第二次世界大戦 の検索結果: 67 件

奉迎 天皇皇后両陛下御来町(北海道網走郡美幌町)


奉迎 天皇皇后両陛下御来町(北海道網走郡美幌町)

美幌町立美幌小学校の一年生の私は、最前列で日の丸の旗を振って歓迎した。

関連記事

千載一遇の歓喜 豊田町長謹話 町民と共に奉迎 / 十三日天皇、皇后 両陛下の御来町に当たり、豊田町長は十一日次のように謹話を述べている。 天皇、皇后両陛下におかせられましては終戦後はじめて北海道御巡幸を遊ばされることになり八月十三日函館に御上陸、広く道内各地の産業、経済、民情を御観察なさいますが幸いに八月十三日美幌駅前奉迎場に両陛下お揃いで御立寄り戴くことになりましたことは無上の光栄であり感激を深く致している次第でございます。千載一遇とも申すべきこの歓喜を二万五千町民ならびに近隣町村の住民と共に心から御奉迎申し上げ、かつ無事に行幸啓を終えさせられて御還幸なさいますようにお祈り致します。 (1954年(昭和29年)8月11日 美幌新聞 発行人 大庭不二雄)

両陛下奉迎台に立つ とどろく万歳と旗の波 / 天皇、皇后両陛下御来町の十三日は測候所の天気予報をつがえして、いんうつな雨模様はあとかたなく消え去り、満天の青空という絶好の日和に恵まれ、町内は早朝から日の丸の旗に彩られ、駅前奉迎場には午前七時ころから歓迎者が続々とつめかけ、午前九時三十分ごろは千五百坪の広場も沿道も押し寄せた人波で身動きもできないほどであった。 定刻午前十時九分お召し列車が第二ホームに御到着と同時にお祝いの花火が高々と打ち上げられ、木下美幌駅長先行船津旭鉄管理局長御先導で駅正面玄関お姿をみせ林津別町長の御案内で奉迎台にお上りになった両陛下のお顔は長旅の御視察に日焼けが目立つほどであった。とりわけ皇后様にはきょうまで御風邪を召され御安否が気づかっていただけに奉迎者に安ど感を與えるいとまなく自衛隊美幌部隊の音楽隊が奏でる「君が代」斉唱に両陛下は微動もせずお立ちになり、豊田美幌町長の発唱による万歳三唱、これに和する一万数千の奉迎者がのどもさけよとばかりの万歳とちぎれるばかり打ち振る小旗に天皇はカンカン帽を三度、四度振られて応えられ、また皇后もにこやかに御会釈され、午前十時十七分花火の合図とともに美幌駅を離れられたが、両陛下は車窓にお立ちになり奉迎者の歓送するなかを網走市へ向かわれた。 (1954年(昭和29年)8月14日 美幌新聞 発行人 大庭不二雄)

昭和天皇 日本の第124代天皇 / 昭和天皇(しょうわてんのう、1901年〈明治34年〉4月29日 – 1989年〈昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇(在位:1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日 – 1989年〈昭和64年〉1月7日)。諱は裕仁(ひろひと)、称号は迪宮(みちのみや)。お印は若竹(わかたけ)。 第二次世界大戦前に即位し、日本が復興するまで60年余りに亘って在位し、帝国憲法に定められた「統治権の総攬者(そうらんしゃ)=立憲君主」としての天皇と日本国憲法に定められた「象徴天皇」の両方を経験した。 (昭和天皇 – Wikipedia)

香淳皇后 日本の女性皇族 / 香淳皇后(こうじゅんこうごう、1903年〈明治36年〉3月6日 – 2000年〈平成12年〉6月16日)は、日本の第124代天皇・昭和天皇の皇后(在位:1926年〈昭和元年〉12月25日 – 1989年〈昭和64年〉1月7日)。諱は良子(ながこ)。お印は桃。 (香淳皇后 – Wikipedia)

