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サハリン の検索結果: 56 件
絶滅危惧種エドホトケドジョウ
絶滅危惧種 エドホトケドジョウ
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サハリン南部のエゾホトケドジョウ 2020/10/15掲載(美幌町/社会) 戦前、北海道から持ち込まれた外来種 / 美幌博物館の学芸員などでつくるグループが、ロシア・サハリン南部に生息するエゾホトケドジョウが北海道から持ち込まれた外来種であることを突き止めた。研究論文が9月に日本魚類学会の英文誌で公開された。
美幌博物館などのグループが調査 研究論文を専門誌に掲載 北海道では絶滅危惧種に指定 / エゾホトケドジョウは、北海道と青森県の池や沼などに生息。開発に伴い減少し、環境省のレッドリストで「絶滅危惧ⅠB類」に指定され、「幻の魚」と呼ばれるイトウと並ぶ希少な淡水魚といわれている。 エゾホトケドジョウは約74万年前に大陸近縁種から分岐。サハリンと陸続きだった約2万年前に北海道に分布が広がったが、サハリンのホトケドジョウ類はその後の氷河期で絶滅したと考えられている。 しかし、10年ほど前の調査で、サハリン南部にホトケドジョウ類が生息していることが判明。詳しい調査が行われていないことから、博物館が中心となり、両国の研究機関とともに2017(平成29)年から調査・研究を進めてきた。 現地の個体を捕獲。体長や背骨の数など形態学的な調査と、DNA分析による遺伝学的な調査を行い、エゾホトケドジョウと大陸近縁種のどちらに近いかを調べた結果、エゾホトケドジョウであることが分かった。 さらに、サハリン南部の個体のDNA配列は、サハリンに近い道北の個体とは共通せず、石狩川や十勝川水系の個体と共通していたことも分かった。 戦前の日本統治時代には、コイやフナを主に石狩、十勝地方からサハリン南部に持ち込み、養殖を試みたことが当時の文献に残されており、研究グループは「養殖の際に誤ってエゾホトケドジョウも持ち込まれた可能性が高い」と結論付けた。 博物館の町田善康学芸員は「サハリン北西部にもホトケドジョウ類の生息が確認されており、機会があれば調査したい。北西部の個体がエゾホトケドジョウでなければ、エゾホトケドジョウが日本固有の淡水魚ということになる」と話している。(浩) (サハリン南部のエゾホトケドジョウ – オホーツクの日刊フリーペーパー経済の伝書鳩)
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サハリン生息の淡水魚、北海道の絶滅危惧種と同種 道内から移植の可能性 美幌博物館などのチーム:北海道新聞 どうしん電子版
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チェーホフによるサハリン島 (ルポルタージュ)
チェーホフによるサハリン島 (ルポルタージュ)
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サハリン島 (ルポルタージュ) / 『サハリン島』(サハリンとう、 ロシア語: «Остров Сахалин» オーストラフ・サハリーン)は、劇作家・小説家として知られるアントン・チェーホフによるロシア帝国サハリン(樺太)への旅行記録および流刑地調査の記録である。1893年以降雑誌に発表され、1895年に単行本として刊行された。 概略 / アントン・チェーホフはサハリン島に流刑に処せられた囚人の生活に興味を持ち、流刑囚の実態を研究するため1889年にモスクワを出発してシベリアを経由し、そこでいくつかのエッセイを執筆したのち、1890年7月にサハリンに渡った。彼が30歳のときであった。チェーホフは3ヶ月間、サハリンに滞在し、島の南北を移動してほとんどあらゆる村落を調査し、インド洋とスエズ運河を経由してモスクワに帰った。チェーホフはこのとき現地の日本人島民とも交流しており、ここで日本本土への渡航も企てたが、折からのコレラ騒動でこれを断念している。研究調査は、現地で発注したカードを用いて徹底的になされ、その道中記録や詳細な調査結果はモスクワに戻ったあとの1893年以降1895年まで順次発表していった。それが『サハリン島』である。1895年には単行本が刊行されたが、これは、こんにちでいうルポルタージュ的要素の強いノンフィクション作品である。調査に使用したカードは数千枚におよび、また、政治囚との接触は当局によって禁止されていたが、チェーホフの調査はその禁を破って実行された。『サハリン島』は、チェーホフが、その生涯で最も長い時間をかけて執筆した作品とみられており、この調査旅行で書かれた作品としては他に、上述の『シベリアへの旅』がある。 チェーホフはこの調査報告のなかでサハリン島を「地獄のようだ」と評しており、ロシアの人びとに島への関心を引きつけた。 (サハリン島 (ルポルタージュ) – Wikipedia)
