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湯浅譲二 Joji Yuasa の検索結果: 6 件
日本のピアニスト 高橋アキ(Aki Takahashi)
日本のピアニスト 高橋アキ(Aki Takahashi)
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高橋アキ 日本のピアニスト / 高橋 アキ(たかはし あき、1944年9月6日 – )は、日本のピアニスト。作曲家高橋悠治は実兄。 略歴 / 神奈川県鎌倉市生まれ。父は季刊誌『音楽研究』の編集長を務めた音楽評論家高橋均、母はピアニスト蔭山英子。5歳より母にピアノを習う。東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校から東京芸術大学卒業および同大学院修了。大学院ではゲオルク・ヴァシャヘーリに師事。大学院在学中の1968年に、日独現代音楽祭でデビュー。武満徹の《ピアニストのためのコロナ》と篠原真《タンダンス》を演奏する。1970年に初リサイタルを開く。1972年に渡欧し、ベルリン芸術週間、パリ秋の芸術祭などでリサイタルを開き、現代音楽の演奏グループ「サウンド・スペース=アーク」を結成する。以降、各国の作曲家たちから作品の献呈を受け初演する。1974年日生劇場においてクセナキスの『エオンタ』を尾高忠明指揮で演奏する。 1975年には、エリック・サティ没後50年を記念し『エリック・サティ連続演奏会』を配偶者である秋山邦晴と企画し、渋谷ジァン・ジァンで開催。「サティ・ピアノ全集」を校訂し、「サティ・ピアノ音楽全集」をリリースする。1977年にはボンにおいて開催された『ベートーヴェン150年祭』ポリーニ、クレーメル、ジュリアード弦楽四重奏団らとともに招かれ、ベートーヴェンとメシアンを演奏した。1980年代に入りモートン・フェルドマンに長いピアノ曲の作曲を依頼。以後1987年の作曲家逝去まで7年間ともに音楽活動を行う。1983年から「高橋アキ”新しい耳”シリーズ」を企画・演奏し、横浜市教育文化ホール(第11回まで)と神奈川県立音楽堂(第12回以降)で1997年まで開催された。 1984年、カリフォルニア芸術大学の客員教授。2002年にコソボ自治州における初の現代音楽祭に招聘され、2006年にベルリンのメルツムジークに招聘される。ニューヨークでモートン・フェルドマン作品のリサイタルを行い、ニューヨーク・タイムズで2006年のベスト・コンサートの一つに選ばれる。 現代音楽の演奏には作家の志向に伴い過酷な要求が付きまとうが、高橋はデビュー当初から忠実に律動性を強調し、西村朗や姜碩煕の名人芸を伴うピアノ協奏曲も難なく演奏している。一柳慧の《ピアノ・メディア》の演奏も、その演奏の正確さが指摘される。 また、ビートルズナンバーを、ジョン・ケージ、フレデリック・ジェフスキー、武満徹、坂本龍一などの現代音楽家が換骨奪胎したユニークなアルバム「ハイパー・ミュージック・フロム・レノン&マッカトニー」シリーズも、よく知られている。 (高橋アキ – Wikipedia)
Aki Takahashi (高橋 アキ, Takahashi Aki, born September 6, 1944) is a Japanese pianist specializing in contemporary classical music. (Aki Takahashi – Wikipedia)
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日本のピアニスト・作曲家 高橋悠治(Yuji Takahashi)
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高橋 悠治(たかはし ゆうじ、1938年9月21日 – )は、日本の作曲家、ピアニスト。 略歴 / 東京都生まれ。父は季刊誌『音楽研究』の編集長を務めた音楽評論家高橋均、母はピアニスト蔭山英子。ピアニストの高橋アキは実妹。ピアノとコンピュータによる即興演奏や、日本の伝統楽器と声のための作曲などの音楽活動を行っている。橋本国彦、團伊玖磨、柴田南雄、小倉朗に作曲を、伊藤裕、宅孝二にピアノを師事。桐朋学園短期大学作曲科を1958年に中退後、1960年の東京現代音楽祭でボー・ニルソンの『クヴァンティテーテン』(『量』)の日本初演でピアニストとしてデビューし、注目を浴びる。そののち、草月コンテンポラリー・シリーズにおいて、武満徹の『ピアノ・ディスタンス』、ジョン・ケージの『ウィンター・ミュージック』、ヤニス・クセナキスの『ヘルマ』などを演奏した。 1962年に秋山邦晴、一柳慧、小林健次らと実験的演奏家集団「ニュー・ディレクション」を結成。作曲家として同年にピアノ曲『エクスタシス』、電子音と12楽器による室内楽のための『フォノジェーヌ』、1963年にはテープと器楽アンサンブルのための『冥界のへそ』を発表。同年秋からはフォード財団の助成を得て西ベルリンに留学し、クセナキスに師事。1964年作曲の『クロマモルフⅡ』は、6月にベルギーのゲントで初演される。一方、パリのドメーヌ・ミュジカルなど欧州各地においてピアニストとしても活動した。クセナキス作品を演奏したアルバムで1965年度のフランス・ディスク・アカデミー大賞を受賞。