荘村清志 の検索結果: 21 件

武満徹の作品一覧 (ギターのための作品 荘村清志)

290px-Guitar_headstock_front.jpg

bi_bo.jpg

武満徹の作品一覧 (ギターのための作品 荘村清志)

ギター朋友・同年生まれの楽友 荘村清志さんは、1996年に逝去した武満徹の遺作「森の中で」を、北海道紋別市で初演した。 美幌町のインド料理店「クリシュナ」で、武満徹作曲「美幌町町歌」SPレコードを聴いて、荘村清志さんは大感激した。(2008年夏)

関連記事

武満徹の作品一覧では、武満徹の音楽作品に関するリストを示す。 ギターのための作品 / フォリオス / ヒロシマという名の少年 / すべては薄明のなかで / ギターのための小品 -シルヴァーノ・ブソッティの60歳の誕生日に- / 不良少年エキノクス / 森のなかで (武満徹の作品一覧 – Wikipedia)

荘村 清志(しょうむら きよし Kiyoshi Shomura、1947年10月13日 – )は、日本のクラシックギターのギタリスト。 活動 / 荘村清志の功績の一つに、日本人作曲家に積極的に作品を委嘱し、現代ギター作品のレパートリーを拡大したことがある。とくに武満徹には74年に「フォリオス」、93年に「エキノクス」(初演94年)を委嘱し、ギタリストにとって重要なレパートリーの一つとなっている。また「ギターのための12の歌」は荘村清志のために編曲された。 エピソード・人物像 / 武満徹に初めて作品を依頼する際、面識がなかったが武満の自宅に直接電話をし会う約束をつけた。荘村自身は「当時、武満さんはノヴェンバー・ステップスによって、世界で脚光を浴び、雲の上の存在だった。そこに無名の一ギタリストがたずねて行って、今思ってもよく曲を書いて下さったものだ。」と語っている。武満は作曲するのを迷ったが、 夫人の「若い音楽家の為に書いてあげなさいよ」という言葉によって「フォリオス」が作曲された。これがきっかけになり、武満はその後数曲のギター作品を作曲している。死の半年前に書かれた「森のなかで – ギターのための3つの小品 -」の第二曲は荘村に捧げられた。 (荘村清志 – Wikipedia)

関連サイト

ギターとともに歩む – 荘村清志ホームページ

関連エントリ

武満徹の作品一覧 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

ギターのための作品 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

荘村清志 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

Kiyoshi Shomura の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

ツイッター (Twitter)

bihorokato_icon4.jpg

600px-Japanese_crest_Hikone_Tahibana.svg.png

加藤 雅夫 (@bihorokato) | Twitter

フェイスブック (Facebook)