関連エントリ

天皇家の皆さま方と美幌峠(美幌町) – 美幌音楽人 加藤雅夫

Twitter ツイッター

bihorokato_icon4.jpg

600px-Japanese_crest_Hikone_Tahibana.svg.png

加藤 雅夫 (@bihorokato) | Twitter

Facebook フェイスブック

275257_100004368631176_1138034801_n.jpg

img_index02.jpg

加藤 雅夫 | Facebook

Masao Kato – Facebook

このページの先頭へ戻る

両陛下を御歓迎 近衛一連隊が懐かしい 津別町長 林利博


両陛下を御歓迎 近衛一連隊が懐かしい 津別町長 林利博

美幌町立美幌小学校の一年生の私は、最前列で日の丸の旗を振って歓迎した。

関連記事

両陛下を御歓迎 近衛一連隊が懐かしい 津別町長 林利博 / 天皇陛下を御尊敬申し上ぐる心情は新憲法で日本の象徴としてのそれもあるが私には特に深い感激が二つある。それはあの悪寒を覚ゆる大東亜戦争終戦の八月中旬、大本営で行われた大東亜戦を続けるか終戦にするかの最高会議が幾日も繰り返された時であった。 勿論、戦争継続を主張して決戦を強調するものは当時幕府的存在であった軍部である。これに対し近衛公外が終戦論であった。この二大主張に対し陛下が国家と国民にこれ以上の犠牲を払わす事は堪えられぬとして断乎終戦を御宣言され軍部側から熱烈な御再考方を奏上されても御決意を変えられず終戦を御決定されたことである当時の言語に絶する難局に処し てあの御明断をお貫きされた懸命の御裁断に私の感激の一つである。 今一つはこれも終戦後初めて占領軍総司令官マッカーサー将軍を御訪問になったのことである。あの当日天皇陛下とマッカーサー司令官が撮された写真を見て今でも忘れられぬのである。 その御会見の時、陛下がマッカーサー司令官に話された話の中でこの大東亜戦争の責任は、この天皇にあり、このことを罪にするなら自分をされたい国民には罪がないという意味のことを強く申されたとのことである。 マッカーサーもそれからは非常に天皇を尊敬し且つその御真実には打たれた由である。初め御迎えにも出なかったのに御迎車の時は玄関まで御見送りしたとのことである。このことを当時東京に在住していた私が消息通からその事実を聞かされた時に私は深く感激したのでそれ以来は心から私は天皇の愛国愛民の御真実と民族への責任感の程が憲法にある象徴以上に身にしみて御尊敬申上ぐる気持ちである。 それに今一つ遠い思出であるが天皇陛下が未だ皇太子であられた大正六年私は近衛一連隊に在隊したことである。その頃皇太子殿下は御年十七、八才であられたが陸軍大尉の御階級で私と同じ連隊であられたので毎月一回は必ず連隊にお出になられた。また私共が東宮御所守備の時等は当時学問所総裁の東郷元帥が御陪乗して御門の御出入をされたが、私共がする部隊の敬礼に対し御答礼の御様子等数々の思い出が誠にお懐かしいものである。 またそのころに皇后様の御父君であられた故久にの宮さんが私共の旅団長であり当時其指揮で部隊活動をした事も今は遠い思い出である。過ぎし昭和十一年秋、大演習の際、奉仕北大での恩寵杯や、二千六百年に宮城前広場での盛大な式典に参列したあの偉観も今は昔の思い出である。今や人間天皇とし全国民に親しまれても時勢の変遷は激しいのであるが人間の真実性と大和民族の正義感とは決して変わるものではない、現に私は新しい時代感覚で天皇に対し強い尊敬と深い親しみを持っている。 心から両陛下の北方の巡路の御平安を祈って止まぬ。 (1954年(昭和29年)8月11日 美幌新聞 発行人 大庭不二雄)