1966年5月、日生劇場において開催された現代音楽祭「オーケストラル・スペース」に参加。高橋のピアノ、小澤征爾の指揮でクセナキスの『エオンタ』を演奏する。同年ロックフェラー財団の奨学金を得てタングルウッドのバークシャー音楽センターで開催される夏期講習に参加するためにニューヨークへ移住し、コンピュータによる作曲を研究した。また、バークシャー音楽センター、ラビニア音楽祭、ストラットフォード(オンタリオ)演劇祭、ニューヨーク州立大学バッファロー校の「創造と演奏の芸術」センターなど各地で演奏し、のちには「創造と演奏の芸術」センター所員として作曲を行う。この間、ロンドン交響楽団、ニューヨーク交響楽団、ボストン交響楽団、シカゴ交響楽団、サンフランシスコ交響楽団、フィラデルフィア管弦楽団、トロント交響楽団、バッファロー交響楽団などと共演し、アテネ音楽祭、ストックホルム音楽祭、オックスフォード・バッハ音楽祭、プリンストン室内楽音楽祭、ニューヨークにおける「新しい音楽と音のイメージのための夕べ」では独奏者として演奏した。数々のLP録音を残す。1966年と1968年には、マニラとニューヨークで開催されたユネスコ国際音楽評議会で演奏や講演を行った。1968年6月5日、現代音楽祭「オーケストラル・スペース1968」において「自作『6つの要素(4つのヴァイオリンのための)』が演奏される。1969年1月14日小澤征爾指揮トロント交響楽団とともに武満徹『アステリズム』の初演に参加。同年秋一時帰国し、1970年の大阪万国博覧会における武満徹が音楽監督を務める日本の「鉄鋼館―スペースシアター」での演奏作品『エゲン』を収録した。1970年代以降は、民衆の声や音を用いた創作手法も重視する。1971年6月、渋谷公会堂でのリサイタルのために一時帰国。6月9日には朝日講堂で、「クロス・トーク」(日米現代音楽祭)最終回として室内楽作品『ニキテ』が初演される。同年8月30日にインディアナ大学の数理自動音楽研究センター(CMAM)の副ディレクターに任命される。秋からは、同大学で作曲とピアノを教える。また、サンフランシスコ音楽院でも教鞭をとった。しかし、同年12月14日インディアナ大学の学長から翌年1972年5月付けでの解雇を宣告される。クセナキスと共同で「コンピュータ音楽研究室」を結成し、過去数年間同大学でクセナキスが継続してきた実験の企画に1年間協力するも、研究している音楽と他の領域との中間にある探究の実現にとっては、既成の学問領域分割にもとづく大学の固定的区分は不自由なものであった。1972年末研究室は解散し、クセナキスはパリに転出して、16ビット、10万サンプル/秒のD/A変換によって実験を継続することとなった。1972年に高橋自身は、東京大学の情報科学研究室でGRAMS/ICOM計画に参加し、コンピュータによる作曲と音響発生の結合を実験し始めたが、1974年のある時期以降は、しばらく東京大学を訪れることすらなくなった。 1972年4月に帰国。グラモフォンで『武満作品集』を収録。1973年には3月20日の渋谷公会堂での第600回N響定期公演においてクセナキスのピアノ協奏曲『シナッフェ』を演奏。同年、武満徹、林光、松平頼暁、湯浅譲二とともにグループ「トランソニック」を組織、1976年まで季刊誌『トランソニック』の編集などの活動を行った。1973年7月からは日本コロムビアの川口義晴プロデュースによるレコーディング開始。『バッハの世界』作成。1974年9月には4チャンネルを使った『パーセル最後の曲集』作成。1975年には、バッハ『フーガの技法』、ケージ『ソナタとインターリュード』。同社からのアルバム発行は1980年1月収録のサティまでつづいた。一方、FM放送録音として、1974年1月20日の日生劇場でのリサイタル録音には、1973年に高橋によって初演されていた近藤譲『クリック・クラック』、1973年にマリー=フランソワーズ・ビュケにより初演されていたクセナキスの『エヴリアリ』の日本初演にあたる音源などが収められている。 (高橋悠治 – Wikipedia)
Yūji Takahashi (高橋 悠治, Takahashi Yūji, born 1938) is a composer, pianist, critic, conductor, and author. (Yūji Takahashi – Wikipedia)
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日本の作曲家 湯浅譲二 (北海道 美幌町ゆかりの有名人)
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湯浅譲二 日本の作曲家 / 湯浅 譲二(ゆあさ じょうじ、1929年8月12日 – )は、日本の現代音楽の作曲家。 経歴と作品概論 / 1929年、福島県郡山市にて開業医の次男として生まれる。芸術愛好家だった父の影響で幼時より音楽に親しむ。旧制福島県立安積中学校を卒業したのち上京し、慶應義塾大学医学部に進む。当時は外科医志望であり作曲は趣味として行うつもりだったが東京で日本の現代音楽の状況を知るうちに「このぐらいなら自分でもできる」と思うようになり1951年、「10年間は面倒みてやるから」との父親の合意のもとに医学部教養課程を中退して作曲の道に進む。