1942年に製作が開始され、同年11月26日に公開された、物語の設定時点の1941年12月時点では親ドイツのヴィシー政権の支配下にあったフランス領モロッコのカサブランカを舞台にしたラブロマンス映画。監督はマイケル・カーティス。配給はワーナー・ブラザース。評価 / アメリカ映画ベスト100(1998年)の2位、スリルを感じる映画ベスト100(2001年)の42位、情熱的な映画ベスト100(2002年)の1位、アメリカ映画主題歌ベスト100(2004年)の2位(『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』”As Time Goes By”)、アメリカ映画の名セリフベスト100(2005年)の5位(「Here’s looking at you, kid.(君の瞳に乾杯)」)、感動の映画ベスト100(2006年)の32位、アメリカ映画ベスト100(10周年エディション)(2007年)では、順位を一つ落としたものの3位。公開後80年近く経ってもなお、不滅の人気を誇るロマンス・フィルムである。なお、映画スターベスト100(1999年)の男性1位にハンフリー・ボガート、女性4位にイングリッド・バーグマンが選ばれている。また、ヒーローと悪役ベスト100(2003年)の4位には、ボガートの演じたRickが選ばれた。米脚本家組合(WGA)は、1930年以降の映画の中より「偉大な脚本歴代ベスト101」の1位として選出した。名文句 / アメリカ映画協会 (AFI)選定の 「アメリカ映画の名セリフベスト100」(2005年)の中に以下のセリフがランクインしている。第5位:”Here’s looking at you, kid.”「君の瞳に乾杯」。その他 / 映画のテーマ曲『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』は、音楽を担当したスタイナーの作曲ではなく、ハーマン・フップフェルド (Herman Hupfeld) がステージショーのために、1931年に作詞・作曲した古い流行歌を取り上げたものである。『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』と並んで劇中で演奏される『イット・ハド・トゥ・ビー・ユー』”It Had to Be You” は、ロブ・ライナー監督映画の『恋人たちの予感』(1989年)で引用される。 “It had to be you It had to be you I wandered around and finally found “(君だったんだ、探していたのは…)のフレーズは古典中の古典であり、フランク・シナトラのメドレーナンバーでもある。ハリー・コニック・Jrによる映画のサントラは、世界中で大ヒットし、この年のグラミー賞(最優秀男性ジャズ・ヴォーカル賞)を獲得した。前述の映画主題歌ベスト100(2004年)の60位である。劇中ドゥリー・ウィルソン演じるサムが使用したピアノは、2014年11月、ニューヨークでオークションにかけられ341万3000ドル(約4億円)で落札された。なお、実際にはウィルソンはピアノは弾けず、ほとんどの演奏が合成である。(カサブランカ (映画) – Wikipedia)
イングリッド・バーグマン(典: Ingrid Bergman, 1915年8月29日 – 1982年8月29日)は、ヨーロッパとアメリカで活躍したスウェーデン出身の女優。Ingrid Bergman はスウェーデン語ではインリド・ベリマン [ˈɪŋːrɪd ˈbærjman] と発音される。業績 / アカデミー賞を3回、エミー賞を2回、トニー賞の演劇主演女優賞の受賞経験があり、AFI(アメリカ映画協会)選定の「映画スターベスト100」の女優部門では第4位となっている。バーグマンが演じた役でもっとも有名な役と言われているのが、ハンフリー・ボガートと共演した『カサブランカ』(1942年)のイルザ・ラント役とケーリー・グラントと共演した『汚名』(1946年)のアリシア・ヒューバーマン役である。バーグマンはアメリカで女優として成功をおさめる以前から、スウェーデンでは名を知られた女優だった。バーグマンがアメリカ映画に初出演したのは、スウェーデン映画の『間奏曲』をリメイクした『別離』(1939年)である。その際立った美貌と知性でアメリカ映画に「北欧からの瑞々しい息吹」を吹き込んだバーグマンは、すぐさま「アメリカ人女性の理想」となりハリウッドを代表する女優の一人となったと『ポピュラーカルチャー百科事典』(en:St. James Encyclopedia of Popular Culture)に記されている。映画監督ヴィクター・フレミングがリメイクした映画『ジキル博士とハイド氏』(1941年)に出演したバーグマンは、後に自身をハリウッドへ招くことになる映画プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックに認められた。セルズニックはバーグマンのことを、今までともに仕事をしてきた中で「もっとも完成された誠実な女優」と評価している。セルズニックはバーグマンに7年間の出演契約を提示し、その後の女優活動をプロデューサーとして支えていくことになる。バーグマンがセルズニックとは無関係に出演した映画には『カサブランカ』(1942年)、『誰が為に鐘は鳴る』(1943年)、『ガス燈』(1944年)、『聖メリーの鐘』(1945年)『汚名』(1946年)、『山羊座のもとに』(1949年)があり、独立系映画としては『ジャンヌ・ダーク』(1948年)がある。ハリウッド進出以来、10年間にわたってアメリカでスター女優の地位を守り続けたバーグマンは、1950年にロベルト・ロッセリーニが監督するイタリア映画『ストロンボリ/神の土地』に主演した。この作品がきっかけとなり、バーグマンとロッセリーニはともに既婚者であったにも関わらず、不倫関係を持つようになる。この不倫関係とその後の二人の結婚は大きなスキャンダルとなり、バーグマンはその後の数年間アメリカに戻ることができなくなった。1956年の『追想』でハリウッドに復帰したバーグマンは、この映画でアカデミー主演女優賞を受賞するとともに、旧来のファンもバーグマンを許したといわれている。バーグマンに関する私生活や映画関連の文献は、ウェズリアン大学のシネマ・アーカイブが多く所蔵している。 ハリウッド時代、1939年 – 1949年 / 『カサブランカ』(1942年) / スウェーデンで最後の映画に出演した後、1941年にバーグマンは『四人の息子』、『天国の怒り』、『ジキル博士とハイド氏』の3本のアメリカ映画に出演し、どの作品も大きな成功を収めた。