両陛下奉迎台に立つ とどろく万歳と旗の波 / 天皇、皇后両陛下御来町の十三日は測候所の天気予報をつがえして、いんうつな雨模様はあとかたなく消え去り、満天の青空という絶好の日和に恵まれ、町内は早朝から日の丸の旗に彩られ、駅前奉迎場には午前七時ころから歓迎者が続々とつめかけ、午前九時三十分ごろは千五百坪の広場も沿道も押し寄せた人波で身動きもできないほどであった。 定刻午前十時九分お召し列車が第二ホームに御到着と同時にお祝いの花火が高々と打ち上げられ、木下美幌駅長先行船津旭鉄管理局長御先導で駅正面玄関お姿をみせ林津別町長の御案内で奉迎台にお上りになった両陛下のお顔は長旅の御視察に日焼けが目立つほどであった。とりわけ皇后様にはきょうまで御風邪を召され御安否が気づかっていただけに奉迎者に安ど感を與えるいとまなく自衛隊美幌部隊の音楽隊が奏でる「君が代」斉唱に両陛下は微動もせずお立ちになり、豊田美幌町長の発唱による万歳三唱、これに和する一万数千の奉迎者がのどもさけよとばかりの万歳とちぎれるばかり打ち振る小旗に天皇はカンカン帽を三度、四度振られて応えられ、また皇后もにこやかに御会釈され、午前十時十七分花火の合図とともに美幌駅を離れられたが、両陛下は車窓にお立ちになり奉迎者の歓送するなかを網走市へ向かわれた。 (1954年(昭和29年)8月14日 美幌新聞 発行人 大庭不二雄)

近衛師団 大日本帝国陸軍の師団 / 近衛師団(このえしだん、正字体:近衞師團)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。一般師団とは異なり、最精鋭かつ最古参の部隊(軍隊)として天皇と宮城(皇居)を警衛する「禁闕守護」(きんけつしゅご)の責を果たし、また儀仗部隊として「鳳輦供奉」(ほうれんぐぶ)の任にもあたった。 帝国陸軍における軍隊符号はGD(一般師団はD)。太平洋戦争中後期には編制の改編が行われ、最終的には近衛第1師団 (1GD)・近衛第2師団 (2GD)・近衛第3師団 (3GD) の3個近衛師団が編成された。 (近衛師団 – Wikipedia)

昭和天皇 日本の第124代天皇 / 昭和天皇(しょうわてんのう、1901年〈明治34年〉4月29日 – 1989年〈昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇(在位:1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日 – 1989年〈昭和64年〉1月7日)。諱は裕仁(ひろひと)、称号は迪宮(みちのみや)。お印は若竹(わかたけ)。 第二次世界大戦前に即位し、日本が復興するまで60年余りに亘って在位し、帝国憲法に定められた「統治権の総攬者(そうらんしゃ)=立憲君主」としての天皇と日本国憲法に定められた「象徴天皇」の両方を経験した。 (昭和天皇 – Wikipedia)

香淳皇后 日本の女性皇族 / 香淳皇后(こうじゅんこうごう、1903年〈明治36年〉3月6日 – 2000年〈平成12年〉6月16日)は、日本の第124代天皇・昭和天皇の皇后(在位:1926年〈昭和元年〉12月25日 – 1989年〈昭和64年〉1月7日)。諱は良子(ながこ)。お印は桃。 (香淳皇后 – Wikipedia)

関連エントリ

天皇家の皆さま方と美幌峠(美幌町) – 美幌音楽人 加藤雅夫

ツイッター (Twitter)

bihorokato_icon4.jpg

600px-Japanese_crest_Hikone_Tahibana.svg.png

加藤 雅夫 (@bihorokato) | Twitter

フェイスブック (Facebook)

275257_100004368631176_1138034801_n.jpg

img_index02.jpg

加藤 雅夫 | Facebook

Masao Kato – Facebook

このページの先頭へ戻る

心曲 李香蘭・山口淑子

心曲 李香蘭・山口淑子

Li Xianglan – Heart Song ( Eternally ) 李香兰-心曲 1957

関連記事

山口 淑子(やまぐち よしこ、1920年(大正9年)2月12日 – 2014年(平成26年)9月7日[1])は、日本の歌手、女優、政治家である。戸籍名は大鷹淑子(旧姓:山口)。 さまざまな名前で活動し、戦前の中国(中華民国)と満州国・日本・戦後の香港で李 香蘭(り こうらん、リ・シャンラン)、第二次世界大戦後のアメリカ合衆国ではシャーリー・ヤマグチ (Shirley Yamaguchi) の名で映画、歌などに活躍した。日本の敗戦を上海で迎えた彼女は、中国人として祖国を裏切った漢奸の容疑で中華民國の軍事裁判に掛けられたものの、日本人であることが証明され、漢奸罪は適用されず、国外追放処分となり、日本に帰国した。 帰国後は、旧姓(当時の本名)・山口淑子の名前で芸能活動を再開し、日本はもとより、アメリカや香港の映画・ショービジネス界で活躍をしたが、1958年(昭和33年)に結婚のため芸能界を退いた。そして1969年(昭和44年)にフジテレビのワイドショー『3時のあなた』の司会者としてマスメディア界に復帰、1974年(昭和49年)3月まで務めた。後に1974年(昭和49年)から1992年(平成4年)までの18年間は、参議院議員をも務めた。2006年に日本チャップリン協会(大野裕之会長)の名誉顧問に就いた。 楽曲 / 心曲(チャップリンの映画『ライムライト』主題曲「エタナリー(テリーのテーマ)」) (山口淑子 – Wikipedia)