275257_100004368631176_1138034801_n.jpg

img_index02.jpg

加藤 雅夫 | Facebook

Masao Kato – Facebook

このページの先頭へ戻る

Narciso Yepes ナルシソ・イエペス の捧げもの

450px-Alstromeria_aurantiaca1.jpg

Narciso Yepes ナルシソ・イエペス の捧げもの

関連記事

Narciso Yepes (14 November 1927 – 3 May 1997) was born into a family of humble origin in Lorca, Region of Murcia. His father gave him his first guitar when he was four years old, and took the boy five miles on a donkey to and from lessons three days a week. Yepes took his first lessons from Jesus Guevara, in Lorca. Later his family moved to Valencia when the Spanish Civil War started in 1936. On 16 December 1947 he made his Madrid début, performing Joaquín Rodrigo’s Concierto de Aranjuez with Ataúlfo Argenta conducting the Spanish National Orchestra. The overwhelming success of this performance brought him renown from critics and public alike. Soon afterwards, he began to tour with Argenta, visiting Switzerland, Italy, Germany, and France. During this time he was largely responsible for the growing popularity of the Concierto de Aranjuez, and made two early recordings, both with Argenta[6] – one in mono with the Madrid Chamber Orchestra (released between 1953 and 1955), and the second in stereo with the Orquesta Nacional de España (recorded in 1957 and released in 1959). On 18 May 1951, as he leant on the parapet of a bridge in Paris and watched the Seine flow by, Yepes unexpectedly heard a voice inside him ask, “What are you doing?” He had been a nonbeliever for 25 years, perfectly content that there was no God or transcendence or afterlife. But that existential question, which he understood as God’s call, changed everything for him. He became a devout Catholic, which he remained for the rest of his life. In 1952 a work (”Romance”), Yepes claims to have written when he was a young boy,[10] became the theme to the film Forbidden Games (Jeux interdits) by René Clément. Despite Yepes’s claims of composing it, the piece (”Romance”) has often been attributed to other authors; indeed published versions exist from before Yepes was even born[citation needed], and the earliest known recording of the work dates from a cylinder from around 1900.[citation needed] In the credits of the film Jeux Interdits, however, “Romance” is credited as “Traditional: arranged – Narciso Yepes.” Yepes also performed other pieces for the Forbidden Games soundtrack. His later credits as film composer include the soundtracks to La Fille aux yeux d’or (1961) and La viuda del capitán Estrada (1991). He also starred as a musician in the 1967 film version of El amor brujo. In Paris he met Maria Szumlakowska, a young Polish philosophy student, the daughter of Marian Szumlakowski, the Ambassador of Poland in Spain from 1935 to 1944. They married in 1958 and had two sons, Juan de la Cruz (deceased), Ignacio Yepes, an orchestral conductor and flautist, and one daughter, Ana Yepes, a dancer and choreographer. In 1964, Yepes performed the Concierto de Aranjuez with the Berlin Philharmonic Orchestra, premièring the ten-string guitar, which he invented in collaboration with the renowned guitar maker José Ramírez III. After 1964, Yepes used the ten-string guitar exclusively, touring all six inhabited continents, performing in recitals as well as with the world’s leading orchestras, giving an average of 130 performances each year. He recorded the Concierto de Aranjuez for the first time with the ten-string guitar in 1969 with Odón Alonso conducting the Orquesta Sinfonica R.T.V. Española. Apart from being a consummate musician, Yepes was also a significant scholar. His research into forgotten manuscripts of the sixteenth and seventeenth centuries resulted in the rediscovery of numerous works for guitar or lute. He was also the first person to record the complete lute works of Bach on period instruments (14-course baroque lute). In addition, through his patient and intensive study of his instrument, Narciso Yepes developed a revolutionary technique and previously unsuspected resources and possibilities. He was granted many official honours including the Gold Medal for Distinction in Arts, conferred by King Juan Carlos I; membership in the Academy of “Alfonso X el Sabio” and an Honorary Doctorate from the University of Murcia. In 1986 he was awarded the Premio Nacional de Música of Spain, and he was elected unanimously to the Real Academia de Bellas Artes de San Fernando. In the 1980s, Yepes formed Trio Yepes with his son Ignacio Yepes on flute and recorder and his daughter Ana dancing to her own choreography. After 1993, Narciso Yepes limited his public appearances due to illness. He gave his last concert on 1 March 1996 in Santander (Spain). He died in Murcia in 1997, after a long battle with lymphoma. (Narciso Yepes – Wikipedia

ナルシソ・イエペス(Narciso Yepes、1927年11月14日 – 1997年5月3日)はスペインのギタリスト、作曲家。ナルシソ・ジェペスとも表記される。来歴 / スペインのムルシア地方のロルカ近郊の農家に生まれた。4歳の時に初めてギターに触れ、ロルカの音楽アカデミーでギターを学び、その後バレンシア音楽院に進んでギターや作曲を学んだ。ここで、作曲家のビセンテ・アセンシオ教授に大きな影響を受ける。また、マドリード音楽院では、サインス・デ・ラ・マーサにギターを師事した。1947年12月17日スペイン劇場でのスペイン国立管弦楽団の定演コンサートに名指揮者アタウルフォ・アルヘンタにより招かれ、ロドリーゴのアランフエス協奏曲を演奏した。その後に行われたパリやジュネーヴなどでの演奏会の成功で、イエペスの名はヨーロッパ中に知れ渡った。1952年に、パリのカフェで映画監督のルネ・クレマンと偶然知り合い、「映画自体はすでに撮ってあるが、どんな音楽をつけたらよいか決めかねているので、映画のための音楽を担当してほしい」と監督から依頼を受ける。当初、アンドレス・セゴビアに音楽を担当してもらう予定だったが、すでに映画制作の為の予算を使い果たしており、セゴビアとは制作費の折り合いがつかず、当時まだ新人であったイエペスに音楽担当の依頼をする事となった。 そこで、24歳のイエペスは映画『禁じられた遊び』の音楽の編曲・構成、演奏を1本のギターだけで行った。そして、その映画が公開されると、メインテーマ曲「愛のロマンス」が大ヒットし、世界的に有名なギタリストとなった。それから世界各地でリサイタルやオーケストラとの共演を行い、日本にも1960年から1996年までの間に計17回訪問した。1964年からは、ホセ・ラミレス3世と共同で通常より音域の広い10弦ギターを開発した。演奏の軽快さが多少犠牲になり、一部では批判もあったが、均一な共鳴をもつ透明度の高い音色を実現し、多くの音楽愛好家に受け入れられた。1989年4月スペイン芸術院のサン・フェルナンド王立アカデミーの会員に任命された。これはサインス・デラマーサ、アンドレス・セゴビアに続く3人目の栄誉である。1990年頃に、悪性リンパ腫に冒されている事が発覚し、1993年には医師から演奏活動の中止を忠告されたが、その後も演奏活動を続けた。だが、1996年3月にサンタンデール音楽祭に出演したのが最後のステージとなり、1997年5月3日に69歳で死去した。イエペスの信念である「芸術は神のほほえみである」の名のもとに10弦ギターで世界各地を演奏活動して回ったことにより、日本はもとより全世界で圧倒的な人気を誇り、なお且つ世界各地に及ぼした音楽的影響の高さはひときわ抜きん出ていた。レパートリーの広さ(バッハのリュート組曲におけるバロック・リュートの演奏、テレサ・ベルガンサとの歌の伴奏、世界各地のオーケーストラとのギターコンチェルトによる共演、フェルナンド・ソルの練習曲集の演奏、カタルーニャ地方の民謡を集めた曲集の演奏、ラテン系の近代・現代の作曲家の作品の10弦ギターによる演奏、弟子のモンダンとの二重奏、「トリオ・イエペス」による親子の共演等 )も、来日回数も、他の追随を許さぬものがあり、年間120回にもおよぶ演奏会を30年近く世界各地で行い、今までに録音したレコードの枚数も50枚を超えた(1967年から1989年まではドイツ・グラモフォン専属となった)。日本国内での代表的な弟子として、荘村清志、芳志戸幹雄、小原聖子等がいる。イエペスには数々の栄誉が与えられており、代表的なものとしてムルシア大学名誉博士号、イサベル・ラ・カトリカ十字章、スペイン国王から芸術功労金メダル、スペイン文化賞からスペイン音楽大賞、スペイン作曲家協会賞、国営テレビ局大賞等がある。(ナルシソ・イエペス – Wikipedia