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「サハリン書道コンテスト」作品展開催 – 美幌音楽人 加藤雅夫
アントン・チェーホフの死。(1904年 7月15日) – 美幌音楽人 加藤雅夫
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ソビエト連邦サハリン州在住のコンスタンチン君
ソビエト連邦サハリン州在住のコンスタンチン君
北海道札幌市内にある札幌医科大学附属病院の医師 金子正光さんの活躍は新聞・テレビニュースでよく見ていた。金子正光さんは 札幌医科大学附属病院の医師 和田寿郎さんのスタッフの一員でした。私が22歳のとき、1969年(昭和44年)10月、札幌医科大学附属病院胸部外科の病棟に入院・手術では大変お世話になりました。
私がソビエト連邦サハリン州を訪れたのは 1991年(平成3年)7月だった。北海道北見市の友好都市ポロナイスク市(敷香町)で音楽祭を開催するためだった。 この年の12月にソ連崩壊だった。
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コンスタンティン・イーゴレビチ・スコロプイシュヌイ(ロシア語: Константин Игоревич Скоропышный、1987年 – 愛称:コンスタンチン君、コースチャ)は、1990年に大火傷を負ったが日本へ緊急搬送されて一命を取り留めた、当時ソビエト連邦サハリン州在住の3歳幼児である。 大火傷と日本への緊急搬送 / 事故 / 1990年8月20日、断水のため湯が出ず、母は家事をしながら汲み置きしていた水をバケツに入れ、電熱棒をバケツにいれて熱していた。そして家で一人で遊んでいたコンスタンチンは、100度近くになった熱湯にしりもちをつく形でバケツ内に落下した。 母はコンスタンチンをユジノサハリンスク州立小児病院に緊急搬送したが、腹部・背中・尻が熱傷3度、手足が熱傷2度で、全身の90パーセントの大火傷をしており、医師に「この病院では50パーセントの火傷でも助からない」、「ここでは手の施しようがない」、「あと2週間も持たない」と言われた。病院で行われた治療は1日1回の輸血とビタミン剤と鎮痛剤の投与のみだった。両親は他の病院を回ったが、ここでは助からないと言われた。しかし他人の皮膚を移植する治療方法があるという話を聞いた。 緊急搬送 / 8月26日、友人の一人から、「近所に日本人が来ている。日本は医療が発達しているから日本に行けば助かるかもしれない」という話を聞き、その日本人男性の元へ行ったが、その日本人はロシア語がわからなかったため、近所の日本語ができる朝鮮系の男性を連れて再び訪れ、救助を求めた。 その日本人は8月27日朝10時に北海道庁国際交流課係長(当時)に「サハリンに大火傷をした子がいる。余命70時間しかない」と電話で助けを求めた。係長はすぐ外務省ソ連課に連絡を取り、外務省はすぐ法務省と協議した結果、コンスタンチン一家を仮上陸で日本へ入国させることで、査証なしで受け入れることを決めた。 北海道は午後1時すぎ、海上保安庁千歳航空基地に救援機の出動を依頼した。 午後2時20分、サハリン州のワレンチン・フョードロフ知事から北海道の横路孝弘知事宛に救援要請書が届く。 北海道庁国際交流課係長は、自身が以前出向していた札幌医科大学附属病院にサハリンへの医師の同行とその後の治療を依頼した。附属病院の医師は、緊急医療の原則として「助かる見込みがなければサハリンに置いてくる。しかし助かる見込みが少しでもあれば連れてくる。」とした上で、これを引き受けた。 