若い頃、詩人・瀧口修造の下で組織された芸術家グループ・実験工房で武満徹らと共に活動し電子音楽や自作を含む現代音楽の演奏会の製作にかかわった。一方で古典的な作曲理論を身につけておく必要も痛感し、大学教養課程での音楽の担当であった評論家・村田武雄の紹介で中田一次に短期間師事している。 アメリカのカリフォルニア大学サンディエゴ校でブライアン・ファーニホゥ、ロジャー・レイノルズらと共に作曲の教職に就いていた。湯浅が自らの音楽を語る言葉として、次の文句が良く引き合いに出される。「私にとって音楽とは、音響エネルギー体の空間的・時間的推移である」。これはつまり音楽をその音響現象の中に見られるエネルギーの力学的運動として捉えることにより、その音楽の語り口(ナラティヴィティ)を見出そうというものである。このことによって湯浅はジャンルや様式、地域性などを超えたほとんどの音楽がこの言葉によって説明できるとしている。 もう一つ重要な言葉として、「コスモロジー」という言葉も湯浅は多用している。これは個々の人間が持つ個人性、その人の歩んできた歴史背景、学習・経験してきた事柄、さらに地域性、民族性、時代性などを包括する言葉である。これによって個々の作曲家には個性が反映され、作曲家独自のメッセージが生まれると湯浅は解説している。 UPICシステムを用いて制作された音楽作品は宣伝の割には意外なほどにUPIC単体の為に制作されたものに傑作が少ないが、そのような不毛の中で「UPICによる始原への眼差し第一番」はその数少ない中の傑作であるばかりか湯浅音楽の最高峰に位置付けられている。 カリフォルニア大学サンディエゴ校教授、日本大学藝術学部客員教授、東京音楽大学客員教授などを経て、桐朋学園大学特任教授、カリフォルニア大学サンディエゴ校名誉教授、国際現代音楽協会(ISCM)名誉会員。慶應義塾大学アート・センター訪問所員。 主な作品 / 管弦楽曲 室内楽 吹奏楽 マンドリンオーケストラ 雅楽 ピアノ曲電子音楽、ミュジーク・コンクレート、コンピュータ音楽 合唱曲 校歌 童謡 映画音楽、テレビなどの音楽 フォークソング 著作・楽譜 / 受賞・受章など (湯浅譲二 – Wikipedia)
Joji Yuasa (湯浅譲二 Yuasa Jōji, born 12 August 1929) is a Japanese composer of contemporary classical music. Biography / Born in Kōriyama, Fukushima, he is a self-taught composer. He first became interested in music while a pre medical student at Keio University, and in 1952 he joined a young artists’ group Jikken Kobo (Experimental Workshop, 1951 – 1957) in Tokyo, an organization for the exploration of new directions in the arts, including multimedia. Since then, Yuasa has written a wide range of compositions, including orchestral, choral and chamber music, music for theatre, and intermedia, electronic and computer music. His works have been commissioned by the Koussevitzky Music Foundation, Saarland Radio Symphony Orchestra, Helsinki Philharmonic Orchestra, Japan Philharmonic Orchestra, NHK Symphony Orchestra, Canada Council, Suntory Music Foundation, IRCAM and National Endowment for the Arts of the U.S.A. He has received a number of fellowships and awards, from: Japan Society Fellowship (1968–69), Composer in Residence at the Center for Music Experiment UCSD (1976), Berlin Artist Program by DAAD (1976–77), the New South Wales Conservatorium of Music in Sydney (1980), the University of Toronto (1981) and IRCAM (1987), As a guest composer and lecturer, he has contributed to the Festival of the Arts of This Century in Hawaii (1970), New Music Concerts in Toronto (1980), Asian