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アイヌ語 の検索結果: 64 件
北海道美幌町の子育て世代包括支援センター はぐのんの
北海道美幌町の子育て世代包括支援センター はぐのんの
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愛称「はぐのんの」 2020/09/14掲載(美幌町/社会) 美幌町に10月1日オープン子育て世代包括支援センター / 美幌町が10月1日(木)にオープンする子育て世代包括支援センターの愛称が投票で「はぐのんの」に決まった。 センターは、出産準備や産後ケア、健診、発達、一時預かり、遊び場など妊娠や子育てに関する総合相談窓口。母子保健担当の保健師が中心になり、病院や幼稚園、保育園、学校、子育て支援センターなど関係機関と連携しながら、個々の応援プランを作成して支援する。 愛称は7月に募集。応募22点に対し町民から投票を受け付け、最多得票の主婦(34)の作品に決まった。英語で「抱きしめる」を意味する「ハグ」と、アイヌ語で「花」を意味する「ノンノ」を合わせ「つぼみが出たばかりようなの赤ちゃん、つぼみのようなティーンエイジャーも、個性豊かな大輪の花を咲かせることができるように」という願いが込められている。(浩) (オホーツクの日刊フリーペーパー経済の伝書鳩)
美幌町子育て世代包括支援センター『はぐのんの』 2020年9月11日 よろしくお願いします!美幌町子育て世代包括支援センター『はぐのんの』 令和2年10月1日(木)から、美幌町子育て世代包括支援センター『はぐのんの』がオープンします。『はぐのんの』は、妊娠期から子育てに関する総合相談窓口で、母子保健担当保健師が対応します(しゃきっとプラザ内)。子育て包括支援センターイメージ図.pdf(416KB)
機能について / 相談いただいた方の『こうしたい』に合わせて、それを実現するための応援プランを提案します。例えば、出産を控えたご夫婦には、出産から産後に必要な手続きのチェックリストをお渡しする 妊婦体験(疑似体験ジャケット着用)、沐浴(赤ちゃんのお風呂)練習をしゃきっとプラザで行う 通院中の産科と連携し、出産に向けての調整や退院後すぐに赤ちゃん訪問をする などのプランを提案し、利用について相談していきます。 妊婦支援イメージ.pdf(330KB)
こんな方は是非ご相談ください / 『協力者がいなくて不安』『育児がうまくいかなくて辛い』『育児に自信がもてない』方などは是非ご相談ください。当センターでは、一生懸命育児しているママのがんばりを応援します。話を聴き、一緒に考え、解決に向けての対策を提案したり、関係機関と連携し応援者を増やしていきます。
センターの愛称『はぐのんの』に決定しました。 由来:「はぐ」はhug(抱きしめる)や育む(はぐくむ)。「のんの」はアイヌ語で花。まだ芽が出たばかりの様な赤ちゃんも蕾の様なティーンエイジャーも全ての子供達が生きていく中で、個性豊かな大輪の花を咲かせることが出来るよう地域全体で抱きしめ、大切に育んでいけるように。22の愛称の応募をいただき、一般投票(総数122票)から最も多かった『はぐのんの』に愛称を決定しました。これからも美幌町の子育てを地域全体で応援していきます。困ったことは『はぐのんの』までお気軽にご連絡ください!