関連サイト

Narciso Yepes Official Homepage (ナルシソ·・イエペス公式ホームページ)

Ana Yepes (アナ・イエペス)| earlydance.org

Ana Yepes(アナ・イエペス) | Facebook

関連エント

Trio Yepes の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫

トリオ・イエペス の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫

Narciso Yepes の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫

ナルシソ・イエペス の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫

Ana Yepes の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫

アナ・イエペス の検索結果 ー 美幌音楽人 加藤雅夫

ツイッター( Twitter)

bihorokato_icon4.jpg

600px-Japanese_crest_Hikone_Tahibana.svg.png

加藤 雅夫 (@bihorokato) | Twitter

フェイスブック (Facebook)

275257_100004368631176_1138034801_n.jpg

img_index02.jpg

加藤 雅夫 | Facebook

Masao Kato – Facebook

このページの先頭へ戻る

記念の日 – ナルシソ・イエペス (1927年 11月14日)

Narciso_Yepes.jpeg

300px-Jeux_interdits_1952_Japanese_poster.jpg

記念の日 – ナルシソ・イエペス (1927年 11月14日)
Day of Commemoration – Narciso Yepes (November 14, 1927)

記念の日 – ナルシソ・イエペス (1927年 11月14日) の全文を読む

このページの先頭へ戻る

1947年 10月13日、荘村 清志 (Shomura Kiyoshi)

290px-Guitar_headstock_front.jpg

bi_bo.jpg

1947年 10月13日、荘村清志 誕生
October 13, 1947, Shomura Kiyoshi birth

1947年 10月13日、荘村 清志 (Shomura Kiyoshi) の全文を読む

このページの先頭へ戻る

11月14日、ナルシソ・イエペス (Narciso Yepes)誕生日

Narciso_Yepes.jpeg

Castillo_de_Lorca1.jpg

写真: ナルシソ・イエペス (12歳) (1939年)
Narciso Yepes (1939)
ロルカ城 (Castillo de Lorca)

11月14日、ナルシソ・イエペスの誕生日
November 14, birthday of Narciso Yepes
14 de noviembre, cumpleaños de Narciso Yepes

11月14日、ナルシソ・イエペス (Narciso Yepes)誕生日 の全文を読む

このページの先頭へ戻る

Songs and Musical Offering (to Toru Takemitsu)

Toru_Takemitsu.jpg

392445_109940502452293_906320627_n.jpg

武満徹 (武满彻, 武滿徹, 다케미쓰 도루, ТоруТакэмицу, Toru Takemitsu)

武満 徹(たけみつ とおる、1930年10月8日 – 1996年2月20日)は、現代音楽の分野において世界的にその名を知られ、日本を代表する作曲家である。 1953年には北海道美幌町に疎開していた音楽評論家の藁科雅美が病状悪化の早坂文雄を介して委嘱した「美幌町町歌」を作曲している。 1996年2月20日、65歳で死去。死の直前、大雪が降り、夫人が見舞いに訪れない日があった。この日、武満は訪れる見舞客も無く、一人で時間を過ごすこととなった。その日、偶然にも、武満が愛してやまなかった、バッハの『マタイ受難曲』が放送され、武満は、この曲を全曲聴くこととなる。この偶然を夫人は、深い感慨を持って回想している。(Wikipedia

Songs and Musical Offering (to Toru Takemitsu) の全文を読む

このページの先頭へ戻る

岩城宏之メモリアル(生誕80年記念)コンサート

Tru_Takemitsu.jpg

360px-Tokyo_Opera_City_cropped.jpg

395px-Japanese_dragon_Chinese_school_19th_Century.jpg

東京オペラシティ文化財団(公益財団法人)からのメールニュース: チケット発売: 「岩城宏之メモリアル(生誕80年記念)コンサート」のお知らせ。

岩城宏之メモリアル(生誕80年記念)コンサート の全文を読む

このページの先頭へ戻る

武満徹の東京オペラシティ、そして美幌町

DSC09259b3.jpg

10月8日は美幌町とゆかりの深い武満 徹(1930-1996)の誕生日。東京オペラシティから「武満徹80歳バースデー・コンサート」案内です。(メールニュース)