関連エントリ

山口淑子 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

李香蘭 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

心曲 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

ツイッター (Twitter)

bihorokato_icon4.jpg

600px-Japanese_crest_Hikone_Tahibana.svg.png

加藤 雅夫 (@bihorokato) | Twitter

フェイスブック (Facebook)

275257_100004368631176_1138034801_n.jpg

img_index02.jpg

加藤 雅夫 | Facebook

Masao Kato – Facebook

このページの先頭へ戻る

11月23日の記念日 勤労感謝の日 (日本の国民の祝日)

11月23日の記念日 勤労感謝の日 (日本の国民の祝日)

関連記事

勤労感謝の日 日本の国民の祝日 / 勤労感謝の日(きんろうかんしゃのひ)は、日本の国民の祝日の一つである。日付は11月23日。昭和時代、令和時代はこの祝日が1年で最後の祝日にあたる。 概要 / 勤労感謝の日は、国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」ことを趣旨としている。1948年(昭和23年)に公布・施行された同法により制定された。 農業国家である日本は、古くから神々に五穀の収穫を祝う風習があった。また、その年の収穫物は国家としてもそれからの一年を養う大切な蓄えとなることから、収穫物に感謝する大事な行事として飛鳥時代の皇極天皇の時代に始まった新嘗祭(にいなめさい、しんじょうさい)の日が第二次世界大戦後のGHQの占領政策によって天皇行事・国事行為から切り離される形で改められたものが「勤労感謝の日」である。 (勤労感謝の日と新嘗祭 | 暮らし歳時記

関連エントリ

勤労感謝の日 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

ツイッター (Twitter)

bihorokato_icon4.jpg

600px-Japanese_crest_Hikone_Tahibana.svg.png

加藤 雅夫 (@bihorokato) | Twitter

フェイスブック (Facebook)

275257_100004368631176_1138034801_n.jpg

img_index02.jpg

加藤 雅夫 | Facebook

Masao Kato – Facebook

このページの先頭へ戻る

ロシアの電子楽器 テルミン

ロシアの電子楽器 テルミン

8月28日 テルミンの日 (Theremin Day)