美幌町子育て世代包括支援センター『はぐのんの』(しゃきっとプラザ内 母子保健担当) Tel 0152-73-1111 内線395
お問い合わせ 保健福祉グループ 母子保健担当 電話:0152-73-1111(395) (美幌町子育て世代包括支援センター『はぐのんの』 – 美幌町のホームページ)
美幌の子育て世代包括支援センター 2020/08/07掲載(美幌町/告知) 10月オープン / 町HPからも受け付け 愛称決定へ「候補に投票を」 / 美幌町は、10月1日にオープンする子育て世代包括支援センターの愛称の候補に対する投票を町民から受け付けている。 センターは妊娠期から18歳未満の子どもに関する総合相談窓口として、しゃきっとプラザにオープンする。 7月1~31日に愛称を募集。22の候補の応募があった。 投票はJR美幌駅に隣接する林業館きてらすと、コミュニティセンター内の子育て支援センター、しゃきっとプラザ1階にコーナーを設けているほか、町のホームページからも受け付けている。 受け付けは20日まで。問い合わせは美幌町母子保健担当(0152・73・1111内線395)へ。 (オホーツクの日刊フリーペーパー経済の伝書鳩)
子育て世代包括支援センター 2020/07/01掲載(美幌町/社会) 美幌町が愛称募集中 / 美幌町は10月1日に開設を計画している「美幌町子育て世代包括支援センター」の愛称を募集している。 センターは育児や子どもの発達相談など妊娠時から18歳未満までの育児に関する総合相談窓口として開設。子ども発達支援センター、子育て支援センター、学校、保育園など関係機関と連携して支援を提供するとしている。窓口はしゃきっとプラザ2階の民生部保健福祉グループ母子保健担当に設ける。 愛称の募集期間は7月1~31日。町のホームページ専用のQRコードからか、郵送、持参で受け付ける。申し込みなどは母子保健担当(0152・73・1111内線395)へ。 (オホーツクの日刊フリーペーパー経済の伝書鳩)
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美幌町子育て世代包括支援センター 令和2年10月1日窓口オープン
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子育て世代包括支援センター の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫
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1897年(明治30年)5月15日 屯田兵の野付牛村開庁 (北海道北見市)
1897年(明治30年)5月15日 屯田兵の野付牛村開庁 (北海道北見市)
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北見の開拓史に新事実 2019/11/12掲載(北見市/歴史) 屯田兵の野付牛村開庁「1897年5月15日」 北見・68歳男性 / 北見市在住の元北見市職員・68歳男性が北見の屯田兵の歴史を調査し、野付牛村(北見市)に第四大隊本部、野付牛村と湧別村に中隊本部が開庁されたのは1897(明治30)年5月15日だったとした。公文書を確認したことによるもので『北見市史』にこの記載はなく、男性は「北見の屯田兵の歴史にとって、すごく重要なこと。成果をまとめて出版したい」と話している。 旧陸軍の公文書で確認…北見市史には記載なく 屯田兵の歴史にとって重要、成果を出版できたら 屯田歩兵第四大隊による雪中行軍の記録も / 屯田歩兵第四大隊本部が野付牛村に、中隊本部が野付牛村(3カ所)と湧別村(2カ所)の計5カ所に開庁された日は『北見市史』に1897(明治30)年5月としか記載がなく、何日かは不明だった。 男性は、第七師団長男爵・永山武四郎が陸軍大臣子爵・高島鞆之助に宛てた報告書で、大隊本部と中隊本部5カ所の開庁が97年5月15日と確認。 軍の命令系統の最高機関である参謀本部は当初、屯田歩兵第四大隊を野付牛村に配備する計画はなく、96年と97年に湧別村に二中隊二個を配備する予定だったことも確認した。 また、湧別への屯田兵配備について、93年12月に永山武四郎屯田兵司令官(※この年は第七師団長男爵ではなく、屯田兵司令官)が参謀総長・熾仁親王充てに報告した『明治二十八年二十九年両年ニ於ケル屯田兵移殖地』の中で、96年に二中隊を湧別村に配備し、大隊本部も根室から湧別村に移転する計画だったことを確認。 参謀本部は土地が確保されれば97年にも二中隊、都合四中隊を湧別に配備することを計画しており、北見市への配備計画はなかったとした。97、98年に北見、湧別に屯田兵配備が決定される以前に、湧別単独配備が計画されていた。?参謀本部は屯田司令官の報告をもとに95、96年の配備について陸軍省と協議するが、陸軍省は94年2月、湧別は遠く交通が不便で経費にも懸念があるとし、最終的に参謀本部は94年4月、湧別配備を取り消している。 しかし、男性は同年11月の北海道毎日新聞に、常呂原野(野付牛原野・ムカ原野)と湧別原野に屯田兵を配備するため測量が行われているとの記事を発見。 これは97、98年の配備を前提とするもので「1894年の日清戦争で8月に朝鮮半島・遼東半島を制圧、9月に平壌を陥落、また黄海海戦により制海権をほぼ掌握したことにより戦争賠償金を見込み、陸軍省は湧別の屯田兵配備にゴーサインを出したのではないか」と推測する。 