写真:天下絶景「美幌峠の冬景色」

武満徹の東京オペラシティ、そして美幌町 の全文を読む

このページの先頭へ戻る

ナルシソ・イエペス記念館

私の心の恩師で旧友のナルシソ・イエペスに捧ぐ
"Tribute to Narciso Yepes" Masao Kato in Bihoro

Narciso Yepes
ナルシソ・イエペス 1927.11.14ー1997.5.3
イエペスは4歳の時に初めてギターに触れ、ロルカの音楽アカデミーで
ギターを学び、その後バレンシア音楽院に進んでギターや作曲を学んだ。

ナルシソ・イエペス記念館 の全文を読む

このページの先頭へ戻る

町歌と校歌

美幌町の町歌と校歌について(1)

現代音楽の世界的な作曲家・武満徹(たけみつとおる)さんが
美幌町町歌」を作曲したのは 1953(昭和28年) 22歳です。

当時を知るピアニスト園田高弘さんは「多くの人々が戦後の
困窮時代に懸命に生き抜く事に精一杯の努力をしていた当時
武満徹さんも赤貧洗うが如き生活状態で 作品を書いていたよう
です」と語る。
(園田高弘さんは武満徹さんの最初のピアノ作品「遮られない休息」を初演)

そんな中で武満徹さんが東京で病に苦しんでいた時「空気の良い鎌倉で
療養しないか」と自宅を提供したのが團伊玖磨(だんいくま)さん。

その後、武満徹さんは「弦楽のためのレクイエム」そして琵琶と尺八を用いた
小澤征爾指揮ニューヨーク・フィル委嘱作品「ノベェンバー・ステップス」や
「系図ー若い人のための音楽詩」など代表作を多数発表し映画音楽でも
大きな足跡を残し「太平洋ひとりぼっち」「はなれ瞽女おりん」「乱」「写楽」
など日本映画のほかハリウッド映画「ライジング・サン」なども手がけた。
ギターの作品も多く、「森の中で」とフルートの「エアー」は遺作となった。
日本芸術院賞、フランス芸術文化勲章、グレン・グールド賞など世界各国
から賞を受けている。

武満徹さんの逝去(1998.2.20)を知った私は、
誰もが知らない 武満徹の遺したもの「美幌町町歌」を
皆さん(黛敏郎、園田高弘、谷川俊太郎、湯浅譲二、大江健三郎、
横山勝也、小澤征爾、立花隆、文仁様、荘村清志など)に伝えた。
皆さんは、「へえ!あの武満徹さんが 22才の時に…」と絶句。
美幌町出身で文化人類学の山口昌男さんも「不思議なご縁に驚いた
一昨日、東京の追悼コンサートで浅香夫人と長女の眞樹さんに会った
ばかりだ…」と。
私も 札幌の追悼コンサート(岩城宏之指揮・札幌交響楽団)に行った。
武満浅香夫人(元・劇団四季女優)と武満眞樹さん(洋画翻訳家)は
「町長と皆様から弔電をいただきました ありがとうございます」。
私は 「美幌町をご案内すること叶いませんでした…残念です」。
浅香夫人は「町歌作曲の経緯は早坂文雄先生からの依頼だった ようです」。

町や町民は 一度でも武満徹さんを地元に招待すべきだった。

没後10年この間、国内外の武満徹ファンが美幌町を訪れて
役場のオルゴールを聴いて 小川のほとり野山を散策して
また ある時はギターで「武満徹」を語り、心に何かをのこして 
静かに帰って行く。…

 

音は私をつらぬいて 世界に輪のように つづいている   武満徹 
 
“Sounds thread their way through me, and then out into the world,
in uninterrupted loops.” Toru Takemitsu 

 

昭和28年 「美幌町町歌」 開基66年 町制30年記念制定
作詞:大下孝一(美幌郵便局 郵便配達人)39才 
作曲:武満徹(たけみつとおる)22才
歌:    松田トシ歌のおばさん
        三鷹 淳 (昭和42年 レコード化)

 

藁科雅美 Masami Warashina
    わらしなまさみ
    (音楽評論家。大正4年1月15日生れ。 慶應大学医学部中退。
    昭和26年から毎日放送の音楽ディレクターとして活躍。
    著書「レコード音楽大事典」 。訳書「バーンスタイン物語」等。
    日本ショパン協会理事。日本チェコスロヴァキア協会顧問。
    第1回美幌町文化賞受賞。平成5年1月3日逝去。)
    藁科一家の疎開先は美幌町(昭和20〜26年)。
    美幌町は鎌倉に移住した藁科さんを介して権威者に町歌作曲を
    依頼した。 

