美幌海軍航空隊 中攻CHUKO
- 2021年12月08日(水) 4:31
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太平洋戦争開戦80年に寄せて
美幌海軍航空隊 中攻CHUKO
私の実家・加藤醸造店の住居部分は、1893年(明治26年)に北1丁目に建てられた料亭・旅館を南1丁目まで引っ張ってきました。1階と2階には部屋がたくさんありました。美幌海軍航空隊が出来てから、日本海軍の陸上攻撃機部隊の隊員・操縦士たちが下宿しました。私の母や祖母たちは「とても立派な人たちだった」と言っていました。
ある日、攻撃機が家の上空を旋回して戦場へ飛び立った。家の人たちは手を振って別れを惜しんだ。実家の醤油蔵・味噌蔵の周りには杏の木・梅の木が50本ありました。香り付け・風味付けのためであります。花の散る際は見事でした。先の世界大戦では多くの命が犠牲になりました。哀悼の意を捧げます。
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美幌海軍航空隊
美幌海軍航空隊(みほろかいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。六番目の陸上攻撃機部隊として、大東亜戦争序盤より中盤にかけて最前線で爆撃・攻撃・偵察行動に従事した。1942年(昭和17年)11月1日に初代の第七〇一海軍航空隊(だい701かいぐんこうくうたい)と改称。
沿革 / 陸上攻撃機部隊の増強を図るために、④計画に盛り込まれた4個航空隊の一つとして、中国戦線での活動を終えた第十五航空隊の陸攻要員を元山海軍航空隊と分け合っ隊した。千島列島方面での作戦行動に対応すべく、既設の中央気象台飛行場(現在の女満別空港のルーツ)とは関係なく新規建設した飛行場を用いた。地名の「びほろ」ではなく「みほろ」と呼んでいたとする証言が多数あり、海軍でも建設中は「M基地」の符牒で呼び、機体番号に冠する区別字は日本国内では「ミ」と定められ、外地では「M」を使用していた。
九六式陸上攻撃機 / 美幌空は当初より陸攻専用の航空隊として編成されていた。後継機の一式陸上攻撃機は1942年(昭和17年)上半期に最前線部隊へ優先して配当されたため、この時期に内地に帰還していた美幌空には配当されなかった。つまり美幌空所属の実戦用機体は「中攻」のみである。(Wikipedia)
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