ゆかりのある三歌人(富太郎、茂吉、直吉)
「新宿のムーラン・ルージュのかたすみにゆふまぐれ居て我は泣きけり」「おぼろなるわれの意識を悲しみぬあかつきがたの地震(なゐ)ふるふころ」(斎藤茂吉)
斎藤茂吉について:斎藤 茂吉(さいとう もきち、1882年(明治15年)5月14日(戸籍では7月27日) – 1953年(昭和28年)2月25日)は、日本の歌人、精神科医である。 山形県南村山郡金瓶村(現在の上山市金瓶)出身。伊藤左千夫門下。大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物。長男に斎藤茂太、次男に北杜夫、孫に斎藤由香がいる。また、妻の弟齋藤西洋の妻の兄は堀内敬三。(Wikipedia)
写真:上山城(山形県) 斎藤茂吉(文化人切手)
斎藤茂吉のニュース、斎藤茂吉についてのブログ(Google)
連載 地域再発見 (47) 歌人・齋藤茂吉の資料 (上)
山形の記念館に匹敵する一級品の資料
北網圏北見文化センターには大正から昭和にかけて活躍した歌人・医師の齋藤茂吉(1882〜1953年)に関する一級品の資料が千点余りも収蔵されている。近代短歌を代表する茂吉の貴重な資料がなぜ北見市に!? その背景には、開拓医として道内の寒村地域で診療に当たり、晩年を北見市で過ごした6歳上の兄、守谷富太郎(1876〜1950年)の存在があった。北網圏北見文センに千点余り収蔵
茂吉の兄・富太郎が遺し、遺族が市に寄贈
同センターに収蔵されている茂吉の関連資料は1010点。内訳は630点にも及ぶ書籍をはじめ茂吉が富太郎に宛てた書簡224点、短冊、掛軸、色紙、写真、原稿など。山形県上山市の齋藤茂吉記念館に勝るとも劣らない内容となっている。富太郎からすべての資料を受け継いだ婿養子の喜義氏が平成9年、北見市に寄贈した。
同センターは「齋藤茂吉常設展示コーナー」を設け、年に2回更新しながら作品や資料を公開。展示スペースが限られていることから、移転改築される市立中央図書館内に齋藤茂吉の常設コーナーを開設する計画がある。【齋藤茂吉】
齋藤茂吉は明治15年、山形県金瓶村(現・上山市金瓶)で農業を営む守谷熊次郎の三男として誕生。学業に優れ絵画が得意で、14歳の時に東京で病院を営む親戚の齋藤紀一の養子となった。明治43年、29歳で東京大学医科大学を卒業。精神科医となり、ヨーロッパ留学などを経て昭和2年、46歳の時に養父、齋藤紀一の後を継ぎ青山脳病院の院長に就任した。
一方、子どものころから興味を持っていた和歌に学生時代から傾倒、卒業後の大正2年、32歳で処女歌集「赤光」を出版し、一躍脚光を集める。その後「あらたま」「小園」「連山」など17冊の歌集を発表。歌誌「アララギ」の編集人も務めた。昭和28年、72歳で死去。生涯で約1万8千首に及ぶ歌を残した。【守谷富太郎】
守谷家の次男、富太郎は明治9年生まれ。20代のころ、何度か兵役を務めながらも医の道を目指し勉学に励んだ。苦学の末に明治39年、30歳で医術開業試験に合格。3年後に北海道に渡り小樽市で開院した。その後は医師不足の地域で働く拓殖医となり、中川村志文内(現・上川管内中川町共和)をはじめとするへき地医療に従事。昭和17年からは旧留辺蘂町で守谷医院と野村鉱業イトムカ鉱山診療所を運営。医師を引退した後は喜義氏の住む北見市に移り昭和25年、76歳で死去。富太郎の孫で守谷記念整形外科院長の俊一さんは「何もない場所でも独学で学び、工夫しながら医療を続けてきました。医者の鏡だと思っています」と語る。