早坂文雄 Fumio Hayasaka
    (作曲家 昭和30年逝去 41才 映画音楽〜酔いどれ天使
    羅生門、白痴 生きる、七人の侍 など) 鎌倉在住。
    病状悪化のため 武満徹に美幌町歌を そして 湯浅譲二に
    美幌病院歌または看護学校歌を依頼した。 

湯浅譲二 Joji Yuasa
    作曲家。昭和4年生れ。慶甕大学医学部中退。昭和26年に
    武満徹、園田高弘、瀧口修造らと実験工房を結成。
    「二つのパストラー」でデビュー。
    日大芸術研究所教授、カリフォルニア大学サンディエゴ校
    名誉教授、国立音大コンピューター音楽センターと東京音大
    の客員教授。
    世界的に知られる現代音楽の作品は ホワイト・ノイズによる
    イコン ヴォイセス・カミング、芭蕉の句による情景、透視図法、
    世阿弥・九位。
    著書は 「音のコスモロジーへ」 「現代音楽ときのとき」。
    健在活躍中。

    湯浅譲二、若き日を語る Joji Yuasa, on TV(Takemitsu)
    

 ♪ 美幌病院歌または看護学校歌をご存知の方はご連絡ください

武満徹   Toru Takemitsu    團伊玖磨  早崎日出太「團伊玖磨全仕事」

美幌町の町歌と校歌について(2)

日本を代表する世界的な作曲家・團伊玖磨(だんいくま)さんが
北海道美幌農業高等学校校歌」を作曲したのは
1952(昭和27年) 28才です。

ある時 東京の会合で團伊玖磨さんと同席
私は 「こんにちは 美幌町から来ました」
團さん 「おお!僕が作曲した北海道の美幌農林学校だ」
私は 「昭和41年卒業、畜産科、吹奏楽部です。校歌に
大変お世話になりました。ありがとうございます。
今は美幌農業高校です。
美幌町町歌の作曲は武満徹さんです。
昭和28年 22才でした」。

團伊玖磨さんは 「へえ!あの武満徹くんが…その頃、武満夫妻は
東京で病に苦しんでいたんだ。だから二人に空気の良い
鎌倉で療養しないかと、僕の家を提供したんだよ やあ!
不思議なご縁だ。一度、美幌町を訪れて見たいものだなあ」。

私は 「音楽評論家 藁科雅美さんの疎開先は美幌町でした。
町民の文化向上に貢献されました」
團伊玖磨さんは 「う〜ん 君の話には本当に驚いた。藁科先生の
ご自宅は鎌倉の僕の家の近所だったんだよ」。

私は 「藁科雅美夫妻は美幌高校の講師でした」
團さんは 「そうだ!校歌作曲は藁科雅美先生からの依頼だった」
私は 「團伊玖磨先生!美幌町に来てくださいね」。

会合は中国文化大臣来日歓迎晩餐会(平成5年)
同席の皆さんは 愛新覚羅白雪  アグネス・チャン
栗原小巻  吉永小百合です…
團伊玖磨さんは山口淑子(李香蘭)女史を紹介してくれました
私の娘(13)が南京で『夜来香 イェライシャン』を中国語で歌い
熱烈歓迎を受けた話に
山口淑子さんは 「まあ!そんな時代になったのね…」と
『夜来香』の歌唱指導を約束してくれました (やったね♪本物です)。

團伊玖磨さんは日本中国文化交流協会会長(前会長は
井上靖さん 役員は東山魁夷千田是也司馬遼太郎
杉村春子などの皆さん)
美幌のギター教師は入会ダメ?
團さんの一声でOKです
北海道会員は三浦綾子さん・坂野上明さん(道新顧問)数名です。

團伊玖磨さんは日中文化交流協会創立の初期から尽力され
訪中歴は 前進座公演(1966)日中国交正常化祝賀(1972)
第1回日本音楽家代表団は中村八大・小泉文夫・松村禎三・
武満徹など(1976) 以後 芥川也寸志・園田高弘・中村紘子・
千住真理子・鮫島有美子・佐藤しのぶ・三善晃・池辺晋一郎・
ダークダックスなど多数が参加
オペラ「夕鶴」公演(1977)など50数回にのぼり 故・周恩来総理
江沢民主席はじめ党と国家の指導者とたびたび会見し各界の
親友も多かった。

ある時 私は團伊玖磨さんに話した
「中国の古都・蘇州を訪問したとき
静寂な寒山寺の辺り 小運河を渡るゴンドラ(小舟)
そして太湖に浮かぶジャンク(帆船)から
琵琶のトレモロと美しい歌声が流れて来ました
その昔 イタリアのマルコポーロさんが 水の都・蘇州を
東洋のベニスと言った気持ちがわかりました…マンドリン
カンツォーネを思い出したのでしょう」。
團伊玖磨さんは 「アハハハ!そうかも知れないね…
蘇州は日本の古都・京都にも似ているんだ
柔らかい方言も 舞妓芸妓の楽音も そして歴史的にもね
その昔 遣隋使遣唐使はロマンの花を沢山咲かせた事だろう」。
私は 「持病の発作が起きても蘇州なら静かに眠れると思いました
不思議です」。
團伊玖磨さんは 「僕もそう思ったよ…不思議だね」。