ユジノサハリンスク空港のアプローチチャートをたまたま持っていた日本航空から取り寄せ、千歳航空基地でソ連領事館員と綿密な打ち合わせをしたあと、8月28日午前3時45分、操縦士、医師、通訳等、13名の日本人を乗せた海上保安庁千歳航空基地所属 YS11-LA782「おじろ」が、サハリンに向け千歳航空基地を離陸した。 YS-11は濃霧のためサハリン上空を1時間半旋回し、6時43分サハリン到着。 そこで医師は火傷をして1週間経っていることをはじめて知った。助かる可能性はわずかしかなかったが、コンスタンチンとサハリン州知事から唯一同行を許された父を乗せ、7時47分にユジノサハリンスク空港を離陸した。 機内ですぐに応急処置、酸素吸入、点滴が行われ、8時55分丘珠空港に着陸、すぐに北海道警察のヘリコプターで医大へ搬入、9時10分に医大に到着した。 日本での治療 / 8月30日、東京の病院から、遺族の了解を得て採取された移植用の人皮が病院に到着。4時間の皮膚移植手術が行われた。不足する皮膚は、キチン質から合成された人工皮膚も使用された。 一週間後、移植した皮膚が定着したことが確認され、火傷から10日目には意識を回復した。 9月8日には、母にサハリン州知事から出国の許可が下り、特別上陸手続きで来日した。 その後は一週間ごとに手術を繰り返し、10月23日には一般病棟に移るまでに回復した。そして11月23日に退院し、翌日帰国した。 その後 / 日ソ国境を越えたその救出劇は、冷戦終結直後の時代に、日本と旧ソビエト連邦との関係が改善されるきっかけとなった。緊急搬送の経過は、2000年7月25日にNHK『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』で、「国境を越えた救出劇 大やけどのコンスタンチン君・命のリレー」として放映された。 (コンスタンティン・スコロプイシュヌイ – Wikipedia)
関連サイト
コンスタンチン君~国境を越えた命のリレー~ 平成2年 – NHK札幌放送局
国境を越えた救出劇~大やけどコンスタンチン君・命のリレー~ – BIGLOBE
コンスタンチン君救命リレー忘れられた記事冷戦国境超えた医療 | 健康と子供生活
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ロシア・サハリン州ポロナイスク市へ (北海道 北見市)
ロシア・サハリン州ポロナイスク市へ (北海道 北見市)
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ロシア・サハリン州へ 2019/07/29掲載(北見市/教育・文化) 北見東相内中バレー部員らが副市長に挨拶 「楽しい思い出つくりたい」 / 第21回青少年サハリン・北海道「体験・友情」の翼に参加する北見市内の中学生らが25日、北見市役所を訪れ浅野目浩美副市長に出発前の挨拶をした。 道の「体験・友情」の翼事業に参加 友好都市・ポロナイスク市で交流試合も / この事業は北海道・ロシア極東交流事業実行委員会が実施主体となる交流事業で、道内各地の参加者が30日~8月7日の日程でロシア・サハリン州を訪問。ホームステイや地域住民との交流会、施設見学などのスケジュールが組まれている。 北見市から参加するのは東相内中学校3年の6人、引率教諭、市の担当者の計8人。中学生はいずれもバレボール部員で北見の友好都市、ポロナイスク市では交流試合を予定している。 生徒達は「日本の文化を伝えたい」「コミュニケーションをたくさんとりたい」「楽しい思い出をつくりたい」と口々に抱負を語った。 浅野目副市長は「たくさんのことを吸収して日本に帰って来てください」と激励した。(柏) (オホーツクのフリーペーパー経済の伝書鳩)
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ロシア サハリン州 ポロナイスク市の青少年訪問団 (北海道 北見市) – 美幌音楽人 加藤雅夫
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1月3日 駆け落ちの日 (岡田嘉子 杉本良吉)
1月3日 駆け落ちの日 (岡田嘉子 杉本良吉)
1991年(平成3年) 7月1日 北海道のオホーツクマンドリンアンサンブルは音楽交流のためにロシア連邦(ソビエト連邦) サハリン州のポロナイスク市 (樺太 敷香町) を訪問した。サハリン残留朝鮮人、サハリン残留韓国人、サハリン残留日本人の方々が「日本の女優 岡田嘉子がポロナイスク(敷香)を経由して50度線の樺太国境へ向かって行った」と昨日の出来事ように話してくれた。 1991年12月 ソ連崩壊した。びっくり仰天した。 (美幌音楽人 加藤雅夫)
