日本の実業家・慈善家 渋沢栄一 (日本の商学者 菊地均)

日本の実業家・慈善家 渋沢栄一 (日本の商学者 菊地均)

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連載 企業家・渋沢栄一 (1) 2019/10/02掲載(北見市/本誌連載) 北海商科大名誉教授・菊地均氏寄稿 / 2024年度発行の新一万円札に描かれることが決まった、実業家・渋沢栄一。元北海学園北見大学教授で、北海商科大学名誉教授の菊地均氏(71)は「渋沢栄一が、経営というものをどのように考えていたのかを知ってもらいたい」と「企業家・渋沢栄一」を寄稿した。連載で紹介する。 大蔵省の要職を辞し、企業家へ / 渋沢栄一について語ることは、新しい1万円札の肖像画に使われるからではなく、企業家(アントレプレナー)として語ることである。それはこの人物の生涯が、ことにその前半生において波乱万丈であったにもかかわらず、後半生において彼がかかわった企業や社会事業の数は千を超え、そのまま世界の企業家史に残してもよいと思うばかりでなく、日本の企業家を志す青年にとって多くの教訓、示唆を含んでいるのに、この人物のことが全く知られていないからである。 北海道の企業とのかかわりで言えば、サッポロビール、JR北海道、王子製紙、北海道ガス、函館ドックなどがあり、名前の残っているのは小樽にある「旧澁澤倉庫」である。 以下、極めて限定的で、ラフなスケッチみたいなものだが、読者が興味を感じ、渋沢栄一を知る機会にでもなってくれるならば、と思って筆を執った次第である。 渋沢栄一は天保11(1840)年に生まれ、昭和6(1931)年、91歳で生涯を閉じる。このように91年にわたる生涯を、研究の対象として二つの時期に分ければ、明治6(1873)年がその境目になる。この頃は彼にとって心身が成熟し、もっとも働き盛りの33歳、大蔵省の要職を辞し野に下り、以後は終始一貫、企業家として活動する意思を固めた時代だ。 この時以前の渋沢の前半生は明治維新前後の大変革期に当たり、彼の身の上にも、実に思いもよらぬことが続出するのだが、この前半生のあらゆる波乱はみな、要するに彼の悟りを開き、力を培い、性格を鍛え、後世の円熟した企業家渋沢栄一という人物を作り上げる素地となったということができる。 プロフィール 菊地均(きくち ひとし) 1976年日本大学大学院商学研究科博士課程、レスブリッジ大学交換教授のほか1979年から北海学園北見大学に勤務し教授などを務めた。北海商科大学教授、同大学大学院教授をへて同大学名誉教授、博士(経営学) (オホーツクのフリーペーパー経済の伝書鳩)

連載 企業家・渋沢栄一 (2) 2019/10/04掲載(北見市/本誌連載) 北海商科大名誉教授・菊地均氏寄稿 / 青年渋沢は時代の激流の真っ只中に / 渋沢が生まれた天保11年というのは、明治元(1868)年から数えて28年も前のことである。言うまでもなく、その頃の日本は将軍とか大名とかいう階級の者が社会を支配していた。端的に言えば、刀をさした武士が政権を握り、威張っていたというわけである。ところが、この幕藩体制を崩壊に導く様々な事件が、渋沢の青年時代に次から次へと目まぐるしいばかりに起こり、青年渋沢は時代の激流の真っ只中に身を委ねていたのだ。 渋沢はもともと武士の出身ではない。かつて中山道の宿場町として栄えた深谷宿と利根川の間に血流島と呼ばれた村があり、この村で米、麦、野菜の栽培、藍玉(運搬用に固めた藍)の製造・販売と養蚕を兼業する豪農、すなわち今日でいう農商工連携を一身に営む企業家の出身である。しかも、本人は6、7歳ころから論語をはじめ四書五経を学び、その後『日本外交史』『十八史略』などを読み漁り、神道無念流の剣術を修めるが、これは当時の知識階級たる武士の子弟が普通に受けていた教育と同じ内容のものであった。 この儒教的態度を底流にした武士道的な教養が、生涯を通じ渋沢の生き方を決める重要な精神的よりどころとなっていたように思われる。 しかし渋沢には、普通の武士と違って農工業者としてはもとより、企業家としての経験と才能があった。 ペリーが浦賀に来航した嘉永6(1853)年、渋沢は13歳で、初めて父に代わって買い入れをやり、大いに成功を収め父にほめられたり、14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになったりした。この時から8年ばかりの間は彼が家業に励んだ時期で、この間に彼は企業家としての基本的な修行を積んだようである。 (オホーツクのフリーペーパー経済の伝書鳩)