 

北海道岩内町立岩内西小学校校歌、團伊玖磨作曲、荻原井泉水作詞、昭和26年(1951年)10月10日制定(開校50周年記念)。岩内西小学校校歌は北海道唯一の團伊玖磨作曲の小学校校歌です。(團伊玖磨作曲の美幌農業高校校歌も、北海道唯一の高等学校校歌です)

富山県富山市立五福小学校校歌團伊玖磨作曲、荻原井泉水作詞、昭和30年(1955年)12月制定。富山市立五福小学校の校歌には、他の学校にはあまり見られない大きな特徴があります。それは、歌詞は4番までありますが、1~2番のメロディーと3~4番のメロディーが違うところです。この素晴らしい校歌を今も児童は朝の会や式の時などに誇りをもって歌っています。富山市立五福小学校ホームページ

日本を代表するクラッシック音楽の作曲家であり、エッセイストでもあった團伊玖磨(だん いくま)と、日本の俳人・荻原井泉水(おぎわら せいせんすい)の共通接点は、日本芸術院会員であり、鎌倉在住だった。
Haiku : Ogiwara Seisensui


武満徹
   團伊玖磨   早崎日出太「團伊玖磨全仕事」

北京日本人学校の校歌」作曲:團伊玖磨 作詞:井上ひさし  
上海日本人学校の校歌」作詞:團伊玖磨 作詞:陳舜臣  

美幌町の町歌と校歌について(3)

  武満徹   團伊玖磨   早崎日出太「團伊玖磨全仕事」

小惑星 17509 Ikumadan (作曲家 團伊玖磨) 2001.5.17 命名 関勉さん

團伊玖磨さんは 2001平成13年5月17日 訪問先の中国江蘇省
蘇州市(第2人民病院)で心不全のため急逝した 77才。

前年の春 最愛の團和子夫人(上海生れのピアニスト)を亡くされてから
1年1ヵ月11日と言う日でした。
すべての事を成し遂げられた團伊玖磨さんを團和子夫人は
蘇州の隣の故郷からお迎えに来られたのでしょう。
今 お2人は空を飛んで十万億土への旅を続けられているのだと
思います。

 團夫妻の星雲?

 

團伊玖磨さんは中国に愛着を持ち長年にわたり中国の友好と文化交流の
発展に貢献した事により中国から「中日友好使者」「人民友好使者」
「文化交流貢献奨」を授与されている。

5月31日 北京で日中文化交流協会創立45周年と
国立中国交響楽団創立45周年記念「團伊久磨作品音楽会」は
追悼の意味を込めて予定通りに開催された。
弦楽合奏曲「二泉映月
オペラ「夕鶴」より わたしの大事な与ひょう さようなら
オペラ「楊貴妃」より 待つことはうれしいこと
管弦楽組曲「シルクロード」
管弦楽幻想曲「飛天繚乱」
交響幻想曲「万里長城」が演奏された。

オペラ「夕鶴」は日本初の本格的オペラとして世界を舞台に
650回も上演され絶賛されています。
こういう「国民的オペラ」をもっていることは日本人にとって
実に幸せなことです。

團伊玖磨さん(作曲家 文化功労者 日本芸術院会員)は
1924 大正13年4月7日 東京生れ 昭和20年に東京音楽学校
(現芸大)作曲科卒業 花の街 ぞうさんなど作曲。
昭和27年に美幌高校校歌(現美幌農業高校) NHK第2体操。
昭和28年に歌劇「夕鶴」で毎日音楽賞・伊庭歌劇賞・山田耕筰賞
戦後の山田耕筰と称される。
音楽家としての活躍のほか類い稀なエッセイストとしても知られ
多くの著作があり 随筆「パイプのけむり」は27巻 読売文化賞受賞。

楊晶・李建華 翻訳:中国版「煙斗随筆(パイプのけむり)」が世界一
美しい本になりました。

 私は この「町歌と校歌」を團伊玖磨さんに書いてほしいと願っていた
あの人は パイプのけむりとともに消えた…。

6月4日 美幌農業高校で「團伊玖磨氏追悼集会」開催
校歌誕生と逝去について校長のお話し 黙祷 校歌斉唱
なつかしの校歌です 團伊玖磨(28才の青年)がのこした
清らかな広い心のメロディーが校舎中に響きわたった…。

6月31日 葬儀・告別式
美幌農業高校全校集会のVTR(村上博さん撮影)と
校歌楽譜、美幌新聞と北海道新聞の記事を
ご遺族に送呈した。

弔意
世代(心)を受け継ぎ
時代(平和)をつくる

 

旧校舎(昭和40年)

 

美幌高校吹奏楽部 昭和38~41年当時の美高文化祭
現在は北海道美幌農業高等学校

美幌町の町歌と校歌について(4)