関連記事

テルミン(ロシア語:Терменвоксチルミンヴォークス)は、1919年にロシアの発明家レフ・セルゲーエヴィチ・テルミンが発明した世界初の電子楽器である。ロシア語や英語では「テルミンの声」という意味のテルミンヴォクス(Терменвокс;Thereminvox)とも呼ばれる。英語ではThereminあるいはTheraminとつづられる。これは発明者が用いたフランス語風の表記に由来しており、「テレミン」もしくは「セレミン」のように発音される。音楽書では「テレミン」の表記が長く用いられていたが、2000年ごろから竹内正実などにより「テルミン」との表記が行われるようになり、2001年公開の同名の映画によってもこの表記が広まった。 テルミンの原理と特徴 / テルミンの最大の特徴は、テルミン本体に手を接触させず、空間中の手の位置によって音高と音量を調節することである。 テルミンの歴史 / 第二次世界大戦後にはテルミンは次第に忘れ去られた。1960年代以降はモーグ・シンセサイザーなど新たな電子楽器の登場もあってテルミンの忘却に拍車をかけた。その一方で、アルフレッド・ヒッチコック監督の1945年のサイコスリラー『白い恐怖』、ロバート・ワイズ監督の1951年のSF映画『地球の静止する日』など、恐怖映画やSF映画の音楽に不安定なテルミンが起用されている。ソ連では1935年のSF映画『機械人間 感覚の喪失(ロシア語版)』でロボットを操縦するギミックとしてテルミンは登場している。また後述するようにレッド・ツェッペリンによる使用などで、効果音を出す装置としてテルミンは使われ続けた。 1990年代以降、テルミンは再び見直されモーグによりテルミン製造が再開された。テルミン博士の生涯を描いたドキュメンタリー映画の公開、プロやアマチュアによる演奏の機会の増加、様々な形態のテルミンの製造販売などテルミンは静かに広まり続けている。日本でも人気があり、日本人奏者による独自の進化を遂げてきた。2014年には、テルミン奏者の川口淳史によりテルミンの誕生日である8月28日を「テルミンの日」として申請がなされ、日本記念日協会に承認された。 テルミンを使った音楽 / テルミン専門の演奏家は数少ないものの、熱心な愛好者が存在する。シンセサイザーのパイオニアであるモーグ社でもテルミンを開発・販売を行っている。 ポピュラー音楽では、トッド・ラングレンやマーキュリー・レヴ、コーネリアス(小山田圭吾)、高野寛、今井寿などのミュージシャンにもしばしば利用されている。また、レッド・ツェッペリンの「胸いっぱいの愛を」の間奏で使われている。ビーチ・ボーイズの「グッド・ヴァイブレーション」で使われたテルミンの音のような楽器は、ポール・タナーにより作られた「エレクトロテルミン(タナリンとも)」である。また、菊池俊輔は『仮面ライダー』などのTV番組の楽曲にテルミンを使用している。 クラシック音楽での使用例は多くないが、この楽器を用いた初期の例としてエドガー・ヴァレーズの「エクアトリアル」(実用度の高いオンド・マルトノで代用される場合が多い)、チャールズ・アイヴズの「交響曲第4番」、パーシー・グレインジャーの「フリーミュージック第1番」(4つのテルミンのための)、「フリーミュージック第2番」(6つのテルミンのための)、アニス・フレイハンの「テルミン協奏曲」などが挙げられる。 アルバム『電子音』は中村八大、冨田勲のカバーを中心に、モーグ社製Etherwave Theremin Proの音色制作者のひとりでもある井伊英理が日米で発表。モーグ・テルミンとモーグ・シンセサイザーだけで制作された。この作品はCDに加えて、テルミン楽曲として世界初となる着うたでの配信も行なわれている。 著名なテルミン演奏家 / 竹内正実(1967年 – 、日本) やの雪(同) 生方ノリタカ クララ・ロックモア リディア・カヴィナ(ロシア) (テルミン – Wikipedia

関連サイト

ロシア人形の形した電子楽器「マトリョミン」でギネスに挑戦 | NHKニュース

関連エントリ

テルミン の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

Терменвокс の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

Theremin の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

ツイッター (Twitter)

bihorokato_icon4.jpg

600px-Japanese_crest_Hikone_Tahibana.svg.png

加藤 雅夫 (@bihorokato) | Twitter

フェイスブック (Facebook)

275257_100004368631176_1138034801_n.jpg

img_index02.jpg

加藤 雅夫 | Facebook

Masao Kato – Facebook

このページの先頭へ戻る

国立療養所美幌病院について (北海道美幌町)

国立療養所美幌病院について (北海道美幌町)

1947年(昭和22年) 国立療養所美幌病院の開設。建物は、日本海軍・美幌海軍航空隊の建物。この年は、美幌音楽人 加藤雅夫が誕生。

1972年(昭和47年) 国立療養所美幌病院で慰問演奏会開催。小林啓一郎指揮 クシロマンドリンクラブ(北海道釧路市)。美幌ギター愛好会(美幌マンドリンクラブ、美幌ギター・マンドリン協会、オホーツクマンドリンアンサンブル)。美幌音楽人 加藤雅夫(25歳)。慰問コンサート終了後の1か月後に風邪をこじらせて国立療養所美幌病院の一般病棟に入院。入院患者たちは「あなた、この間、慰問演奏に来た人ですね、今度は入院しに来たの? ギターを持ってきたの?」私は「はい、ギター・マンドリンを持ってきました」。

国立療養所美幌病院には15年・20年の長期の入院患者たちがいました。国立療養所美幌病院附属の看護学校・准看護学校があり数十人の学生がいました。学生たちは、美幌高等学校定時制に通っていました。毎日、皆さんのためにギターを演奏しました。学生たちは、退院後にギター・マンドリンを習いに来てくれました。

