旧日本海軍病院(神奈川県横須賀)

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連載 語り継ぐ戦争 (6) 

「戦争はむごいもの」

 昭和19年(1944年)、当時20歳の男性(88)は横須賀の海軍病院にレントゲン技師として配属されていた。海軍病院は横須賀軍港に面した場所にある。攻撃を受けた軍艦が頻繁に入港する。ひん死の重傷を負った兵士を急いで軍艦から降ろして治療する。「私は戦地に行くことはなかったが、病院は戦地よりひどかったと思う」と猪狩さんは言う。

元・海軍病院レントゲン技師北見・男性(88) (上)
 最前線の惨状が…海軍病院という“もうひとつの戦場”

 男性は北見市で生まれ、陸軍の演習を見て育った。「銃器を担いで行軍するのは厳しい。自分には無理」そう思って18歳で海軍に志願した。

 志願したのは、20歳になると徴兵検査を受けなければならず、ほとんどが陸軍に配属されるからだ。

 第1希望に挙げた衛生兵で採用された。18年6月、19歳で横須賀の海兵団に入団。3カ月間の新兵教育を受けて海軍衛生学校に配属された。そこで衛生兵の教育を受けた。成績順に次の配属が決まる世界だった。「試験に追われ、寝る時間もない日々でした」と男性。難関を突破して海軍病院の理学的治療科に配属された。男性が望んだレントゲン技師の専門教育を受けることになった。

 しかし、海軍病院は負傷兵を治療する最前線。教育を受けながら、男性は帰還した軍艦から負傷兵を降ろす役割を命じられた。

 「甲板は血の海。まともに歩くこともできません。惨状です」その中で男性は生きている兵士を次々とタンカに乗せた。軍艦が帰港するたびに海軍病院の手術室は戦場になる。

 初めてレントゲンを撮った日のこと。兵士の足には銃弾が何発も入っていた。「ひどいと思いました」

 そのレントゲン写真を持って向かいにある手術室に入ると「突然、切断された兵士の足が自分の足元に飛んできました」。男性はそれを見て気を失った。

 目が覚めると、そばにいた看護師が「気にしていたら、毎日倒れてなきゃならん」と言った。

 軍艦から降ろされた患者がまっ先に運ばれるのがレントゲン室。「軍医がレントゲン写真を見て2、3発の被弾なら取り除きますが、弾が多かったり、ひどいけがだと手術する時間がない。一刻を争う負傷兵がたくさん待っている。だから手足は…」

 男性は、海軍病院にいれば戦場に行かなくても済む、と思っていた。しかし、海軍病院は最前線の惨状がそのまま運び込まれる場所だった。

 戦争をどう思うか-この問いに男性は「戦争…むごいものです」 (粟)

北見 網走 オホーツクのフリーペーパー経済の伝書鳩
2012/08/21掲載(北見市/社会・本紙連載・歴史)
http://denshobato.com/BD/N/page.php?id=63727
 

連載 語り継ぐ戦争 (7) 

元・海軍病院レントゲン技師北見・男性(88) (中) 

叩いて鍛える精神棒
 新兵教育、海軍衛生学校、海軍病院でも
 腫れあがる尻…気を失うほどの痛み

 元・海軍病院レントゲン技師の男性が教育を受けたのは横須賀の海兵団。男性と同期の衛生兵の新兵240人が海兵団の兵舎で教育を受けた。

 240人は12の班に分けられた。教育は兵舎の床(甲板)清掃、手旗信号、カッター(舟)を漕ぐ訓練、水泳など基礎訓練だった。

 兵舎の壁には精神棒と呼ばれる棒が立てかけてあった。3種類あり、棒の太い順から軍規厳正棒、精神入替棒、特攻精神注入棒。班長はこの棒で新兵の尻を叩く。「叩かれると尻は腫れ上がり、真っ黒になります」と、男性。

 その日の訓練が終わると成果の点検が行われた。点検後、精神棒のしごきがある。「カッターを漕ぐのが遅ければ班員は全員。手旗信号が読めなかった時も。なにかにつけとにかく叩かれる。昼食の最中に叩かれることもよくありました。見ているほかの班の新兵は飯がのどを通りません。痛みを知っていますから」

 男性は240人の新兵で一番最初に叩かれたという。海兵団の兵舎に到着したその日に「兵舎の中で靴を履いていた」というのが理由だった。「みんな履いてたのに。いまだに理解できませんよ」という。

 3種類の棒の中で最も痛いのは精神入替棒だった。直径は4センチほど。「細いから肉に食い込むんです」。

 新兵達は3カ月間の基礎訓練を終え、海軍衛生学校に進んだ。そこでも叩かれた。

 猪狩さんら一部の卒業生は、横須賀海軍病院に衛生兵として配属された。「鬼の横病と呼ばれるほど厳しいところでした。新兵教育、衛生学校の比じゃありません」。

 男性は叩かれる時の格好を見せてくれた。両足を大きく開き、両腕を上に突き上げて僅かに前屈みになる。「バットなら折れてしまうほどの強さですから尻を叩かれると前に飛んでいきます。打たれる場所が悪いと痛みで気を失います。例えば5回叩かれるうち3回目で気を失うと、次の人は残った2回と合わせて7回」男性は後の人に残さないよう必死で耐えた。