翌1942年には、現在でもバーグマンの代表作と目されている『カサブランカ』でハンフリー・ボガートと共演した。『カサブランカ』の舞台はナチスの影響力が及ばない中立地帯であるフランス領モロッコのカサブランカで、バーグマンはポール・ヘンリードが演じた反ナチス地下組織の指導者ヴィクター・ラズローの妻である美しいノルウェー人女性イルザ役を演じた。世評とは裏腹にバーグマン自身は『カサブランカ』に必ずしも満足しておらず「私は多くの映画に出演し、なかには『カサブランカ』よりも重要な役も演じてきたつもりです。しかし人々が話題にしたがるのはボカートと共演した映画のことばかりなのですと語ったこともある。しかしながら後にバーグマンは「すでに『カサブランカ』は独り歩きしている映画なのでしょう。人々を惹き付ける不思議な魅力を持つ作品で、映画に求められていた想いを十分に満足させることができる作品といえます」とも語っている。(イングリッド・バーグマン – Wikipedia)
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Narciso Yepes ナルシソ・イエペス の捧げもの
- 2018年05月03日(木) 0:44
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Narciso Yepes ナルシソ・イエペス の捧げもの
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Narciso Yepes (14 November 1927 – 3 May 1997) was born into a family of humble origin in Lorca, Region of Murcia. His father gave him his first guitar when he was four years old, and took the boy five miles on a donkey to and from lessons three days a week. Yepes took his first lessons from Jesus Guevara, in Lorca. Later his family moved to Valencia when the Spanish Civil War started in 1936. On 16 December 1947 he made his Madrid début, performing Joaquín Rodrigo’s Concierto de Aranjuez with Ataúlfo Argenta conducting the Spanish National Orchestra. The overwhelming success of this performance brought him renown from critics and public alike. Soon afterwards, he began to tour with Argenta, visiting Switzerland, Italy, Germany, and France. During this time he was largely responsible for the growing popularity of the Concierto de Aranjuez, and made two early recordings, both with Argenta[6] – one in mono with the Madrid Chamber Orchestra (released between 1953 and 1955), and the second in stereo with the Orquesta Nacional de España (recorded in 1957 and released in 1959). On 18 May 1951, as he leant on the parapet of a bridge in Paris and watched the Seine flow by, Yepes unexpectedly heard a voice inside him ask, “What are you doing?” He had been a nonbeliever for 25 years, perfectly content that there was no God or transcendence or afterlife. But that existential question, which he understood as God’s call, changed everything for him. He became a devout Catholic, which he remained for the rest of his life. In 1952 a work (”Romance”), Yepes claims to have written when he was a young boy,[10] became the theme to the film Forbidden Games (Jeux interdits) by René Clément. Despite Yepes’s claims of composing it, the piece (”Romance”) has often been attributed to other authors; indeed published versions exist from before Yepes was even born[citation needed], and the earliest known recording of the work dates from a cylinder from around 1900.