関連記事

国立病院・国立療養所の一覧 ウィキメディアの一覧記事 / 日本の国立病院・国立療養所の一覧(こくりつびょういん・こくりつりょうようじょのいちらん)を下に示す。 北海道 / 国立療養所美幌病院(美幌町)2005年3月1日、経営移譲し美幌療育病院が開院した。 (国立病院・国立療養所の一覧 – Wikipedia)

国立療養所 ウィキメディアの曖昧さ回避ページ / 国立療養所(こくりつりょうようしょ)は、第二次世界大戦後に設置された長期入院患者向けの国立医療施設である。 1945年、50傷痍軍人療養所(結核36・精神3・脊髄1・温泉10)が厚生省に所管替えとなり、1947年には95結核療養所が日本医療団から厚生省に移管されて、国立療養所の体系が形成された。厚生省(のち厚生労働省)の附属機関(のち施設等機関)に位置づけられ、医療の専門化高度化に伴い整備・再編が進められた。2004年、独立行政法人化により多くが国立病院機構に改編された。 (国立療養所 – Wikipedia)

関連サイト

施設案内(病院の概要) – 美幌療育病院のホームページ

【美幌駐屯地】 陸上自衛隊 第5旅団ホームページ – 防衛省・自衛隊

関連エントリ

国立療養所美幌病院 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

美幌海軍航空隊 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

ツイッター (Twitter)

bihorokato_icon4.jpg

600px-Japanese_crest_Hikone_Tahibana.svg.png

加藤 雅夫 (@bihorokato) | Twitter

フェイスブック (Facebook)

275257_100004368631176_1138034801_n.jpg

img_index02.jpg

加藤 雅夫 | Facebook

Masao Kato – Facebook

このページの先頭へ戻る

1964年(昭和39年)9月30日 日本の宮家 常陸宮家創設

Japanese_Crest_of_Hitachi_no_miya_svg

1964年(昭和39年)9月30日 日本の宮家 常陸宮家創設

関連記事

常陸宮(ひたちのみや)は、日本の宮家(直宮家)。昭和天皇の第二皇男子で明仁(上皇)の弟、正仁親王の宮号。 概要 / 1964年(昭和39年)9月30日、正仁親王と津軽華子との結婚により創設された。第二次世界大戦後、かつ、現行の皇室典範下で設けられた最初の宮家である。 宮号の由来は、常陸国(現在の茨城県)が、太古から江戸時代末期まで親王が国司となる親王任国であったことである。 宮邸は東京都渋谷区東で、現存する宮家の中で唯一、赤坂御用地(東京都港区元赤坂)以外にある。 (常陸宮 – Wikipedia)

常陸宮 正仁親王(ひたちのみや まさひとしんのう、1935年〈昭和10年〉11月28日 – )は、日本の皇族。昭和天皇と香淳皇后の第2皇男子(第6子)。称号は義宮(よしのみや)、お印は黄心樹(おがたま)。身位は親王。皇室典範における敬称は殿下。勲等は大勲位。 徳仁(今上天皇)・秋篠宮文仁親王(皇嗣)・黒田清子(清子内親王)の皇叔父。明仁(上皇)の皇弟。 2019年(令和元年)5月1日時点での皇位継承順位は第3位で、最年長の皇位継承資格者である。 (常陸宮正仁親王 – Wikipedia)

正仁親王妃華子(まさひとしんのうひ はなこ、1940年〈昭和15年〉7月19日 – )は、日本の皇族。元華族。常陸宮正仁親王の妃。津軽義孝伯爵令嬢。身位は親王妃(常陸宮妃)。皇室典範における敬称は殿下。お印は石南花(しゃくなげ)。勲等は勲一等宝冠章。旧名は津軽 華子(つがるはなこ)。 1940年代の津軽伯爵家。左から実枝子、明子、久子伯爵夫人、華子。戦後皇室に嫁いだ妃の中で唯一の旧華族家出身者である。 宮邸は、東京都渋谷区東にある常盤松御用邸。 (正仁親王妃華子 – Wikipedia)