富太郎が死去したのは俊一さんが3歳の時。ピンと跳ねたカイゼルひげがトレードマークだったが、俊一さんがひげを両手で引っ張るので切り落とした-というエピソードがある。 (柏)
オホーツクのフリーペーパー伝書鳩 2011/09/05掲載(北見市/本紙連載・文化・歴史) http://denshobato.com/BD/N/page.php?id=55260
連載 地域再発見 (48) 歌人・齋藤 茂吉の資料 (下)
歌から伝わる兄弟の絆
茂吉が富太郎に宛てた手紙は200通以上
最愛の兄が北見で死去、茂吉の心痛も歌に【富太郎と茂吉】
守谷家には6人の兄弟がいたが、二男の富太郎と三男の茂吉は特に親密な間柄だった。富太郎の孫、守谷俊一さん(守谷記念整形外科院長)は、北見医師会会報に寄せた手記に「大学時代、共に東京で生活していたので、兄弟の間でも最も親しかったようである」と記している。
茂吉は、勤勉で正義感の強い富太郎を尊敬。一方の富太郎は茂吉を短歌の師と仰ぎ、作品の添削も受けていた。富太郎の歌は、茂吉が編集人を務める歌誌「アララギ」にも掲載された。
大正9年、45歳の富太郎に待望の長女・富子が誕生。茂吉は我が事のように喜び、歌に詠んだ。「足乳根(たらちね)の母の乳房にすがりいる富子を思う心和みて」「遠く居て汝(な)が写真(うつしえ)を見るときは叔父の心も嬉しかりけり」昭和7年、茂吉と四男の直吉が富太郎を訪ねて来道。富太郎の住む中川村志文内(現・上川管内中川町共和)で17年ぶりの再会を果たした。当時、大病院の院長を務めていた茂吉だが、誇りを持って村医者を務める兄の仕事ぶりを次のように称えている。「山なかにくすしいとなみいる兄はゴムの長靴を幾つも持てり」「午前二時すぎとおぼしきころほひに往診に行くと兄のこえする」「かすかなるもののごとくにわが兄は北ぐにに老いぬ尊かりけり」
また、3人は色紙に寄せ書きも残した。「しづかなる山の我が家に三人して過ぎし昔を語らひにけり」(富太郎)「うつせみのはらから三人沢に生ふる蕗の太きをひでてくひけり」(茂吉)「うつしみのかしらのはげをはなしあふ二人の兄をなつかしみけり」(直吉)
富太郎が66歳の昭和16年、一人娘の富子が、後に富太郎の婿養子となる喜義氏と結婚。茂吉は兄の心情を「北見なる野付の町にふた夜寝て兄はひとり子を今嫁がしむ」「ただひとりの少女をはぐくみわが兄は年老いてよりその子手離す」と思いやった。しかし富子は結婚からわずか2カ月後に急逝。富太郎は最愛の娘を失った心の叫びをこう綴った。「微けくも消えゆく吾子の心音を聴診器もて父われは聴く」
喜義氏は絶望の淵にある富太郎を支え、叔父の茂吉とも親交を続けた。喜義氏はその後再婚し、3人の子どもをもうけた。喜義氏の長男、富太さんの誕生の際は「このときに生まれ出たる男子よ雄々しく清くたましひを継げ」と誕生歌を贈っている。
北網圏北見文化センターには、茂吉が富太郎に宛た224通もの書簡も。喜義さんの二男、俊一さんは「平均して月に2、3通は出していたことになりますね」と、2人の強い絆を感じている。
富太郎は76歳で死去。茂吉はその死を悼み、歌に残した。「北海道の北見の国にいのち果てし兄をおもへばわすれかねつも」 (柏)
オホーツクのフリーペーパー伝書鳩 2011/09/12掲載(北見市/本紙連載・文化・歴史) http://denshobato.com/bd/news/page/55428.html