  武満徹   團伊玖磨   早崎日出太「團伊玖磨全仕事」

1887 明治20年
    美幌町元町に「美幌外五ヵ村戸長役場」設置
    美幌のはじまり(10月12日)

1907 明治40 年
美幌町市街地の青年たち(モダンボーイ)が大太鼓・小太鼓・
横笛・手風琴などを集めて楽団をつくる
美幌吹奏楽団公式サイト Bihoro wind orchestra
北見地区吹奏楽連盟 Okhotsk area,Kitmi Band Association

左2番目 小泉美政さん(草競馬の騎手)我が同級生の祖父

1915 大正4年
    二級村制度を施行
    美幌村となる
    昇格祝いに旗行列の歌を募集
    『開基三十年の歌』とした(作詞作曲者は不明)

1916 大正5年
    美幌町の市街地に電話開通

1917 大正6年
    美幌町の市街地に電気開通

1919 大正8年
    津別村を分村

1920 大正9年
    第一回国勢調査
    『ちょうちん行列の歌』(収集できていない)
    美英尋常小学校開校(7月1日)
    当時の美幌尋常高等小学校の第二小学校として創設した
    昭和16年に美英国民学校と改称した
    美幌中学校の前進校である
    『美英尋常小学校応援歌』

大正9年当時の美幌雅楽アンサンブル

1923 大正12年
    美幌町となる
    『一級町村制定を祝う歌』

1925 大正14年
    美幌町でラジオ聞こえる

1936 昭和11年
    美幌小学校にピアノ寄贈

1937 昭和12年
    開基五十年記念歌『美幌町町歌』
    大塚郷湖作詞 須藤五郎作曲 塩まさる唄
    録音テープあり
    『美幌小唄』
    大塚郷湖作詞 須藤五郎作曲
    『開基五十年祭祝賀歌』
    作詞は公募一位の宇佐美康二
    曲は神風声援歌の節

1939 昭和14年
    『美幌観光音頭』
    大塚郷湖作詞 松田喜一作曲 美ち奴唄
    美幌観光協会の依頼 帝蓄レコード
    当時、昭和12年制作の『美幌小唄 二』として伝わっていたもの
    東陽小学校などの校歌作詞の大塚盈と
    開基六十六年作成『美幌音頭』の入選者 沖悠三郎、
    そして『美幌小唄』の作詞者大塚郷湖は同一人である
    大塚氏は短歌をつくるときは「郷湖」
    たのまれた作詞は「盈(みつる)」
    ペンネームは「沖悠三郎」と使いわけていたらしい
    大塚氏は美幌の歌を数多く作り
    昭和56年5月4日死去する直前の
    『美幌医師会付属准看護学院 学院歌(さみどりの)』が遺作となった
    美幌農林学校開校『美幌農林学校校歌』星勇作詞作曲
    『第一応援歌・第二応援歌』『わが報徳寮』

1944 昭和19年
    筧潤二ピアノ独奏会(美幌小学校講堂)
    東京でも名の知れていた海軍航空隊付属美幌病院医師、
    美幌町で藁科雅美(音楽評論家)と再会する。慶應大学医学部 

1945 昭和20年
    藁科雅美(30歳) みつゑ夫人(ピアニスト) 一男一女が美幌に疎開する
    国立高等音楽学校(現国立音大)出身のみつゑ夫人は
    高等女学校で音楽を指導
    慶應大学医学部中退の藁科は理科など六教科を教えた
    「授業より畑仕事の監督が多く生徒に植物の芽を見て
    種類を教えてもらった
    英語が話せるからと進駐軍の隊長付き通訳として
    即日強制徴用」
    「その当時、個人的に英語を教えた生徒に
    文化人類学者となった山口昌男がいる」
    藁科は東京からSPレコードを貨車に一台持ってきていた
    「どうして知ったのか配属されて来た学徒の
    特攻隊員の何人かが訪ねて来て
    わずかの休憩時間かわるがわるバッハや
    ベートーベンの作品に耳を傾け
    感謝のまなざしを私に向けて帰隊していった」
    「NHK北見放送局から合唱やレコードを放送したり
    レコードコンサートではまだレコード会社が
    復興していない時期だったから自分のSPをかけた
    歓迎されて網走・釧路・旭川・小樽などからも呼ばれた」
    「そのSPは東京に戻るとき網走の奥谷という
    網元の息子に引き取ってもらった」
    「その奥谷が後に東京に出るとき
    自分のコレクションも加えて網走市立図書館に寄贈
    図書館によれば昭和43年の寄贈で全部で
    1113番まで番号が振られているとのことである
    聴く人もなしに眠っているようだ」

1946 昭和21年
    美幌文化協会創立
    音楽部長 藁科雅美(美幌レコード鑑賞会)
    藁科みつゑ(ドンコロ児童合唱団・漣女声合唱団)

美幌町の町歌と校歌について(5)