Composers League in Hong Kong (1981), concert tour for Contemporary Music Network by British Arts Council (1981), Asia Pacific Festival in New Zealand (1984), Composers Workshop in Amsterdam (1984), Darmstadt Summer Course for Contemporary Music (1988), Lerchenborg Music Tage (1986, 1988), the Pacific Music Festival in Sapporo (1990), and Music of Japan Today: Tradition and Innovation (Hamilton College, NY – 1992). From 1981 to 1994 he was a music researcher and professor at the University of California, San Diego, where he is currently a professor emeritus. He has also served as a guest professor at the Tokyo College of Music since 1981, a professor at Nihon University since 1993 and an honorary member of ISCM. Yuasa is the recipient of a 1996 Suntory Music Award. (Joji Yuasa – Wikipedia
美幌町 日本の北海道の町 / 美幌町(びほろちょう)は、北海道オホーツク総合振興局管内にある町。 美幌町の有名人 / 美幌町ゆかりの有名人 / 湯浅譲二 ー 日本の作曲家。美幌病院歌または看護学校歌を作曲した。(美幌町 (美幌町ゆかりの有名人) – Wikipedia)
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湯浅譲二作曲、長田弘作詞 おやすみなさい – YouTube
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2019 日本芸術院賞 (日本芸術院) – 美幌音楽人 加藤雅夫
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1980年のNHKテレビドラマ 優しさごっこ (父の日に)
1980年のNHKテレビドラマ 優しさごっこ (父の日に)
「世の中、両親が離婚して不幸な子供は多い。しかし、両親が離婚しないために不幸な子供はもっと多い…」(優しさごっこ)
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優しさごっこ(やさしさごっこ)は、日本放送協会(NHK)が1980年11月10日から12月5日に銀河テレビ小説枠で放送したテレビドラマ。原作は今江祥智の作品で、自身の体験に基づいて描かれている。 概要 / 妻が美術書の出版に興じて家を出て行ってしまい、残された夫が不器用ながら家事に取り組み、小学生の娘と二人で暮らしていく姿を描いた作品。 音楽:湯浅譲二 (優しさごっこ – Wikipedia)
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Joji Yuasa: Territory (1974) – YouTube
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日本ショパン協会創立50年/北海道・美幌町ゆかりの藁科雅美
本年はポーランドのジェラゾヴァ・ヴォラ出身でピアノの詩人と呼ばれたフレデリック・ショパン(Chopin)生誕200年、北海道・美幌町ゆかりの藁科雅美が尽力された日本ショパン協会創立50年。
町歌と校歌
美幌町の町歌と校歌について(1)
現代音楽の世界的な作曲家・武満徹(たけみつとおる)さんが
「美幌町町歌」を作曲したのは 1953(昭和28年) 22歳です。
当時を知るピアニスト園田高弘さんは「多くの人々が戦後の
困窮時代に懸命に生き抜く事に精一杯の努力をしていた当時
武満徹さんも赤貧洗うが如き生活状態で 作品を書いていたよう
です」と語る。
(園田高弘さんは武満徹さんの最初のピアノ作品「遮られない休息」を初演)
そんな中で武満徹さんが東京で病に苦しんでいた時「空気の良い鎌倉で
療養しないか」と自宅を提供したのが團伊玖磨(だんいくま)さん。
その後、武満徹さんは「弦楽のためのレクイエム」そして琵琶と尺八を用いた
小澤征爾指揮ニューヨーク・フィル委嘱作品「ノベェンバー・ステップス」や
「系図ー若い人のための音楽詩」など代表作を多数発表し映画音楽でも
大きな足跡を残し「太平洋ひとりぼっち」「はなれ瞽女おりん」「乱」「写楽」
など日本映画のほかハリウッド映画「ライジング・サン」なども手がけた。
ギターの作品も多く、「森の中で」とフルートの「エアー」は遺作となった。
日本芸術院賞、フランス芸術文化勲章、グレン・グールド賞など世界各国