関連サイト

常陸宮家 – 宮内庁ホームページ

常陸宮家のご活動 – 宮内庁ホームページ

関連エントリ

天皇家の皆さま方と美幌峠(美幌町) – 美幌音楽人 加藤雅夫

日本の皇室のご活動・ニュース (令和元年 秋) – 美幌音楽人 加藤雅夫

常陸宮家 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

ツイッター (Twitter)

bihorokato_icon4.jpg

600px-Japanese_crest_Hikone_Tahibana.svg.png

加藤 雅夫 (@bihorokato) | Twitter

フェイスブック (Facebook)

275257_100004368631176_1138034801_n.jpg

img_index02.jpg

加藤 雅夫 | Facebook

Masao Kato – Facebook

このページの先頭へ戻る

日本の総合芸術グループ・芸術家グループ 実験工房

日本の総合芸術グループ・芸術家グループ 実験工房

関連記事

実験工房(じっけんこうぼう)は、詩人の瀧口修造の下にさまざまな分野の若手芸術家約14人が集まって結成された総合芸術グループ。命名は瀧口による。活動期間は1951年から1957年まで。ただし、正式な解散はしていない。第二次世界大戦後の前衛芸術運動にて先駆的な功績を残した。 瀧口を顧問格として、それぞれの友人知人関係が連携して出来上がったグループだが、結果としては皆が反アカデミックで前衛的な気質を持っていた。 活動 / 様々な芸術ジャンルで活動するメンバーによる集団であり、その活動もジャンルを越境したものであった。 最初期の活動として、作曲・装置・衣装を担当した創作バレエ「生きる悦び」の上演が挙げられる。音楽分野では作曲家の武満徹や湯浅譲二らの最初期の作品発表の場としても活動し、またアルノルト・シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」、オリヴィエ・メシアンの「前奏曲集」、「世の終わりのための四重奏曲」、「アーメンの幻影」などの日本初演も手がけた。特にメシアン作品の研究は実験工房の音楽関係メンバーに大きな影響を与えた。 フランス文学に関する関心も深く、瀧口修造がシュルレアリスムの日本における第一人者でありアンドレ・ブルトンと交流があったことをはじめ、秋山邦晴もフランス文学に造詣が深かったため、これらのフランス文学および芸術の研究は特に熱心だった。 1953年にはソニーの前身である東京通信工業から開発されたばかりのテープレコーダーおよびそれとスライドを連動させる教育用装置オートスライドを借りてきて、スライド写真の映像を伴うミュージックコンクレート作品を発表した。1956年にはテープ音楽(ミュージックコンクレート、電子音楽およびオートスライドも含む)のオーディションを主催した。 メンバー / 瀧口修造 詩人。グループのまとめ役。園田高弘 ピアニスト。福島秀子 美術家。福島和夫の姉。武満徹 作曲家。湯浅譲二 作曲家。鈴木博義 作曲家。佐藤慶次郎 作曲家。北代省三 美術家、写真家、造形作家。秋山邦晴 詩人、評論家(主に音楽)。山口勝弘 美術家。現在は環境芸術家を名乗る。駒井哲郎 版画家。福島和夫 作曲家。福島秀子の弟。今井直次 舞台照明、美術家。最も広く使われている集合写真の並び順による。この集合写真には園田高弘の右に夫人で作曲家の園田(西沢)春子も写っているが、実験工房のメンバーでは無かった。 (実験工房 – Wikipedia)

関連エントリ

美幌町の歌 (町歌と校歌) – 美幌音楽人 加藤雅夫

日本の作曲家 武満徹 (北海道美幌町町歌) – 美幌音楽人 加藤雅夫

実験工房 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

ツイッター (Twitter)

bihorokato_icon4.jpg

600px-Japanese_crest_Hikone_Tahibana.svg.png

加藤 雅夫 (@bihorokato) | Twitter

フェイスブック (Facebook)

275257_100004368631176_1138034801_n.jpg

img_index02.jpg

加藤 雅夫 | Facebook

Masao Kato – Facebook

このページの先頭へ戻る

2019年(令和元年) 終戦の日 (8月15日 日本)

448px-Noah_mosaic.jpg

2019年(令和元年) 終戦の日 (8月15日 日本)