写真は上山市の友好都市ドナウエッシンゲンにある「ドナウの泉」、モーツァルトとそのアンサンブルの可動銅像。ドナウ川源流「ドナウの泉」側に斎藤茂吉の歌碑がある。「大き河ドナウの遠きみなもとを尋めつつぞ来て谷のゆふぐれ」(斎藤茂吉)
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新図書館、床面積は4倍に 北見
北見市教委は30日、市議会総務教育常任委員会で新北見市立中央図書館建設基本計画案を報告した。計画案では、CDやDVDを視聴できる視聴覚コーナー(100平方メートル)や、市が所蔵する歌人斎藤茂吉の遺品などを展示する文学館コーナー(200平方メートル)などを新設するほか、一般図書開架コーナー(千平方メートル)と新聞・雑誌コーナー(100平方メートル)を分離するなど、各種機能の拡大、充実を図る。
新図書館はJR北見駅南側の市有地約4500平方メートルに建設予定で、総床面積は現在の約4倍の5千平方メートルと想定。一般図書開架コーナーには個人閲覧席やソファを置き、車いす利用者や高齢者が使いやすいよう、書架の間隔を広げて段数を減らし低くする。
また、児童書コーナー(500平方メートル)には、子どもが遊べるスペースと大型絵本や紙芝居の読み聞かせなどができる小舞台を設置。読書室と学習室を各3室(30~100平方メートル)設けるほか、パソコンブース(50平方メートル)、視聴覚ホール(200平方メートル)、点字・録音室(50平方メートル)なども設ける。
市は今後、同図書館の基本設計に入るため、近く市議会に補正予算案を提出する。
基本計画案は図書館協議会、ボランティア団体などのメンバーと市民による検討委員会で協議し、市民アンケート、パブリックコメントなどの意見を反映して策定した。(中橋広岳)
北海道新聞[道北・オホーツク] http://www.hokkaido-np.co.jp/news/chiiki4/315584.html
加藤 雅夫 より 2011 年 9 月 18 日 10:52
帯広の森、市民農園サラダ館にある「レストラン キッチンノート」を紹介します: レストラン キッチンノート(http://kitchennote.com/)、ゆうこ通信 http://blog.kitchennote.com/(キッチンノートのオーナー、優子さんのブログ)、局長のお昼ご飯(市民農園サラダ館の局長に作るお昼ご飯のブログ)は、こちらです。
キッチンノートのオーナー優子さんについての関連記事: 「歌人 斎藤茂吉と十勝つなぐ 道東旅行での古地図 縁者で市内の平林さん所有 北見で開業医 実兄・故守谷氏の遺品発見」(十勝めーる http://www.tokachimail.com/obihiro/050808index.html)
加藤 雅夫 より 2011 年 9 月 19 日 06:34
斉藤茂吉の子:北杜夫の小説を好んで読んでいます。中に茂吉も出てきますが、厳しい父親だったようです。北杜夫は、躁欝ぎみで、躁の時は「ドクトルまんぼう」シリーズ、欝の時は「夜と霧の隅で」のような純文学をものにしています。
なりひら より 2011 年 9 月 21 日 23:05
斎藤茂吉の義弟(齋藤西洋)の妻(淑子)は堀内敬三の妹です。堀内敬三は美幌町立「美幌中学校」の校歌を作詞されました。(昭和23年6月5日制定、作曲は百田宗治)
美幌音楽人 加藤雅夫 より 2011 年 9 月 22 日 00:54
お元気ですか?