[citation needed] In the credits of the film Jeux Interdits, however, “Romance” is credited as “Traditional: arranged – Narciso Yepes.” Yepes also performed other pieces for the Forbidden Games soundtrack. His later credits as film composer include the soundtracks to La Fille aux yeux d’or (1961) and La viuda del capitán Estrada (1991). He also starred as a musician in the 1967 film version of El amor brujo. In Paris he met Maria Szumlakowska, a young Polish philosophy student, the daughter of Marian Szumlakowski, the Ambassador of Poland in Spain from 1935 to 1944. They married in 1958 and had two sons, Juan de la Cruz (deceased), Ignacio Yepes, an orchestral conductor and flautist, and one daughter, Ana Yepes, a dancer and choreographer. In 1964, Yepes performed the Concierto de Aranjuez with the Berlin Philharmonic Orchestra, premièring the ten-string guitar, which he invented in collaboration with the renowned guitar maker José Ramírez III. After 1964, Yepes used the ten-string guitar exclusively, touring all six inhabited continents, performing in recitals as well as with the world’s leading orchestras, giving an average of 130 performances each year. He recorded the Concierto de Aranjuez for the first time with the ten-string guitar in 1969 with Odón Alonso conducting the Orquesta Sinfonica R.T.V. Española. Apart from being a consummate musician, Yepes was also a significant scholar. His research into forgotten manuscripts of the sixteenth and seventeenth centuries resulted in the rediscovery of numerous works for guitar or lute. He was also the first person to record the complete lute works of Bach on period instruments (14-course baroque lute). In addition, through his patient and intensive study of his instrument, Narciso Yepes developed a revolutionary technique and previously unsuspected resources and possibilities. He was granted many official honours including the Gold Medal for Distinction in Arts, conferred by King Juan Carlos I; membership in the Academy of “Alfonso X el Sabio” and an Honorary Doctorate from the University of Murcia. In 1986 he was awarded the Premio Nacional de Música of Spain, and he was elected unanimously to the Real Academia de Bellas Artes de San Fernando. In the 1980s, Yepes formed Trio Yepes with his son Ignacio Yepes on flute and recorder and his daughter Ana dancing to her own choreography. After 1993, Narciso Yepes limited his public appearances due to illness. He gave his last concert on 1 March 1996 in Santander (Spain). He died in Murcia in 1997, after a long battle with lymphoma. (Narciso Yepes – Wikipedia)
