日本の童謡 里の秋 (Sato no aki)

日本の童謡 里の秋 (Sato no aki)

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『里の秋』(さとのあき)は、日本の童謡。作詞は斎藤信夫、作曲は海沼實。童謡歌手の川田正子が歌い、1948年(昭和23年)、日本コロムビアよりSPレコードが発売された。 小学校の音楽教科書に長年採用され、2007年(平成19年)「日本の歌百選」に選ばれた。 概要 / 1945年(昭和20年)12月24日、ラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」の中で、引揚援護局のあいさつの後、川田正子の新曲として全国に向けて放送された。 放送直後から多くの反響があり、翌年に始まったラジオ番組「復員だより」の曲として使われた。 1番ではふるさとの秋を母親と過ごす様子、2番では出征中の父親を夜空の下で思う様子、3番では父親の無事な復員(ここでの椰子の島、船という言葉から父親は南方軍麾下の部隊にいることが窺える)を願う母子の思いを表現している。 2003年(平成15年)にNPO「日本童謡の会」が全国約5800人のアンケートに基づき発表した「好きな童謡」で第10位に選ばれた。 ヒットの背景 / 終戦当時、日本の国民のうち、外地と呼ばれる地域にいた民間人と軍人は約660万人と言われている。 戦後の混乱もあって、外地の日本人との連絡は難しく、特に満州、樺太、千島列島にいた兵士や民間人は行方が分からなかった。 彼らがシベリアに抑留されていると外務省が知ったのは、翌昭和21年のAP通信であった。 引揚者らは日本への航路がある港に殺到したため、引揚げ船・復員船は常に超満員だった。 運良く乗船できても、暗く狭い船倉は衛生状態も悪く、快適ではなかったらしい。 本土に上陸しても、列車内は買い出し等で大きな荷物を持った人でごった返し、列車のわきにぶら下がったり、屋根に座ったりする人が多かった。列車とすれ違う時や、SLの煙が充満したトンネル内では大変な思いであった(肥薩線列車退行事故)。 終戦直後には、潜水艦に船が撃沈される等、まさに命がけの引揚げであった。 また、引揚者を受け入れる内地は、戦火で焼けた都市部の住宅不足に加え、急激なインフレーション、物資不足、深刻な食糧難にみまわれていた。 この時代は一日一日を生きる事に必死であり、父親が無事に帰る事が希望だった家庭も少なくなかった。 反響が大きかった事をふまえると、上記のような世相の中、「里の秋」は年の瀬の人々の心を慰めたと考えられる。 (里の秋 – Wikipedia)

関連サイト

「復員兵を迎えた『里の秋』が大好評」 川田 正子さん(童謡歌手)|あの人の戦争体験|NHK 戦争証言アーカイブス – NHKオンライン

関連エントリ

里の秋 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

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