東京の 大空襲 (戦後 70年)
- 2015年03月10日(火) 0:11
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東京の 大空襲 (戦後 70年)
Bombing of Tokyo (postwar 70 year)
「東京大空襲」の記憶 (上)
2015/03/07掲載(北見市/本紙連載・歴史)戦後70年…戦争の悲惨さ後世に伝えたい
第二次世界大戦末期の昭和20年(1945年)3月10日、アメリカ軍が行った東京・下町への大規模爆撃「東京大空襲」。一夜にして10万人以上が亡くなったと言われる戦火を生き延びた北見市の女性(76)は、戦後70年を節目に、戦争の悲惨さを後世に伝えたいと大空襲の記憶を語った。
北見・女性(76)
昭和20年3月10日
深夜の下町が一瞬で火の海に女性が当時暮らしていたのは東京・墨田区。父はネジを作る工場を経営し、実家の周囲はガラスやせっけんなどの工場が並ぶ工場地帯だった。家族は父母、兄2人、姉1人、妹2人の6人兄弟。住み込みで働いている従業員も4人いた。戦闘機に使われるネジを作っていたため、父は戦地に行かずにすんでいたという。 空襲が来たらすぐに逃げられるようにと、寝る時には必ず枕元に洋服と防空ずきんを置いた。しだいに戦争が激しさを増していくと、洋服のまま寝ることが多くなっていった。
女性が小学校に入学するのを楽しみにしていた昭和20年3月。小学5年生の姉は茨城県つくば市に疎開していた。 10日午前零時過ぎ、アメリカ軍の戦闘機B-29が爆撃を開始。日本の家屋を研究し、より燃焼効果を高めた焼夷弾を次々と投下した。寝静まった下町に焼夷弾が火の雨となって降り注ぎ、あっという間に辺りを火の海にしていった。 女性一家は、周囲の人達が逃げる方向とは逆のおばの家へ向かった。何かあったときは工場地帯ではないおばの家が安全だと考え、事前に家族で打ち合わせていたからだ。 逃げている時の女性の記憶は「とにかく火が燃えている」。 すれ違う人達は背負っているものや荷車に火がついているのに気付かないまま逃げ惑っていた。藤島さんも幼い妹を背負った両親に振り回されるように手を引かれ、命からがら燃え盛る火の中を逃げた。 (菊)
メモ…
◆ 東京大空襲…第二次世界大戦末期にアメリカ軍が東京・下町に行った大規模空襲。アメリカ軍は日本の木造家屋を研究し、火災を発生させるための焼夷弾を開発。昭和20年3月10日の空襲でこれを使用し、死傷者数は10万人を超えた。
「東京大空襲」の記憶 (上) – 経済の伝書鳩
http://denshobato.com/BD/N/page.php?id=84789
「東京大空襲」の記憶 (下)
2015/03/10掲載 (北見市/本紙連載・歴史)戦後70年…大勢の人生を狂わせた戦争
北見・女性(76)
絶対に繰り返してはいけない焼夷弾による爆撃で燃え盛る東京の下町を、親に手を引かれて逃げる女性。通りかかった十間橋から川を覗くと、火から逃れるために川に飛び込んだ人達で溢れていた。
そんな時、近くのせっけん工場の油の入ったドラム缶が火で熱せられ、次々と上空に打ち上がり、飛び散った油が火となって川にいた人に降り注いだ。「ドラム缶が空を飛ぶドンっという音を、今でも覚えています」。
逃げるさ中、女性の上着に火が燃え移った。両親は慌てて上着をぬがせて落ちていた布団を近くの防火用水で濡らし、女性に頭からかぶせた。
狭い路地を一直線に走り、振り返ると、今きた道を塞ぐように通路の両側から燃えた建物が崩れた。「間一髪だったんですね。あとから来る人達には逃げ道がなかった」。
逃げ場所に決めていたおばの家にたどり着くと、別ルートで逃げていた兄達や従業員も奇跡的に全員無事。「おばの家に逃げようと決めた母の冷静な判断のおかげ」と女性は感謝する。
火災が治まると兄たち生き残った学生は学校に招集され、遺体を運ぶ作業を命じられた。焼け野原になった町の道沿いにおびただしい数の遺体が寝かせられていた。学生達は遺体を荷車に積んで運び、大人達がやぐらを組んで火葬した。ただ焼くだけだった。当時まだ中学生だった次兄は「死体を見ても何とも思わなくなった」と言っていたという。
家の焼け跡に戻ってみると、防空壕に置いてあった釜の中の米が真っ黒にこげていた。コンクリート造りの工場の地下や防空壕に逃げた人達も熱や酸欠で亡くなったと聞いた。
東京から約50キロ離れた茨城県つくば市に疎開していた姉は、真っ赤になった東京を見ていたという。空襲後、空襲で親や家族を亡くし、行き場のなくなった子ども達が街中に溢れた。
女性は空襲で逃げている時、動かなくなった都電の車両の中から聞こえた「痛いよ、痛いよ…」という声が今も耳から離れない。
「戦争でどれだけ多くの人が悲しみ、苦しみ、人生を狂わされたのか。犠牲になったり、遺された民間人には何の補償もありませんでした。今年は大空襲から70年。絶対に戦争はあってはならないと改めて強く伝えたい」 (菊)
「東京大空襲」の記憶 (下) – 経済の伝書鳩
http://denshobato.com/BD/N/page.php?id=84839
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母子と思われる二つの遺体。子供を背負って逃げていたらしく、母親の背中が焦げていない (石川光陽撮影)
東京大空襲
Bombing of Tokyo
東京大空襲(とうきょう だいくうしゅう)は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍により行われた、東京に対する焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。日本各地に対する日本本土空襲、アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下、沖縄戦と並んで、都市部を標的とした無差別爆撃によって民間人に大きな被害を与えた。空襲としては史上最大規模の大量虐殺とされる。 東京は1944年(昭和19年)11月14日以降に106回の空襲を受けたが、1945年(昭和20年)2月26日,2月28日特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上と著しく多い1945年3月10日の空襲を指すことが多い。この3月10日の空襲だけでも罹災者は100万人を超えた。(http://ja.wikipedia.org/wiki/東京大空襲)
関連動画
【閲覧注意】東京大空襲の写真が凄まじい件
http://youtu.be/tXzyusfuFTo
関連サイト
東京大空襲70年 体験初めて語る女性も NHKニュース
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150307/k10010007341000.html
東京大空襲 – NHKオンライン
http://www.nhk.or.jp/shutoken/daikushu/
「東京大空襲」史上最大の虐殺 – 東京写真紀行
昭和20年3月10日 史上最大の虐殺
http://www.kmine.sakura.ne.jp/kusyu/kuusyu.html
関連エントリ
戦後70年 の検索結果
http://masaokato.jp/?s=戦後70年
東京大空襲 の検索結果
http://masaokato.jp/?s=東京大空襲
Bombing of Tokyo の検索結果
http://masaokato.jp/?s=Bombing+of+Tokyo
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