20代 1967〜
- 最終更新日時 2011年11月03日(木) 11:07
“That’s one small step for [a] man,
one giant leap for mankid.” Neil Alden Armstrong「一人の人間にとっては小さな一歩だが、
人類にとっては大きな飛躍だ」ニール・アームストロング船長(宇宙飛行士)の名言
1969 昭和44年 22才
札幌市 札幌医大病院(胸部外科)に7ヶ月入院。
アスペルギルス症(麹菌こうじカビ)のため両肺手術
右肺上葉切除(12月)、左肺上葉切除(翌年2月)
主治医・和田寿郎教授(日本初の心臓移植 1968)
1998 北海道難病連「オホーツク低肺の会」結成入会
第1種重度障害(呼吸器機能障害3級)
1970 昭和45年 23才
初夏、散歩の途中、朝野球に興じている同世代の若者たちの
姿を見て、ギター仲間を求めまわった…。
1971 昭和46年 24才
美幌町 美幌ギター愛好会結成、第22回美幌町文化祭出演。
町内外の愛好者と「ギターと歌声の夕べ」「詩と音楽の夕べ」
「4chステレオコンサート」など開催。
うれしくて楽しくて、入退院くりかえす。
皆から「無理ダメ!」と叱られる。
今はだれも何も言わない…。
阿部保夫ギター講習会(北海道北見市 北見パレスホテル)
皆で居酒屋の梅割焼酎で乾杯!ニコニコ笑顔の阿部保夫さん
1972 昭和47年 25才
9.29 日中国交正常化 周恩来総理74才 田中角栄総理54才
1973 昭和48年 26才
美幌町 美幌マンドリンクラブ結成。
釧路市 釧路マンドリンクラブ(小林啓一郎さん)と友好交流
日本マンドリン連盟入会(北海道支部、九島勝太郎さん)
札幌藤女子大マンドリンクラブ「フジフロイライン」美幌演奏会
堂腰慶子(学生指揮者)ら60人が美幌町訪問。(美幌町民会館)
クラブ指導、酒井正忠さん。クラブ顧問、林新治さん(美幌町出身)。
新堀ギター女性合奏団「ザ・ドリマーズ」北海道公演(北見経済センター)
耳をすますと 今でも聴こえてきます…いつまでも忘れません。
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2008 平成20年4月23日 美幌音楽人 加藤雅夫 (文責)
北海道(ギター・マンドリン)音楽のあゆみ
釧路市 小林啓一郎 音楽のあゆみ86年 明治~大正~昭和~平成
(釧路マンドリンアンサンブル名誉会長、日本マンドリン連盟顧問)
1909 明治42年2月、釧路市で生れる。
1926 大正15年、旧制釧路中学校(釧路湖陵高校)在学中に湖中音楽部を結成 して湖陵音楽会を開催し反響を呼ぶ。
1927 昭和2年、卒業と同時に佐々木政夫主宰マンドリンオーケストラ「オルケストラ・マンドリニスティカ・ディ・クシロ」及び斎藤末吉主宰「釧路ハーモニカ研究会」に入会。佐々木政夫より、マンドリン、ギターの技法及び音楽理論等について指導を受けると共に釧路中学校音楽部の指導にあたる。
1928 昭和3年、佐々木政夫の上京後、マンドリンオーケストラの中心的存在となり、メンバーの増強、低音楽器の導入を図るとともに活発な活動を行う。この間、Vチェロ及びCバスを習得する。
1932 昭和7年6月、斎藤末吉ハーモニカ独奏のギター伴奏者として招かれて、札幌JOJK(NHK札幌放送局)よりラジオ放送に初出演。8月、札幌に転職。九島勝太郎(日本マンドリン連盟北海道支部長)主宰「札幌プレクトラム協会」(札幌プレクトラムアンサンブル)に入会。昭和10年秋帰釧するまでの間、札幌に於いて演奏会、放送などに参加、活発な演奏活動を行う。
1935 昭和10年10月に帰釧。マンドリン団体を「釧路マンドリン合奏団」として再編成して、演奏指揮及び運営にあたる。