連載 企業家・渋沢栄一 (3) 2019/10/05掲載(北見市/本誌連載) 北海商科大名誉教授・菊地均氏寄稿 / 「掃葉軒」塾で儒教を本格的に学ぶ / 文久元(1861)年に江戸に出て海保漁村の「掃葉軒」塾の門下生となり、儒教を本格的に学び、北辰一刀流の千葉栄次郎(周作の次男)の道場で剣術の修行をしていた。このような少年時代以来の儒教的態度を底流にした武士道的な教養は、彼の心の中に社会の正しいあり方を考えさせ、人間の尊厳を自覚する心構えを養ったものと思われる。 有名なエピソードがある。渋沢が代官の呼び出しを受けて、父の代理として岡部藩の陣屋に出頭し、御用金5百両を差し出せという要求を受けた時のことである。彼は即座に「父に話した上で改めてお請けにまかり出ます」と応じたところ、代官は「17歳になっているなら5百両位の金は貴様一存でも承知できるはずではないか」と半ば権柄(けんぺい)づくで、半ば嘲弄(ちょうろう)する態度で押し付けようとした。渋沢はあくまで返事を保留したままその場を引き揚げたのだが、この体験は彼にとって大変ショックだったようだ。 後日、渋沢は「同じ人間でありながら、こっちに正しい理由があるにもかかわらず、武士であるからといって百姓を奴隷扱いにすることは不都合千万である。こんなことが起こるのは幕府の政治がよろしくないからだ」と考え、この時から百姓を辞めて武士になり、世の中を良くするために活動したいと思うようになったという。 ちょうどその頃は尊皇攘夷論や討幕論が盛んになってきたところである。青年渋沢もこの思想に熱中し、現代風に言えば、革命家的情熱が彼に燃え上がった時期だった。しかし、父は子の思想に深い理解を示しながらも、厳重に手綱を引き締めていたから、彼も自重して数年の間は家業に励み、大いに商才を磨いていたのだ。 だが幕末の情勢は、安政の大獄から大老井伊直弼の暗殺、さらには老中安藤信正に対する尊皇攘夷派の水戸浪士の襲撃など、次第に切迫し、渋沢の討幕思想も江戸遊学、勤皇志士との交わりなどを通じてますます尖鋭化してくる。これが極点に達したのが文久3(1863)年であった。 (オホーツクのフリーペーパー経済の伝書鳩)

連載 企業家・渋沢栄一 (4) 2019/10/18掲載(北見市/本誌連載) 北海商科大名誉教授・菊地均氏寄稿 / 討幕計画を立てるも中止に / 文久3(1863)年7月は薩英戦争があったり、8月に京都における長州勢力一掃のクーデターが起こったりする中で、23歳の渋沢は、この8月、少年時代からの漢学の師で従兄に当たる尾高惇忠を首領に仰ぎ、同志69名を糾合し、討幕の実行計画を決めたのである。 その計画というのが今から考えるとすこぶる乱暴なもので、まず69名の決死隊で高崎城を攻め落とし、さらに同志を募った上で横浜の外国人を切り殺し、長州と連携し幕府を倒すというものだった。すると外国では軍隊を出動させ幕府を攻めるが、幕府は支えきれずして倒れる。そうなれば王道をもって天下を治める時代が出現するだろうというものである。 渋沢は大まじめでこれを実行可能と信じ、商売で得た金の中から父に隠して2百両の金をひねり出し、これを軍資金として武器を購入し、この年の冬至の日に実行することになっていた。 だが、その直前になって、かねてから一同が指導者として仰ぎ、この件の参謀長を務める予定になっていた尾高長七郎―惇忠の弟で渋沢より2歳年長、文武両道に優れ江戸・京都の間を往来し天下の情勢に通じていた人物―が急きょ京都から帰ってきて、京都の情勢を伝えた上で、この計画が無謀で成功の見込みがないこと、万一成功したとしても日本国に対する外国の干渉を招く恐れがあることを力説し、中止すべきだと主張した。 その時、渋沢は興奮して、長七郎を刺殺してでも計画を実行しようと考えたけれども、結局長七郎の説が正しいことを悟り、この討幕計画は中止するに至る。 (オホーツクのフリーペーパー経済の伝書鳩)