ナルシソ・イエペス(Narciso Yepes、1927年11月14日 – 1997年5月3日)はスペインのギタリスト、作曲家。ナルシソ・ジェペスとも表記される。来歴 / スペインのムルシア地方のロルカ近郊の農家に生まれた。4歳の時に初めてギターに触れ、ロルカの音楽アカデミーでギターを学び、その後バレンシア音楽院に進んでギターや作曲を学んだ。ここで、作曲家のビセンテ・アセンシオ教授に大きな影響を受ける。また、マドリード音楽院では、サインス・デ・ラ・マーサにギターを師事した。1947年12月17日スペイン劇場でのスペイン国立管弦楽団の定演コンサートに名指揮者アタウルフォ・アルヘンタにより招かれ、ロドリーゴのアランフエス協奏曲を演奏した。その後に行われたパリやジュネーヴなどでの演奏会の成功で、イエペスの名はヨーロッパ中に知れ渡った。1952年に、パリのカフェで映画監督のルネ・クレマンと偶然知り合い、「映画自体はすでに撮ってあるが、どんな音楽をつけたらよいか決めかねているので、映画のための音楽を担当してほしい」と監督から依頼を受ける。当初、アンドレス・セゴビアに音楽を担当してもらう予定だったが、すでに映画制作の為の予算を使い果たしており、セゴビアとは制作費の折り合いがつかず、当時まだ新人であったイエペスに音楽担当の依頼をする事となった。 そこで、24歳のイエペスは映画『禁じられた遊び』の音楽の編曲・構成、演奏を1本のギターだけで行った。そして、その映画が公開されると、メインテーマ曲「愛のロマンス」が大ヒットし、世界的に有名なギタリストとなった。それから世界各地でリサイタルやオーケストラとの共演を行い、日本にも1960年から1996年までの間に計17回訪問した。1964年からは、ホセ・ラミレス3世と共同で通常より音域の広い10弦ギターを開発した。演奏の軽快さが多少犠牲になり、一部では批判もあったが、均一な共鳴をもつ透明度の高い音色を実現し、多くの音楽愛好家に受け入れられた。1989年4月スペイン芸術院のサン・フェルナンド王立アカデミーの会員に任命された。これはサインス・デラマーサ、アンドレス・セゴビアに続く3人目の栄誉である。1990年頃に、悪性リンパ腫に冒されている事が発覚し、1993年には医師から演奏活動の中止を忠告されたが、その後も演奏活動を続けた。だが、1996年3月にサンタンデール音楽祭に出演したのが最後のステージとなり、1997年5月3日に69歳で死去した。イエペスの信念である「芸術は神のほほえみである」の名のもとに10弦ギターで世界各地を演奏活動して回ったことにより、日本はもとより全世界で圧倒的な人気を誇り、なお且つ世界各地に及ぼした音楽的影響の高さはひときわ抜きん出ていた。レパートリーの広さ(バッハのリュート組曲におけるバロック・リュートの演奏、テレサ・ベルガンサとの歌の伴奏、世界各地のオーケーストラとのギターコンチェルトによる共演、フェルナンド・ソルの練習曲集の演奏、カタルーニャ地方の民謡を集めた曲集の演奏、ラテン系の近代・現代の作曲家の作品の10弦ギターによる演奏、弟子のモンダンとの二重奏、「トリオ・イエペス」による親子の共演等 )も、来日回数も、他の追随を許さぬものがあり、年間120回にもおよぶ演奏会を30年近く世界各地で行い、今までに録音したレコードの枚数も50枚を超えた(1967年から1989年まではドイツ・グラモフォン専属となった)。日本国内での代表的な弟子として、荘村清志、芳志戸幹雄、小原聖子等がいる。イエペスには数々の栄誉が与えられており、代表的なものとしてムルシア大学名誉博士号、イサベル・ラ・カトリカ十字章、スペイン国王から芸術功労金メダル、スペイン文化賞からスペイン音楽大賞、スペイン作曲家協会賞、国営テレビ局大賞等がある。(ナルシソ・イエペス – Wikipedia)
関連サイト
Narciso Yepes Official Homepage (ナルシソ·・イエペス公式ホームページ)
Ana Yepes (アナ・イエペス)| earlydance.org
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花はどこへ行った(ピート・シーガー)について
- 2018年05月03日(木) 0:43
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花はどこへ行った(ピート・シーガー)について
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「花はどこへ行った」(はなはどこへいった、原題 Where have all the flowers gone?)は、世界で一番有名な反戦歌とも言われるフォークの楽曲。アメリカンフォークの父とも形容されるピート・シーガーによる作詞作曲であり、シーガーの代表作でもある。「花はどこへ行ったの」と訳される場合もある。歌詞の構成・メッセージ / 「花はどこへ行った 少女がつんだ」→「少女はどこへ行った 男の下へ嫁に行った」→「男はどこへ行った 兵隊として戦場へ」→「兵隊はどこへ行った 死んで墓に行った」→「墓はどこへ行った 花で覆われた」と続き、再び冒頭の「花はどこへ行った 少女がつんだ」となる。最後には必ず「いつになったら わかるのだろう」という言葉で締められているため、「戦争がいつまでも繰り返され、いつになったらその愚かさに気づくのか?」というメッセージ、今度こそもう戦争は絶対に止めようという思いを込めて盛んに歌われることとなった。(花はどこへ行った – Wikipedia)
ピート・シーガー(英語: Pete Seeger、1919年5月3日 – 2014年1月27日)はアメリカ合衆国のフォーク歌手である。20世紀半ばのフォーク・リバイバル運動の中心人物の一人である。第二次世界大戦前の1940年代から全国放送のラジオで活躍し、1950年代はじめにはウィーバーズの一員として一連のヒット作を出した。1960年代にはプロテストソングのパイオニアとして公の場に再登場し、国際的な軍縮、公民権運動を推進した。ソングライターとしては「花はどこへ行った (Where Have All the Flowers Gone?)」(ジョー・ヒカーソン(英語版)との共作)、「天使のハンマー (If I Had a Hammer)」(ウィーバーズのリー・ヘイズ(英語版)との共作)、「ターン・ターン・ターン (Turn! Turn! Turn!)」などの代表作を生み出した。スピリチュアル(霊歌)「ウィ・シャル・オーバーカム (We Shall Overcome)」を1960年代の公民権運動を象徴する歌にした立役者でもある。近年では環境問題について訴える活動を続けていた。90歳の誕生日 / 2009年5月3日、ニューヨーク市のマディソン・スクエア・ガーデンに、ブルース・スプリングスティーンやロジャー・マッギンからジョーン・バエズやアロー・ガスリー(英語版)まで、何十人ものミュージシャンたちが集まり、シーガーの90歳の誕生日を祝った。(ピート・シーガー – Wikipedia)
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Where have all the flowers gone? の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫
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