1936 昭和11年11月、勝見義雄と共に「釧路管弦楽団」の結成準備にあたり、翌12年春に、釧路管弦楽団創立演奏会を開催。以来毎年春秋2回にわたり定期演奏会のほか、賛助出演、地方演奏会、ラジオ放送など、道東唯一の管弦楽団として活発な活動を行ったが、この間創立当初よりオーケストラの指揮、奏者及び運営の中心となって活躍。
1940 昭和15年6月、上京の際、佐々木政夫の主宰する「日本ギターマンドリン研究会」のギターアンサンブルに参加し、JOKA東京(NHK東京放送局)よりラジオ放送に出演。
1945 昭和20年7月、釧路空襲により、釧路管弦楽団の楽器、楽譜その他一切を焼失、演奏活動は休止のやむなきに至る。
1946 昭和21年、太平洋戦争の終結後「釧路管弦楽団」復活。NHK「素人のど自慢」のラジオ公開放送が開始され、JOPG釧路(NHK釧路放送局)より審査員を委嘱される。(昭和34年頃まで)
1950 昭和25年、高後勉の提唱による音楽鑑賞団体「釧路音楽同好協会」(釧路音楽協会)の設立に参加し、設立後も役員としてその発展につとめる。
1955 昭和30年、釧路市役所在職中、「釧路市文化賞」設定の企画立案を担当し、同賞施行とともにその委員を委嘱せられ、引続き同制度の「審議会」委員、副委員長、委員長として同制度の運用にあたる。(昭和37年まで)
1958 昭和33年、釧路管弦楽団の「釧路市文化賞受賞記念演奏会」開催、演奏指揮にあたる。
1969 昭和44年、クシロマンドリンクラブ(昭和41年11月結成)に指揮者として入会。同年「釧路プレクトラム連盟」理事長、翌45年「日本マンドリン連盟」理事、クシロマンドリンクラブ会長に推され再びマンドリン音楽に復帰して演奏活動を再開する。
1972 昭和47年、美幌町、国立療養所美幌病院で慰問演奏会を開催(小林啓一郎指揮・クシロマンドリンクラブ)。美幌ギター愛好会(美幌マンドリンクラブ)賛助出演。
1973 昭和48年、「カリンカマンドリンクラブ・クシロ」(釧路マンドリンアンサンブル)顧問に推され、昭和50年9月釧路市に於いて開催された「第6回北海道芸術祭・洋楽祭」に、クシロマンドリンクラブ、カリンカマンドリンクラブ・クシロと共に、九島勝太郎指揮「札幌プレクトラムアンサンブル」の演奏に賛助出演。
1980 昭和55年、クシロマンドリンクラブの活動休止後、釧路マンドリンアンサンブルの指揮者に就任。昭和56年より61年まで会長としてアンサンブルの指揮及び運営にあたる。
1987 昭和62年、釧路マンドリンアンサンブル名誉会長。引続き後進の指導とマンドリン音楽の振興発展に努めた。
1995 平成7年2月5日、死去。(86歳)
釧路マンドリンアンサンブル第7回演奏会(プログラム参照)
1987 SUMMER NIGHT CONCERT
日本マンドリン連盟北海道支部、釧路音楽協会、釧路市文化団体連絡協議会後援
昭和62年7月12日 釧路市民文化会館(小ホール)
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北海道(ギター・マンドリン)音楽のあゆみ
札幌市 九島勝太郎 音楽のあゆみ 明治 大正 昭和 平成
編集準備中です、情報歓迎します。美幌音楽人 加藤雅夫
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北海道(ギター・マンドリン)音楽のあゆみ
小樽市 酒井正忠 音楽のあゆみ 明治 大正 昭和 平成
編集準備中です、情報歓迎します。美幌音楽人 加藤雅夫
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