から賞を受けている。
武満徹さんの逝去(1998.2.20)を知った私は、
誰もが知らない 武満徹の遺したもの「美幌町町歌」を
皆さん(黛敏郎、園田高弘、谷川俊太郎、湯浅譲二、大江健三郎、
横山勝也、小澤征爾、立花隆、文仁様、荘村清志など)に伝えた。
皆さんは、「へえ!あの武満徹さんが 22才の時に…」と絶句。
美幌町出身で文化人類学の山口昌男さんも「不思議なご縁に驚いた
一昨日、東京の追悼コンサートで浅香夫人と長女の眞樹さんに会った
ばかりだ…」と。
私も 札幌の追悼コンサート(岩城宏之指揮・札幌交響楽団)に行った。
武満浅香夫人(元・劇団四季女優)と武満眞樹さん(洋画翻訳家)は
「町長と皆様から弔電をいただきました ありがとうございます」。
私は 「美幌町をご案内すること叶いませんでした…残念です」。
浅香夫人は「町歌作曲の経緯は早坂文雄先生からの依頼だった ようです」。
町や町民は 一度でも武満徹さんを地元に招待すべきだった。
没後10年この間、国内外の武満徹ファンが美幌町を訪れて
役場のオルゴールを聴いて 小川のほとり野山を散策して
また ある時はギターで「武満徹」を語り、心に何かをのこして
静かに帰って行く。…
音は私をつらぬいて 世界に輪のように つづいている 武満徹
“Sounds thread their way through me, and then out into the world,
in uninterrupted loops.” Toru Takemitsu
昭和28年 「美幌町町歌」 開基66年 町制30年記念制定
作詞:大下孝一(美幌郵便局 郵便配達人)39才
作曲:武満徹(たけみつとおる)22才
歌: 松田トシ(歌のおばさん)
三鷹 淳 (昭和42年 レコード化)
藁科雅美 Masami Warashina
わらしなまさみ
(音楽評論家。大正4年1月15日生れ。 慶應大学医学部中退。
昭和26年から毎日放送の音楽ディレクターとして活躍。
著書「レコード音楽大事典」 。訳書「バーンスタイン物語」等。
日本ショパン協会理事。日本チェコスロヴァキア協会顧問。
第1回美幌町文化賞受賞。平成5年1月3日逝去。)
藁科一家の疎開先は美幌町(昭和20〜26年)。
美幌町は鎌倉に移住した藁科さんを介して権威者に町歌作曲を
依頼した。
早坂文雄 Fumio Hayasaka
(作曲家 昭和30年逝去 41才 映画音楽〜酔いどれ天使
羅生門、白痴 生きる、七人の侍 など) 鎌倉在住。
病状悪化のため 武満徹に美幌町歌を そして 湯浅譲二に
美幌病院歌または看護学校歌を依頼した。
湯浅譲二 Joji Yuasa
作曲家。昭和4年生れ。慶甕大学医学部中退。昭和26年に
武満徹、園田高弘、瀧口修造らと実験工房を結成。
「二つのパストラー」でデビュー。
日大芸術研究所教授、カリフォルニア大学サンディエゴ校
名誉教授、国立音大コンピューター音楽センターと東京音大
の客員教授。
世界的に知られる現代音楽の作品は ホワイト・ノイズによる
イコン ヴォイセス・カミング、芭蕉の句による情景、透視図法、
世阿弥・九位。
著書は 「音のコスモロジーへ」 「現代音楽ときのとき」。
健在活躍中。
湯浅譲二、若き日を語る Joji Yuasa, on TV(Takemitsu)
♪
♪ 美幌病院歌または看護学校歌をご存知の方はご連絡ください
武満徹 Toru Takemitsu 團伊玖磨 早崎日出太「團伊玖磨全仕事」
美幌町の町歌と校歌について(2)
日本を代表する世界的な作曲家・團伊玖磨(だんいくま)さんが
「北海道美幌農業高等学校校歌」を作曲したのは
1952(昭和27年) 28才です。
ある時 東京の会合で團伊玖磨さんと同席
私は 「こんにちは 美幌町から来ました」
團さん 「おお!僕が作曲した北海道の美幌農林学校だ」
私は 「昭和41年卒業、畜産科、吹奏楽部です。校歌に
大変お世話になりました。ありがとうございます。
今は美幌農業高校です。
美幌町町歌の作曲は武満徹さんです。
昭和28年 22才でした」。
團伊玖磨さんは 「へえ!あの武満徹くんが…その頃、武満夫妻は
東京で病に苦しんでいたんだ。だから二人に空気の良い
鎌倉で療養しないかと、僕の家を提供したんだよ やあ!
不思議なご縁だ。一度、美幌町を訪れて見たいものだなあ」。
私は 「音楽評論家 藁科雅美さんの疎開先は美幌町でした。
町民の文化向上に貢献されました」
團伊玖磨さんは 「う〜ん 君の話には本当に驚いた。藁科先生の
ご自宅は鎌倉の僕の家の近所だったんだよ」。
私は 「藁科雅美夫妻は美幌高校の講師でした」
團さんは 「そうだ!校歌作曲は藁科雅美先生からの依頼だった」
私は 「團伊玖磨先生!美幌町に来てくださいね」。
会合は中国文化大臣来日歓迎晩餐会(平成5年)
同席の皆さんは 愛新覚羅白雪 アグネス・チャン
栗原小巻 吉永小百合です…
團伊玖磨さんは山口淑子(李香蘭)女史を紹介してくれました
私の娘(13)が南京で『夜来香 イェライシャン』を中国語で歌い
熱烈歓迎を受けた話に
山口淑子さんは 「まあ!そんな時代になったのね…」と
『夜来香』の歌唱指導を約束してくれました (やったね♪本物です)。
團伊玖磨さんは日本中国文化交流協会会長(前会長は
井上靖さん 役員は東山魁夷・千田是也・司馬遼太郎
杉村春子などの皆さん)
美幌のギター教師は入会ダメ?