また、北見に屯田兵を配備することになったのは「湧別に二中隊二個、都合四中隊を移植するほどの土地がなかったことと、北見は湧別とともに北海道庁の鉄道予定幹線に組み込まれていたこと、つまり、鉄道を軍事的に利用することが当時の参謀本部の既定路線であったことも影響しているのではないか」と推測する。 そのほか、屯田歩兵第四大隊による雪中行軍が97、98年に計2回行われ、初回(97年12月24日~98年1月9日)は三輪光儀大隊長を含む19人、2回目(2月14日~3月3日)は三輪大隊長を含む58人が旭川の永山兵村を往復した記録を確認した。 陸軍大臣に提出された雪中行軍報告書には、行軍中の日誌や参加者の氏名、積雪深度などの気象状況、駅逓での食事内容、浴場の有無、各士官らに与えられた特別任務の報告などさまざまな事項が詳細に記述されていた。 「冬季に中央道路を第七師団本部に向かう場合に必要とされる装備などに加え、おにぎりが凍ってしまって食べられなくなることへの対処法、宿泊先での食事は平素の食事より良かったため、行軍終了後に太った兵卒が多かったことなど面白いことも記載されています」と目を輝かせる。 雪中行軍の記録は膨大で四百数十コマになり「従来、湧別中隊だけで行われたとされた雪中行軍は、実は屯田歩兵第四大隊を挙げての一大事業。参加人数こそ違うが、199名が死亡した青森・弘前連隊の八甲田雪中行軍遭難事件に先立つ5年前に行われていたということです」と話している。 さらに、屯田兵を全国から海路で運んだ武陽丸と武州丸についても、「商船三井社史資料室に確認して明らかになった新事実がありました」と男性。 「私は単なる好事家。趣味の範囲で地方史を調べているが、今回の屯田歩兵第四大隊の沿革などについては、公文書などの一次資料に基づいている。今後も、確実な資料を調査し、北見市の歴史的事実を後世に残したい」と話している。(匡) (オホーツクの日刊フリーペーパー経済の伝書鳩)
屯田兵(とんでんへい)は、明治時代に北海道の警備と開拓にあたった兵士とその部隊である。1874年(明治7年)に制度が設けられ、翌年から実施、1904年(明治37年)に廃止された。 (屯田兵 – Wikipedia)
北見市 日本の北海道の市 / 北見市(きたみし)は、北海道オホーツク総合振興局にある市。オホーツク海沿岸から石北峠まで東西約110キロメートル (km) に広がっている。北海道(ただし、北方領土である択捉島などを除いた場合)で一番広い地方公共団体(日本国内では高山市、浜松市、日光市に続く4番目の広さ)である。 概要 / 「北見」の名の由来は、明治政府から国名を諮問された松浦武四郎が「この地を従来から北海岸と唱えてきたので北の文字を用い、カラフト島が快晴の日には見えるので、北見としてはどうか」と進言したことによる。旧北見市市制施行前の名称「野付牛」(のっけうし)は、アイヌ語の「ヌプンケシ」(野の一方の端)に由来している。 歴史 / 年表 / 明治時代 / 1897年(明治30年):北光社移民団112戸が北見に入植し、北光社農場開設。屯田兵597戸が端野・野付牛・相内・湧別に入植。網走支庁開庁。常呂村戸長役場から野付牛・生顔常村を分離し、野付牛外1箇村戸長役場設置(旧北見市の開基)。 (北見市 – Wikipedia)
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ヌプンケシ93号 野付牛外一箇村戸長役場開庁月日は? – 北見市のホームページ
市史編さんニュース ヌプンケシ目次 | 北見市のホームページ
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屯田兵〜家族のみた制度と生活(北見市の歴史) – 美幌音楽人 加藤雅夫
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北海道北見市の広報紙(広報きたみ)について
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北見市 日本の北海道の市 / 北見市(きたみし)は、北海道オホーツク総合振興局にある市。オホーツク海沿岸から石北峠まで東西約110キロメートル (km) に広がっている。北海道(ただし、北方領土である択捉島などを除いた場合)で一番広い地方公共団体(日本国内では高山市、浜松市、日光市に続く4番目の広さ)である。 概要 / 「北見」の名の由来は、明治政府から国名を諮問された松浦武四郎が「この地を従来から北海岸と唱えてきたので北の文字を用い、カラフト島が快晴の日には見えるので、北見としてはどうか」と進言したことによる。旧北見市市制施行前の名称「野付牛」(のっけうし)は、アイヌ語の「ヌプンケシ」(野の一方の端)に由来している。 (北見市 – Wikipedia)
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北海道津別町の 津別100年物語 (YouTube)
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つべつ町のお知らせ / 津別町開町100年記念事業映像『津別100年物語』を公開しまし / た令和元年10月12日に開催された「津別町開町100年記念式典」にて初出の津別町開町100年記念事業映像『津別100年物語』を公開しました。 津別町HPトップページ下部の埋込動画または下記のリンクからご覧ください。 YouTube 『津別100年物語』 製作 : NeoFolk/株式会社 道東テレビ 制作 : 津別町/津別町開町100年記念事業実行委員会 協力 : 北網圏北見文化センター/野宮貞市 音楽 : HORANERO(ホラネロ) 本田優一郎 ナレーション : アキオカマサコ (津別町開町100年記念事業映像『津別100年物語』を公開しました(つべつ町のお知らせ) | 津別町ホームページ)