連載 企業家・渋沢栄一 (5) 2019/10/26掲載(北見市/本誌連載) 北海商科大名誉教授・菊地均氏寄稿 / 郷里を離れ、ひそかに京都へ上る / 渋沢らに不穏な計画があることは幕吏の察知するところとなり、渋沢は同志の一人で従兄の喜作とともに郷里を離れ、ひそかに京都へ上ることになる。だが百姓あるいは浪人として旅をしたのでは捕まる恐れがあったため、渋沢はかねてから自分に好意を寄せてくれていた一橋家の家臣平岡円四郎の推挙により一橋慶喜の家来にしてもらって、武士姿で京都に向かう。 爾来(じらい)、渋沢の生涯にとって大きな転換期を迎える。いろいろな経緯はあったが、ともかく渋沢は平岡の推挙によって、尊皇討幕の思想を抱いたままで、一橋慶喜―やがて15代将軍となる人―に仕えることになる。ここでは一橋家領内の産業振興や農兵の募集に才能手腕を発揮し、勘定組頭という地位に上る。 慶応2(1866)年、慶喜は15代将軍となるが、この時渋沢は幕府が遠からず倒れることを予想し、その後の来るべき政治情勢を考慮し、慶喜の将軍就任に大反対を唱えた。 けだし渋沢は慶喜が英明な指導者であることを知り、この人物を幕府倒壊後の政局の中枢に据え、慶喜を通じて自分の志を天下に知らしめたいと思ったのも事実である。しかし、慶喜には慶喜自身の考えがあって、あえて将軍職に就き、翌年政権返上を明治天皇に奏上(そうじょう)する覚悟がすでにできていたのである。 (オホーツクのフリーペーパー経済の伝書鳩)

連載 企業家・渋沢栄一 (6) 2019/10/31掲載(北見市/本誌連載) 北海商科大名誉教授・菊地均氏寄稿 / 随行員としてフランスへ / 慶喜が将軍になるに伴い渋沢も幕臣とされるが、かなり腐りきっていた。その時、思いがけない話が舞い込んでくる。慶喜の弟で清水家を相続していた徳川昭武がフランスへ親善使節として派遣されることになったので、その随行員としていくようにと命じられた。 これは、1867(慶応3)年パリで万国博覧会が開かれ、各国から帝王や使節が参列することになっていたり、駐日フランス公使からの勧めもあったりしたので、幕府は将軍の弟昭武を派遣することに決めたからである。しかし、昭武は時に15歳の少年ということから、使節の役が済んだ後はフランスに留めて勉学させよう、というのが慶喜の考えであった。慶喜は当時、渋沢の人物と才能を見抜いていたので、昭武一行の御勘定格陸軍附調役として渋沢を任命したのだ。 渋沢は大いに喜んでこの任務を引き受け、慶応3年正月横浜港を船出し、約2カ月かけてマルセイユに上陸した。これより約1年5カ月の間ヨーロッパに滞在し、その間各国を歴訪し、近代西洋文明の進歩した有様と軍備を視察したため、得るところが大きかったようである。 (オホーツクのフリーペーパー経済の伝書鳩)