加藤さんが、森谷富太郎氏に関心をもたれているのに驚いてメールしました。私も、北見中央図書館長を1年間やっていたことから、山形県の上山市に行き茂吉記念館を見てくるなど、新図書館の構想を練ったりしました。
今年は、中川町の茂吉小公園に行くなどしております。
ブログにあるように、富太郎さんがイトムカに赴任してきた頃のことを少し調べはじめており、当時、一緒に歌会をやっていた方が生存していることが、最近分かりましたので、近いうちに会おうと思っております。
何か良い情報があれば教えていただきたいと思います。
高木
高木茂淑 より 2011 年 11 月 16 日 17:33
「温故知新」は素晴らしい言葉ですね、北見市の高木さん。
私に代わって、ドイツの町「ドナウエッシンゲン」「ドナウの泉」にある斎藤茂吉の歌碑も見てきてください。
私の兄嫁の実家が、山形県上山です。
美幌町 加藤雅夫 より 2011 年 11 月 16 日 18:23
北網圏北見文化センターで…
常設展示の内容が更新
斉藤茂吉コーナー
北網圏北見文化センターの「斉藤茂吉常設展示コーナー」の展示内容が更新された。今回は茂吉が医学研究のためヨーロッパに留学した大正10年〜同13年に詠んだ作品の直筆短冊、掛軸、色紙などを展示している。
昆虫標本
また、博物館常設展示「北見の昆虫たち」の昆虫標本が更新された。今回はフユシャクガ、キリガなど北見地方で晩秋から早春に現れる蛾類約460点を展示している。
伝書鳩 2011/12/16掲載(北見市/文化)
http://denshobato.com/BD/N/page.php?id=57796
加藤 雅夫 より 2011 年 12 月 16 日 14:10
守谷 富太郎と留辺蘂を結ぶ
地域再発見52
歌人・齋藤茂吉(1882〜1953年)の実兄で歌人の守谷富太郎と活動を共にしていた旧留辺蘂町の歌人達が、昭和37年に創刊した歌集「ぢしばり」。昨年12月に留辺蘂で見つかり、北見市立留辺蘂図書館に寄贈された。今年は齋藤茂吉生誕130年。思わぬ贈り物になった。
今年は齋藤茂吉生誕130年…思わぬ贈り物に
昭和37年創刊の歌集ぢしばり
50年の時を経て地元で見つかる
富太郎は茂吉と同じ医師の道を歩んだが、茂吉と異なり医師の少ない地域で働く拓殖医だった。明治39年に小樽市で開業、中川村支文内(現・上川管内中川町共和)などで地域医療に従事した。昭和17年からは旧留辺蘂で守谷医院と野村鉱業イトムカ鉱山診療所を運営した。
富太郎は、茂吉に大きな影響を与えたといわれ、茂吉が編集人を務めた歌誌「アララギ」に多くの作品を残している。
旧留辺蘂町時代は地域の歌人達とも交流を深めていた。当時、富太郎から影響を受けた地域の歌人達は、昭和25年に富太郎が他界した後も留辺蘂短歌会をつくって活動を続け、昭和37年に歌集「ぢしばり」を創刊した。
北見市の留辺蘂教育事務所は、齋藤茂吉の生誕130年に合わせて富太郎関連の資料を調査した。
「ぢしばり」の存在は知られていたが、留辺蘂では見つからず同教育事務所は帯広市立図書館に収蔵されている1冊を借りて複製し、資料にしていた。
ところが、調査を進めると「ぢしばり」に作品を寄せた男性(102)が創刊号を持っていることが分かった。「灯台下暗しでしたね」と同教育事務所。
「ぢしばり」発刊は創刊号で終わっており富太郎と留辺蘂の歌人を結ぶ貴重な資料となっている。 (粟)
北見網走オホーツクのフリーペーパー経済の伝書鳩 2012/02/09掲載(北見市(留辺蘂町)/文化・歴史)
http://denshobato.com/BD/N/page.php?id=58934
美幌音楽人 加藤雅夫 より 2012 年 2 月 9 日 13:34
福島在住の、茂吉の愛好者?です。
茂吉の長兄広吉のことをご存知でしょうか?
妹の松や、なおのことも知りたいのです。
書物を見ると、直吉のことはよく出てきます。(なおのことも少し)
研究というのもはばかれて、愛好者としました。
ご回答いただけたら光栄です。
佐藤 郁夫 より 2014 年 1 月 9 日 19:35
おかげさまで別機会で解決しました。
ありがとうございました。
佐藤 郁夫 より 2014 年 2 月 6 日 18:43