 なぜ、そこまでの訓練をしたか-。「痛みに怯えたら戦闘で体が動かなくなるからでしょう」と男性。海軍では叩くことを禁じていたが「精神棒は黙認されていました」という。 -つづく- (粟)

北見 網走 オホーツクのフリーペーパー経済の伝書鳩
2012/08/22掲載(北見市/本紙連載・歴史)
http://denshobato.com/BD/N/page.php?id=63763
 

連載 語り継ぐ戦争 (8) 

元・海軍病院レントゲン技師 北見・男性(88) (下) 

“運兵”87歳まで現役
 優しかった隊長 生かされた自分

 運兵-という言葉がある。「運の良い兵という意味です。私はまさに運兵でした」男性は戦後66年間、放射線技師として働き昨年、87歳で現役を退いた。「生かされた」と思っているからだ。

 海軍衛生学校に進んだ志願兵は新兵教育同様12の班に分けられた。男性は12人のうち最も階級の高い専任班長の班に配属された。「専任班長は温厚な人。叩くことはしませんでした」

 海軍衛生学校の卒業生は成績によって配属先が決まる。男性は理学治療科だった。この科と病理検査科の2科は横須賀海軍病院で任務に当たる。選ばれたのは各科10人ずつ。ほかの衛生兵は戦艦や潜水艦に配属され戦地に向かった。「戦地に行かなくて済んだのは専任班長のお陰です」と、男性は言う。

 理学治療科に配属された男性は科長で少佐の隊長と出会った。「隊長は優しい人。運命の人でした」

 理学治療科では負傷兵の治療だけでなく新兵のレントゲン撮影など多種多様の仕事に追われ、疲れ切っていた。

 兵は海軍敷地内の宿舎で生活するが週に一度、外泊の許可が出る。敷地外の宿で体を休めることができた。しかし空襲警報が鳴るとすぐ、隊に戻らなければならない。戻らなければ軍法会議にかけられ逃亡罪になる。

 ある外泊日、男性が寝ている間に空襲警報が鳴った。通常、宿の女将が兵士を起こすがその日の女将は男性に気づいていなかった。警報を知らず寝ていたところに突然、隊長と班長が現れた。

 隊長が言った「ついて来い」。男性は隊長の後ろを歩き、その後ろに班長。3人は1列になって衛門を通り海軍の敷地に入った。衛兵は隊長に敬礼をした。

 男性は歩きながら「軍法会議にかけられる」と思っていた。ところが隊長は男性をレントゲン室に連れて行き、言った。「疲れたろ。ここで休め。何とかする」そう言って隊長がレントゲン室から出ると、班長は「隊長がそうおっしゃっているのだから眠れ」。

 「狐につままれたような気持ちでした」と男性。それから1週間、男性は「いつ呼び出されるか不安で眠れなかった」という。しかし、何も起こらなかった。

 「独りで戻れば衛門で衛兵に捕まっていたでしょう」と男性。「隊長には本当にいろいろ助けていただきました。生かされたと思っています。戦争、精神棒など決して良いことではないが、私の精神は鍛えられました」 -完- (粟)

北見 網走 オホーツクのフリーペーパー経済の伝書鳩
2012/08/23掲載(北見市/社会・本紙連載・歴史)
http://denshobato.com/BD/N/page.php?id=63788
 

関連サイト:

神奈川県の軍事遺跡一覧 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/神奈川県の軍事遺跡一覧 

横須賀海軍病院
http://www.geocities.jp/tcdnh830/sub/kai/yokobyo.html 

三浦半島の軍事施設
http://www.geocities.jp/tcdnh830/sub/ 

東京湾要塞
http://www.geocities.jp/tcdnh830/ 

関連エントリー:

この歌と語りに耳を傾けてください!(終戦記念日に) – 美幌音楽人 加藤雅夫
http://masaokato.jp/2012/08/15/114305 

語り継ぐ戦争 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫
http://masaokato.jp/語り継ぐ戦争 

日本海軍 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫
http://masaokato.jp/日本海軍 

美幌海軍航空隊 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫
http://masaokato.jp/美幌海軍航空隊 

海軍病院 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫
http://masaokato.jp/海軍病院 

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1 件のコメント

  1. 「官邸かわら版」のお知らせ(2012/08/23) 

    ≪更新情報≫ 

    総理の語録:「記憶」を次の世代に(8/23掲載)

     唯一の戦争被爆国として核兵器の惨禍を体験した我が国は、人類全体に対して、地球の未来に対して、崇高な責任を負っています。

    ※ 記事全文はこちらから
    http://kawaraban.kantei.go.jp/2012/08/23goroku.html 

    投稿写真「私の復興便り」

     8月22日(水)更新。
    http://www.kantei.go.jp/fukkou/tayori/index.html
     石巻で1年にもっとも盛り上がる夏祭り「川開き祭」、真夏の太陽に向かって咲きそろった黄色のじゅうたん「元気をもらう満開のひまわり」など12件を追加。 

    >「官邸かわら版」へのご意見はこちらから
    https://www.kantei.go.jp/jp/forms/kawaraban_goiken_ssl.html 

    発行:内閣官房内閣広報室(〒100-8968 東京都千代田区永田町1-6-1) 

    野田総理官邸ブログ【官邸かわら版】
    http://kawaraban.kantei.go.jp/

    加藤 雅夫 より 2012 年 8 月 24 日 12:34

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