團さんの一声でOKです
北海道会員は三浦綾子さん・坂野上明さん(道新顧問)数名です。
團伊玖磨さんは日中文化交流協会創立の初期から尽力され
訪中歴は 前進座公演(1966)日中国交正常化祝賀(1972)
第1回日本音楽家代表団は中村八大・小泉文夫・松村禎三・
武満徹など(1976) 以後 芥川也寸志・園田高弘・中村紘子・
千住真理子・鮫島有美子・佐藤しのぶ・三善晃・池辺晋一郎・
ダークダックスなど多数が参加
オペラ「夕鶴」公演(1977)など50数回にのぼり 故・周恩来総理
江沢民主席はじめ党と国家の指導者とたびたび会見し各界の
親友も多かった。
ある時 私は團伊玖磨さんに話した
「中国の古都・蘇州を訪問したとき
静寂な寒山寺の辺り 小運河を渡るゴンドラ(小舟)
そして太湖に浮かぶジャンク(帆船)から
琵琶のトレモロと美しい歌声が流れて来ました
その昔 イタリアのマルコポーロさんが 水の都・蘇州を
東洋のベニスと言った気持ちがわかりました…マンドリンと
カンツォーネを思い出したのでしょう」。
團伊玖磨さんは 「アハハハ!そうかも知れないね…
蘇州は日本の古都・京都にも似ているんだ
柔らかい方言も 舞妓芸妓の楽音も そして歴史的にもね
その昔 遣隋使や遣唐使はロマンの花を沢山咲かせた事だろう」。
私は 「持病の発作が起きても蘇州なら静かに眠れると思いました
不思議です」。
團伊玖磨さんは 「僕もそう思ったよ…不思議だね」。
北海道岩内町立岩内西小学校校歌、團伊玖磨作曲、荻原井泉水作詞、昭和26年(1951年)10月10日制定(開校50周年記念)。岩内西小学校校歌は北海道唯一の團伊玖磨作曲の小学校校歌です。(團伊玖磨作曲の美幌農業高校校歌も、北海道唯一の高等学校校歌です)
富山県富山市立五福小学校校歌、團伊玖磨作曲、荻原井泉水作詞、昭和30年(1955年)12月制定。富山市立五福小学校の校歌には、他の学校にはあまり見られない大きな特徴があります。それは、歌詞は4番までありますが、1~2番のメロディーと3~4番のメロディーが違うところです。この素晴らしい校歌を今も児童は朝の会や式の時などに誇りをもって歌っています。富山市立五福小学校ホームページ
日本を代表するクラッシック音楽の作曲家であり、エッセイストでもあった團伊玖磨(だん いくま)と、日本の俳人・荻原井泉水(おぎわら せいせんすい)の共通接点は、日本芸術院会員であり、鎌倉在住だった。
Haiku : Ogiwara Seisensui
「北京日本人学校の校歌」作曲:團伊玖磨 作詞:井上ひさし
「上海日本人学校の校歌」作詞:團伊玖磨 作詞:陳舜臣
美幌町の町歌と校歌について(3)
小惑星 17509 Ikumadan (作曲家 團伊玖磨) 2001.5.17 命名 関勉さん
團伊玖磨さんは 2001平成13年5月17日 訪問先の中国江蘇省
蘇州市(第2人民病院)で心不全のため急逝した 77才。
前年の春 最愛の團和子夫人(上海生れのピアニスト)を亡くされてから
1年1ヵ月11日と言う日でした。
すべての事を成し遂げられた團伊玖磨さんを團和子夫人は
蘇州の隣の故郷からお迎えに来られたのでしょう。
今 お2人は空を飛んで十万億土への旅を続けられているのだと
思います。
團伊玖磨さんは中国に愛着を持ち長年にわたり中国の友好と文化交流の
発展に貢献した事により中国から「中日友好使者」「人民友好使者」
「文化交流貢献奨」を授与されている。
5月31日 北京で日中文化交流協会創立45周年と
国立中国交響楽団創立45周年記念「團伊久磨作品音楽会」は
追悼の意味を込めて予定通りに開催された。
弦楽合奏曲「二泉映月」
オペラ「夕鶴」より わたしの大事な与ひょう さようなら
オペラ「楊貴妃」より 待つことはうれしいこと
管弦楽組曲「シルクロード」
管弦楽幻想曲「飛天繚乱」
交響幻想曲「万里長城」が演奏された。
オペラ「夕鶴」は日本初の本格的オペラとして世界を舞台に
650回も上演され絶賛されています。
こういう「国民的オペラ」をもっていることは日本人にとって
実に幸せなことです。
團伊玖磨さん(作曲家 文化功労者 日本芸術院会員)は
1924 大正13年4月7日 東京生れ 昭和20年に東京音楽学校
(現芸大)作曲科卒業 花の街 ぞうさんなど作曲。
昭和27年に美幌高校校歌(現美幌農業高校) NHK第2体操。
昭和28年に歌劇「夕鶴」で毎日音楽賞・伊庭歌劇賞・山田耕筰賞
戦後の山田耕筰と称される。
音楽家としての活躍のほか類い稀なエッセイストとしても知られ
多くの著作があり 随筆「パイプのけむり」は27巻 読売文化賞受賞。
楊晶・李建華 翻訳:中国版「煙斗随筆(パイプのけむり)」が世界一
美しい本になりました。
私は この「町歌と校歌」を團伊玖磨さんに書いてほしいと願っていた