  武満徹   團伊玖磨   早崎日出太「團伊玖磨全仕事」

1947 昭和22年
    美幌国立療養所開設

1950 昭和25年
    藁科雅美は戦後いち早く「北海道音楽」という
    北海道全土の音楽を結ぶ報道評論誌を創刊した
    (日本近代音楽館・道立図書館に寄託されている)
    内容は荒谷正雄・小林健次・伊福部昭
    早坂文雄などの地方出身の音楽家、
    チェロの鈴木聡・バイオリンの巖本真理
    来道音楽家の写真や演奏会評、
    道内各地の音楽状況報告、新譜紹介、インタビュー、
    作曲募集など多彩な編集である
    『第一回美幌町文化賞』受賞

1951 昭和26年
    藁科雅美と藁科みつゑは戦後
    美幌高校と網走南ヶ丘高校の時間嘱託も勤めたが
    日本の民間放送局で最も早く放送を始めた
    新日本放送(毎日放送)東京支社詰めの
    音楽ディレクターとして同年の秋に離町した
    「私たち家族にとって終生忘れ難い多数の人々の
    心暖かい見送りを受けて美幌の町を後にしたのだが
    その6年間の思い出は絶大である
    美幌の豊かな自然の中で私たちの子供が
    すこやかに育ってくれたことも
    それが戦後の混乱期であっただけに
    ことさら感謝したい気持ちである
    正直言って美幌時代の私は文化の中心地である
    東京が忘れられず、もしもここで死んだら
    遺骨を東京の空からばら散いてほしい
    と妻に頼んだような欲求不満と焦燥感にさいなまれた
    しかし、今の私には冬の寒さが厳しい
    美幌を第二の故郷と思う懐かしさだけが残っている」
    当時藁科氏(36)の住居は鎌倉市
    近所に早坂文雄氏(37)と團伊玖磨氏(27)が居た…
    後に團伊玖磨氏は東京で病に苦しんでいた
    武満夫妻に空気の良い鎌倉で療養しないかと
    自宅を提供して横須賀市に移った

1952 昭和27年
    『北海道美幌農業高等学校校歌』制定
    (当時は北海道美幌高等学校)
    美幌高校から校歌作曲の依頼を受けた藁科氏は
    團伊玖磨氏を紹介

昭和40年の写真
(作詞の美幌高校教諭 川上忠雄氏は前列右から4番目)

1953 昭和28年
    『美幌町町歌』制定
    美幌町から町歌作曲の依頼を受けた藁科氏は
    早坂文雄氏を介して武満徹氏(22)を紹介した
    美幌国立療養所歌または准看護学校歌の作曲を
    湯浅譲二氏(23)を紹介した
    開基六十六年(町制施行三十周年記念)町歌募集委員会は
    奥山東陽小学校長の指揮で合唱団によって
    町のテープレコードに吹き込み
    8月25日役場委員室で初の視聴会を開いた
    後に東京からテープレコードが届く
    松田トシ唄(ピアノ伴奏)
    作詞は大下孝一氏(39歳 美幌郵便局
    一般公募で採用された 一等採用分は5,000円)
    その後町歌は昭和42年の開基八十年のときに
    美幌の歌『風はみどりに』を日本コロンビアに発注した折りに
    同時に美幌町歌再版としてオーケストラ伴奏による編曲
    ならびに歌手三鷹淳の歌で作成した
    昭和44年4月から毎日、役場庁舎塔屋のオルゴールから
    町歌のメロディーが流れ町民に親しまれた

 

 

武満徹(65 死去)
1930 昭和5年10月8日〜
1996 平成8年2月20日

團伊玖磨(77 死去)
1924 大正13年4月7日〜
2001 平成13年5月17日

町や町民、学校は一度でも
武満徹さん、團伊玖磨さんを
地元に招待すべきだった…

湯浅譲二
1929 昭和4年8月4日〜
ご健在 活躍中

2004 平成16年1月31日 記
文責 加藤雅夫
1947 昭和22年9月3日〜
健在(低肺低視力)活躍中…

☆ 武満徹への捧げもの Tribute to Toru Takemitsu.
2008.2.20 平成20年2月20日 
武満徹(昭和5年10月8日生~平成8年2月20日没)12周年追悼
Toru Takemitsu (10.8.1930-2.20.1996) Modern composer
12 anniversary of someone’s death.
武満徹・あの人に会いたい・武満眞樹 Toru Takemitsu-Maki Takemitsu
武満徹が残したものは・立花隆 Tribute to Toru Takemitsu 
 
武満徹・ラストTV Toru Takemitsu, the last TV appearance
武満徹・ドキュメンタリー Toru Takemitsu documentary
武満徹・ワルツ・小澤征爾 Toru Takemitsu-Seiji Ozawa
武満徹・夢千代日記・吉永小百合 Toru Taemitsu-Sauri Yoshinaga 
武満徹・島へ・AJChoir Toru Takemitsu-AJChoir-Shima E(To the island)  

武満徹・美幌町ソング Toru Takemitsu-Bihoro Song

このページの先頭へ戻る

このページの先頭へ戻る