関連記事

終戦の日(しゅうせんのひ)は、一般に1945年(昭和20年)の戦争が終結した日をさす。本項目では各国における第二次世界大戦の終結(終戦)を記念する日について解説する。 日本の終戦記念日 / 日本政府は、8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日(せんぼつしゃをついとうしへいわをきねんするひ)」とし、全国戦没者追悼式を主催している。一般にも同日は終戦記念日(しゅうせんきねんび)や終戦の日(しゅうせんのひ)と称され、政治団体・非営利団体(NPO)等による平和集会が開かれる。 (終戦の日 Wikipedia)

日本の降伏(にっぽんのこうふく、にほんのこうふく)とは、通常、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の日本による「ポツダム宣言」受諾(1945年8月14日)から降伏文書署名(1945年9月2日)に至るまでの過程を指す。以下、日本および日本の各占領地における経過を説明する。 (日本の降伏 – Wikipedia)

全国戦没者追悼式(ぜんこくせんぼつしゃついとうしき、英語: Memorial Ceremony for the War Dead)は、日本国政府の主催で1952年(昭和27年)以後行われる式典。1965年(昭和40年)以降は東京都千代田区の日本武道館で毎年8月15日に行われる、第二次世界大戦の日本人戦没者に対して宗教的に中立な形で行われる追悼式。 (全国戦没者追悼式 – Wikipedia)

関連サイト

戦没者慰霊(忘れてはならない4つの日) – 宮内庁ホームページ

終戦の玉音放送 – 宮内庁ホームページ

関連エントリ

戦時に動物園で動物処分 – 美幌音楽人 加藤雅夫

全国戦没者追悼式 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

日本の降伏 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

終戦の日 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

ツイッター (Twitter)

bihorokato_icon4.jpg

600px-Japanese_crest_Hikone_Tahibana.svg.png

加藤 雅夫 (@bihorokato) | Twitter

フェイスブック (Facebook)

275257_100004368631176_1138034801_n.jpg

img_index02.jpg

加藤 雅夫 | Facebook

Masao Kato – Facebook

このページの先頭へ戻る

日本への原子爆弾投下 (8月9日 長崎市)

Fat_man.jpg

日本への原子爆弾投下 (8月9日 長崎市)

関連記事

日本への原子爆弾投下(にほんへのげんしばくだんとうか)は、第二次世界大戦の末期に当たる1945年8月に、アメリカ軍が日本に投下した二発の原子爆弾による空爆である。人類史上初、なおかつ世界で唯一核兵器が実戦使用された例である。多方面な議論がなされているが人道的観点から言えば紛れもない人類史に残る虐殺である。 1945年8月6日に広島市に投下された原子爆弾については広島市への原子爆弾投下、1945年8月9日に長崎市に投下された原子爆弾については長崎市への原子爆弾投下をそれぞれ参照。 本稿ではこの2発の原子爆弾に併せて、投下されなかった3発目の原子爆弾について総論的に述べる。 (日本への原子爆弾投下 – Wikipedia)

長崎市への原子爆弾投下(ながさきしへのげんしばくだんとうか)では、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分に、アメリカ軍が日本の長崎県長崎市に対して投下した、人類史上実戦で使用された最後の核兵器である。 アメリカ合衆国連邦政府は、長崎市に投下した原子爆弾のコードネームを「ファットマン(Fat Man)」と名付けていた。正式名称はマーク3(Mk.3)核爆弾。(以下『原爆』と記す)に関する記述を行う。ファットマンの投下より、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼または全半壊した。 長崎県、長崎市を指す「長崎」が「ナガサキ」と片仮名表記される場合は、長崎市への原子爆弾投下に関する言及である。 (長崎市への原子爆弾投下 – Wikipedia)

関連サイト

8月9日 | 長崎 平和・原爆 – 長崎原爆資料館

関連エントリ

長崎市への原子爆弾投下 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

日本への原子爆弾投下 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

ツイッター (Twitter)

bihorokato_icon4.jpg

600px-Japanese_crest_Hikone_Tahibana.svg.png

加藤 雅夫 (@bihorokato) | Twitter

フェイスブック (Facebook)

275257_100004368631176_1138034801_n.jpg

img_index02.jpg

加藤 雅夫 | Facebook

Masao Kato – Facebook

このページの先頭へ戻る

このページの先頭へ戻る