あの人は パイプのけむりとともに消えた…。
6月4日 美幌農業高校で「團伊玖磨氏追悼集会」開催
校歌誕生と逝去について校長のお話し 黙祷 校歌斉唱
なつかしの校歌です 團伊玖磨(28才の青年)がのこした
清らかな広い心のメロディーが校舎中に響きわたった…。
6月31日 葬儀・告別式
美幌農業高校全校集会のVTR(村上博さん撮影)と
校歌楽譜、美幌新聞と北海道新聞の記事を
ご遺族に送呈した。
弔意
世代(心)を受け継ぎ
時代(平和)をつくる
旧校舎(昭和40年)
美幌高校吹奏楽部 昭和38~41年当時の美高文化祭
現在は北海道美幌農業高等学校
美幌町の町歌と校歌について(4)
1887 明治20年
美幌町元町に「美幌外五ヵ村戸長役場」設置
美幌のはじまり(10月12日)
1907 明治40 年
美幌町市街地の青年たち(モダンボーイ)が大太鼓・小太鼓・
横笛・手風琴などを集めて楽団をつくる
美幌吹奏楽団公式サイト Bihoro wind orchestra
北見地区吹奏楽連盟 Okhotsk area,Kitmi Band Association
左2番目 小泉美政さん(草競馬の騎手)我が同級生の祖父
1915 大正4年
二級村制度を施行
美幌村となる
昇格祝いに旗行列の歌を募集
『開基三十年の歌』とした(作詞作曲者は不明)
1916 大正5年
美幌町の市街地に電話開通
1917 大正6年
美幌町の市街地に電気開通
1919 大正8年
津別村を分村
1920 大正9年
第一回国勢調査
『ちょうちん行列の歌』(収集できていない)
美英尋常小学校開校(7月1日)
当時の美幌尋常高等小学校の第二小学校として創設した
昭和16年に美英国民学校と改称した
美幌中学校の前進校である
『美英尋常小学校応援歌』
大正9年当時の美幌雅楽アンサンブル
1923 大正12年
美幌町となる
『一級町村制定を祝う歌』
1925 大正14年
美幌町でラジオ聞こえる
1936 昭和11年
美幌小学校にピアノ寄贈
1937 昭和12年
開基五十年記念歌『美幌町町歌』
大塚郷湖作詞 須藤五郎作曲 塩まさる唄
録音テープあり
『美幌小唄』
大塚郷湖作詞 須藤五郎作曲
『開基五十年祭祝賀歌』
作詞は公募一位の宇佐美康二
曲は神風声援歌の節
1939 昭和14年
『美幌観光音頭』
大塚郷湖作詞 松田喜一作曲 美ち奴唄
美幌観光協会の依頼 帝蓄レコード
当時、昭和12年制作の『美幌小唄 二』として伝わっていたもの
東陽小学校などの校歌作詞の大塚盈と
開基六十六年作成『美幌音頭』の入選者 沖悠三郎、
そして『美幌小唄』の作詞者大塚郷湖は同一人である
大塚氏は短歌をつくるときは「郷湖」
たのまれた作詞は「盈(みつる)」
ペンネームは「沖悠三郎」と使いわけていたらしい
大塚氏は美幌の歌を数多く作り
昭和56年5月4日死去する直前の
『美幌医師会付属准看護学院 学院歌(さみどりの)』が遺作となった
美幌農林学校開校『美幌農林学校校歌』星勇作詞作曲
『第一応援歌・第二応援歌』『わが報徳寮』
1944 昭和19年
筧潤二ピアノ独奏会(美幌小学校講堂)
東京でも名の知れていた海軍航空隊付属美幌病院医師、
美幌町で藁科雅美(音楽評論家)と再会する。慶應大学医学部
1945 昭和20年
藁科雅美(30歳) みつゑ夫人(ピアニスト) 一男一女が美幌に疎開する
国立高等音楽学校(現国立音大)出身のみつゑ夫人は
高等女学校で音楽を指導
慶應大学医学部中退の藁科は理科など六教科を教えた
「授業より畑仕事の監督が多く生徒に植物の芽を見て
種類を教えてもらった
英語が話せるからと進駐軍の隊長付き通訳として
即日強制徴用」
「その当時、個人的に英語を教えた生徒に
文化人類学者となった山口昌男がいる」
藁科は東京からSPレコードを貨車に一台持ってきていた
「どうして知ったのか配属されて来た学徒の
特攻隊員の何人かが訪ねて来て
わずかの休憩時間かわるがわるバッハや
ベートーベンの作品に耳を傾け
感謝のまなざしを私に向けて帰隊していった」
「NHK北見放送局から合唱やレコードを放送したり
レコードコンサートではまだレコード会社が
復興していない時期だったから自分のSPをかけた
歓迎されて網走・釧路・旭川・小樽などからも呼ばれた」
「そのSPは東京に戻るとき網走の奥谷という
網元の息子に引き取ってもらった」
「その奥谷が後に東京に出るとき
自分のコレクションも加えて網走市立図書館に寄贈
図書館によれば昭和43年の寄贈で全部で
1113番まで番号が振られているとのことである
聴く人もなしに眠っているようだ」
1946 昭和21年
美幌文化協会創立
音楽部長 藁科雅美(美幌レコード鑑賞会)
藁科みつゑ(ドンコロ児童合唱団・漣女声合唱団)
美幌町の町歌と校歌について(5)
1947 昭和22年
美幌国立療養所開設
