日本の ボーイスカウト十話 (後藤新平 三島通陽)
日本の ボーイスカウト十話 (後藤新平 三島通陽)
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後藤 新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) – 昭和4年(1929年)4月13日)は、日本の医師・官僚・政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。 台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長を歴任した。 生涯 / 晩年 / 三島通陽の『スカウト十話』によれば、後藤が倒れる日に三島に残した言葉は「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという。 逸話 / 日本のボーイスカウト活動に深い関わりを持ち、ボーイスカウト日本連盟の初代総長を務めている。スカウト運動の普及のために自ら10万円の大金を日本連盟に寄付し、さらに全国巡回講演会を数多く実施した。ボーイスカウトの半ズボンの制服姿の写真が現在も残っている。制服姿の後藤が集会に現れると、彼を慕うスカウトたちから「僕等の好きな総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気でニコニコ」と歌声が上がったという。 現在の中国大使館は後藤邸の跡地である。 (後藤新平 – Wikipedia)
三島 通陽(みしま みちはる、1897年(明治30年)1月1日 – 1965年(昭和40年)4月20日) は、日本の小説家・劇作家・演劇評論家。子爵。貴族院議員・参議院議員。文部政務次官。二荒芳徳とともにボーイスカウト運動を日本に広めた人物として知られる。東京麻布生まれ、学習院卒業。ペンネームに三島章道(みしま しょうどう)。 ボーイスカウト運動 / ボーイスカウト日本連盟初代理事長兼中央実修所所長を経て、ボーイスカウト日本連盟第4代総長。 1922年(大正11年)、後藤新平を中心として初の全国組織「少年団日本連盟」が結成されると、25歳で副理事長に選任される。妻の純は翌年、日本のガールガイド・ガールスカウト組織として、「日本女子補導団」を設立。 1950年(昭和25年)、三島家別荘の土地と家屋(栃木県西那須野町)をボーイスカウト日本連盟に譲渡。その地所は現在、ボーイスカウト日本連盟の常設野営場、那須野営場となっている。 1951年(昭和26年)、全国総会において第4代総長に選出される。 1953年(昭和28年)、ボーイスカウト日本連盟より功労章「きじ章」を贈られる。 1959年(昭和34年)、藍綬褒章受章。 1961年(昭和36年)、英国ボーイスカウト連盟より功労章「ブロンズ・ウルフ章」を贈られる。 1965年(昭和40年)2月25日から3月7日まで毎日新聞に「スカウト十話」を連載。これが絶筆となる。 4月20日死去。叙・正三位、勲二等旭日重光章受章。 4月24日、日本連盟葬が執行された。なお、琵琶湖畔の雄松崎(滋賀県大津市)にある「日本ボーイスカウト初野営の地」の石碑の書は、三島の筆によるものである。 (三島通陽 – Wikipedia)
第3回 日本ジャンボリー (アジアジャンボリー) 1962年(昭和37年)8月3日 – 8月8日 場所:静岡県御殿場市・東富士演習場滝ヶ原駐屯地。北海道美幌町の美幌ボーイスカウト隊員・加藤雅夫 (美幌音楽人) が参加。明仁皇太子殿下 (今上天皇) と美智子妃殿下 (皇后美智子) に謁見行進。1963年 第11回 世界ジャンボリー (ギリシャ) の参加は、あきらめました。1ドルが 360円の時代でした。
関連サイト
ボーイスカウト十話 – ボーイスカウト茨城県連盟ホームページ
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