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1月3日 駆け落ちの日 / 1938(昭和13)年のこの日、女優の岡田嘉子と杉本良吉が、樺太の国境を越えてソ連へ亡命した。 1月3日 歴史 / 1938年 俳優・岡田嘉子が演出家・杉本良吉と樺太を越えソ連に亡命。 (1月3日 今日は何の日~毎日が記念日~)
1月3日 できごと / 1938年 – 女優・岡田嘉子が演出家・杉本良吉と共に北緯50度の樺太国境を超えてソ連に越境する。 (1月3日 – Wikipedia)
岡田 嘉子(おかだ よしこ Yoshiko Okada、1902年4月21日 – 1992年2月10日)は、日本の女優、アナウンサー。 大正から昭和初期にかけて、サイレント映画時代のトップ映画女優であった。奔放な恋愛遍歴やソビエト連邦(現:ロシア連邦)への亡命など、波乱の生涯を送ったことでも知られる。 (岡田嘉子 – Wikipedia)
杉本 良吉(すぎもと りょうきち Ryokichi Sugimoto、1907年2月9日 – 1939年10月20日)は、日本の演出家。本名は吉田好正。女優の岡田嘉子とソ連に亡命し、スパイ容疑で銃殺刑に処せられた。 (杉本良吉 – Wikipedia)
サハリン州ポロナイスク市内の幼稚園 (写真)
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ロシア サハリン州 ポロナイスク市の青少年訪問団 (北海道 北見市)
ロシア サハリン州 ポロナイスク市の青少年訪問団 (北海道 北見市)
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北見市役所を表敬訪問 ロシア・ポロナイスク市の青少年訪問団 / 北見市の友好都市のロシア・サハリン州ポロナイスク市の青少年訪問団8人が2日、市役所を表敬訪問した。表敬訪問したのは第20回青少年サハリン・北海道「体験・友情」の翼で北海道を訪れているロシアの青少年約40人のうち、ポ市の8人。14歳から16歳の中学生。男子5人と女子2人に団長のバルズール・ナターリアさん(56)が引率している。市役所では渡部眞一副市長が一行を迎えた。ナターリアさんは「友好の発展が長く続きますように」と挨拶。渡部副市長は「楽しい思い出話をたくさん持ち帰ってください」と話していた。子ども達はホームステイで4日まで北見に滞在。この日は、北光中学校の生徒と合唱で交流したり、山の水族館などの施設を見学した。(粟) (2018年8月4日の記事 経済の伝書鳩)
ポロナイスク(ロシア語: Поронайск、パラナーイスク)は、サハリン中南部のテルペニア湾に面した都市。ロシア連邦サハリン州に属する。日本統治時代 (1905年 – 1945年) の敷香町にあたる。 (ポロナイスク – Wikipedia)
関連サイト
ポロナイスク市青少年訪問団のホストファミリーを募集します | 北見市
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湧別町川西遺跡の オホーツク文化 (北海道 北方民族博物館)
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Yubetsu river excavations and Okhotsk culture (Hokkaido Museum of Northern Peoples)
「サハリン州立人形劇場」 (北海道・北見市留辺蕊 公演)
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“Сахалинский театр кукол” (Хоккайдо Китами Rubeshibe выступления)
“Sakhalin Puppet Theatre” (Hokkaido Kitami Rubeshibe performances)
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