1950 昭和25年
藁科雅美は戦後いち早く「北海道音楽」という
北海道全土の音楽を結ぶ報道評論誌を創刊した
(日本近代音楽館・道立図書館に寄託されている)
内容は荒谷正雄・小林健次・伊福部昭・
早坂文雄などの地方出身の音楽家、
チェロの鈴木聡・バイオリンの巖本真理ら
来道音楽家の写真や演奏会評、
道内各地の音楽状況報告、新譜紹介、インタビュー、
作曲募集など多彩な編集である
『第一回美幌町文化賞』受賞
1951 昭和26年
藁科雅美と藁科みつゑは戦後
美幌高校と網走南ヶ丘高校の時間嘱託も勤めたが
日本の民間放送局で最も早く放送を始めた
新日本放送(毎日放送)東京支社詰めの
音楽ディレクターとして同年の秋に離町した
「私たち家族にとって終生忘れ難い多数の人々の
心暖かい見送りを受けて美幌の町を後にしたのだが
その6年間の思い出は絶大である
美幌の豊かな自然の中で私たちの子供が
すこやかに育ってくれたことも
それが戦後の混乱期であっただけに
ことさら感謝したい気持ちである
正直言って美幌時代の私は文化の中心地である
東京が忘れられず、もしもここで死んだら
遺骨を東京の空からばら散いてほしい
と妻に頼んだような欲求不満と焦燥感にさいなまれた
しかし、今の私には冬の寒さが厳しい
美幌を第二の故郷と思う懐かしさだけが残っている」
当時藁科氏(36)の住居は鎌倉市
近所に早坂文雄氏(37)と團伊玖磨氏(27)が居た…
後に團伊玖磨氏は東京で病に苦しんでいた
武満夫妻に空気の良い鎌倉で療養しないかと
自宅を提供して横須賀市に移った
1952 昭和27年
『北海道美幌農業高等学校校歌』制定
(当時は北海道美幌高等学校)
美幌高校から校歌作曲の依頼を受けた藁科氏は
團伊玖磨氏を紹介
昭和40年の写真
(作詞の美幌高校教諭 川上忠雄氏は前列右から4番目)
1953 昭和28年
『美幌町町歌』制定
美幌町から町歌作曲の依頼を受けた藁科氏は
早坂文雄氏を介して武満徹氏(22)を紹介した
美幌国立療養所歌または准看護学校歌の作曲を
湯浅譲二氏(23)を紹介した
開基六十六年(町制施行三十周年記念)町歌募集委員会は
奥山東陽小学校長の指揮で合唱団によって
町のテープレコードに吹き込み
8月25日役場委員室で初の視聴会を開いた
後に東京からテープレコードが届く
松田トシ唄(ピアノ伴奏)
作詞は大下孝一氏(39歳 美幌郵便局
一般公募で採用された 一等採用分は5,000円)
その後町歌は昭和42年の開基八十年のときに
美幌の歌『風はみどりに』を日本コロンビアに発注した折りに
同時に美幌町歌再版としてオーケストラ伴奏による編曲
ならびに歌手三鷹淳の歌で作成した
昭和44年4月から毎日、役場庁舎塔屋のオルゴールから
町歌のメロディーが流れ町民に親しまれた
武満徹(65 死去)
1930 昭和5年10月8日〜
1996 平成8年2月20日
團伊玖磨(77 死去)
1924 大正13年4月7日〜
2001 平成13年5月17日
町や町民、学校は一度でも
武満徹さん、團伊玖磨さんを
地元に招待すべきだった…
湯浅譲二
1929 昭和4年8月4日〜
ご健在 活躍中
2004 平成16年1月31日 記
文責 加藤雅夫
1947 昭和22年9月3日〜
健在(低肺低視力)活躍中…
☆ 武満徹への捧げもの Tribute to Toru Takemitsu.
2008.2.20 平成20年2月20日
武満徹(昭和5年10月8日生~平成8年2月20日没)12周年追悼
Toru Takemitsu (10.8.1930-2.20.1996) Modern composer
12 anniversary of someone’s death.
武満徹・あの人に会いたい・武満眞樹 Toru Takemitsu-Maki Takemitsu
武満徹が残したものは・立花隆 Tribute to Toru Takemitsu
♪ ♪
武満徹・ラストTV Toru Takemitsu, the last TV appearance
武満徹・ドキュメンタリー Toru Takemitsu documentary
武満徹・ワルツ・小澤征爾 Toru Takemitsu-Seiji Ozawa
武満徹・夢千代日記・吉永小百合 Toru Taemitsu-Sauri Yoshinaga
武満徹・島へ・AJChoir Toru Takemitsu-AJChoir-Shima E(To the island)
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武満徹・美幌町ソング Toru Takemitsu-Bihoro Song
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