連載 企業家・渋沢栄一 (7) 2019/11/01掲載(北見市/本誌連載) 北海商科大名誉教授・菊地均氏寄稿 / 大政奉還の後、フランスから帰国 / この間(ヨーロッパ滞在期間)、渋沢がもっとも注視したのは西欧の近代資本主義の法人制度である。例えば、銀行、会社、取引所、保険、慈善事業などの法人組織やマネジメントの役割についてである。 実際にそれらを見聞し、わが国で積極的に活用することによって、自分の扱っている金銭を極めて効率的かつ合理的に管理しようとしたのだ。このようなことは、企業家についての才能と経験を有する渋沢だからこそできたことであって、その頃の日本の武士たちには期待し難いことだった。 なお、フランス滞在中に御勘定格陸軍附調役から外国奉行支配調役となり、その後開成所奉行支配調役に転じる。 この年の10月、将軍慶喜は政権を返上、やがて明治新政府が成立し、日本国内の情勢は急変した。パリにいた渋沢はこうした時に際し沈着巧妙に対処し、なお数年間昭武の留学を続けさせようとはかった。けれども止むなき事情が生じたため、明治元年9月4日、昭武一行と共にマルセイユから帰国の途につき、同年11月3日に横浜港に帰国した。 (オホーツクの日刊フリーペーパー経済の伝書鳩)

連載 企業家・渋沢栄一(完) 2019/11/12掲載(北見市/本誌連載) 北海商科大名誉教授・菊地均氏寄稿 / 「論語の精神をもって商業を経営する」 / 渋沢が大蔵省を辞めるに至った経緯や企業家としての後半生のことは、もはや書くスペースがなくなった。ただ最後に、渋沢が官尊民卑の風習の甚だしかった明治6年に官を去って実業界に入ったのは、どんな思想に基づくのか、ということについて一言する。 渋沢辞職の報を聞くや2人の親友が駆けつけ、渋沢が官を去るのを惜しんで、切に辞意を翻すことを勧めたが、この時渋沢は答えて言う。 「官吏は平凡でもいいが、商人は賢才でなければならない。日本人が商人となるのを恥辱と考えるのは大間違いだ。わが国今日の急務は、商人の品位を高くし、人材を商業界へ向かわせ、商人は徳義の標本と言われるようにすることだ。私はまだ経験も乏しい者だが、私の胸の中には論語がある。私は論語の精神をもって商業を経営するつもりだから見ていてくれ」と。 渋沢にとって、資本主義を考えるにあたって、資本だけを集めるのではなく、人材の育成を合体した「合本主義」を貫く、すなわち論語に根ざした私益と公益の安定したモラル社会を理念型として考えたことを思う時、上記の言葉は彼の本心から出たものだ、と思わざるを得ない。 このように日本の企業家史の中にある渋沢栄一の生涯と思想は、現代の企業家を考える上で、大いに参考になるものだ。 (オホーツクの日刊フリーペーパー経済の伝書鳩)

渋沢 栄一(しぶさわ えいいち Shibusawa Eiichi、天保11年2月13日(1840年3月16日) – 昭和6年(1931年)11月11日)は、日本の実業家、慈善家。位階勲等爵位は、正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。 概要 / 江戸時代末期に農民(名主身分)から武士(幕臣)に取り立てられ、明治政府では大蔵少輔事務取扱となり、大蔵大輔、井上馨の下で財政政策を行った。退官後は実業家に転じ、第一国立銀行や理化学研究所、東京証券取引所といった多種多様な会社の設立、経営に関わり、二松學舍第3代舎長(現、二松学舎大学)を務めた他、商法講習所(現、一橋大学)、大倉商業学校(現、東京経済大学)の設立にも尽力し、それらの功績を元に「日本資本主義の父」と称される。また、論語を通じた経営哲学でも広く知られている。令和6年(2024年)より新紙幣一万円札の顔となる。また、令和3年(2021年)に渋沢栄一を主人公としたNHK大河ドラマ『青天を衝け』が放送される予定。 (渋沢栄一 – Wikipedia)

菊地 均(きくち ひとし Hitoshi Kikuchi、1948年- )は、日本の商学者。北海商科大学商学部商学科教授。北海道札幌市出身。 履歴 / 函館大学商学部商学科卒業。日本大学大学院商学研究科博士課程単位取得満期退学。1979年北海学園北見大学商学部商学科講師。北海学園北見大学商学部商学科助教授。北海学園北見大学商学部商学科教授を経て、2006年より現職。 この他、レスブリッジ大学交換教授、1994年から2000年まで北海学園北見大学開発政策研究所主任研究員、2013年より北海商科大学開発政策研究所研究員も務める。 研究領域 / 商業政策科学が専門。ミュルダールの社会科学方法論、オホーツク管内における大型店出店の影響力、観光マーケティング論の構築などを研究。 (菊地均 – Wikipedia)

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