津別町 日本の北海道の町 / 津別町(つべつちょう Tsubetsu, Hokkaido)は、北海道オホーツク総合振興局管内の網走郡にある町である。 町名の由来は、アイヌ語の「トゥペッ」から。意味は「二つの川」あるいは「山の出ばなを通っている川」。 歴史 / 1919年(大正8年)4月1日 美幌村(現美幌町)から達媚(たっこぶ)村、活汲(かっくみ)村、飜木禽(ぽんききん)村の3大字が分村、津別村(二級町村)となる。 1943年4月1日 津別村が一級町村制施行。 1946年9月10日 町に昇格、津別町となる。 (津別町 – Wikipedia)
津別町の津別ギターアンサンブル(津別ギタークラブ)
津別町の津別マンドリンアンサンブル(津別マンドリンクラブ)
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津別町開町100年記念事業 第49回つべつ夏まつり【津別観光協会】 – YouTube
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津別町開町100年記念 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫
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2019年(令和元年)4月1日 北海道津別町開町100年記念日
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津別町 開町100年記念式典 2019/10/17掲載(津別町/社会) 先人の努力に感謝、まちづくりへの決意新た / 津別町の開町100年記念式典が12日、中央公民館で行われた。町民ら約180人が出席。先人の努力に感謝し、まちづくりへの決意を新たにした。 津別町は1919(大正8)年、美幌村から分村。戦後に人口が急増し、1946(昭和21)年に町政に移行した。 佐藤多一町長は式辞で津別町の成り立ちや、人口減少と少子高齢化などの課題にふれつつ「先人の開拓精神を継承し、町民一丸となって新たなまちづくりに挑んでいく」と述べた。 100年を記念して、まちづくりに功労があった個人や企業など12個人8団体を表彰。津別町在住のフルート、ギターの音楽ユニット「ホラネロ」が100年を記念して制作した曲「ザ・セカンド・フロンティア」など2曲を披露した。 「未来への誓い」をテーマに、津別小学校6年の女子児童が「歴史を誇りに新たな未来をつくり、山や森、生きものがいつまでも見られるよう自然を大事にしたい」、津別中学校3年の女子生徒が「将来の夢に歩み、津別の発展に貢献できるようになりたい」と誓った。(浩) (オホーツクのフリーペーパー経済の伝書鳩)
津別町の名所がオリジナルフレーム切手に 2019/10/17掲載(津別町/社会) 開町100年を記念 / 日本郵便が町に贈呈 / 日本郵便株式会社北海道支社が11日、津別町の名所をモチーフにしたオリジナルフレーム切手を発売した。発売を記念して同日、津別町役場で贈呈式が行われた。 津別町の開町100年を記念して発行を企画。84円切手10枚のセットで、津別峠の雲海をはじめ、最上のミズナラ、相生鉄道公園、チミケップ湖、鹿鳴の滝などの写真が切手になっている。発行は千部で、1部1330円。管内67局と札幌圏10局の計77局で扱っている。 贈呈式では、日本郵便東北見地区連絡会の鷲尾勝彦統括局長(訓子府郵便局長)が佐藤多一町長に切手を手渡した。佐藤町長は「開町100年に気を使っていただきありがたい」と感謝した。(浩) (オホーツクのフリーペーパー経済の伝書鳩)
津別町 日本の北海道の町 / 津別町(つべつちょう Tsubetsu, Hokkaido)は、北海道オホーツク総合振興局管内の網走郡にある町である。 町名の由来は、アイヌ語の「トゥペッ」から。意味は「二つの川」あるいは「山の出ばなを通っている川」。 歴史 / 1919年(大正8年)4月1日 美幌村(現美幌町)から達媚(たっこぶ)村、活汲(かっくみ)村、飜木禽(ぽんききん)村の3大字が分村、津別村(二級町村)となる。 1943年4月1日 津別村が一級町村制施行。 1946年9月10日 町に昇格、津別町となる。 (津別町 – Wikipedia)
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北海道北見市の 新北見市史 (歴史)
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合併後の歴史も網羅「新北見市史」発行 2019/10/03掲載(北見市/歴史) 年表編と資料編を合わせて4巻 / 北見市は「新北見市史」を発行した。旧1市3町の市町合併後10年までの歴史を上巻、下巻にまとめ、年表編と資料編を合わせて4巻を作成。市史発行事業として初めて、各巻をデータ化したCD―ROMも発行した。市内の図書館や教育関係機関、全国の都道府県立図書館で閲覧できるように配布し、1日から販売している。 1日発売、初のCD―ROMも / 市は2007(平成19)年に市史「北見現代史」を発行しているが、これは合併前の旧北見市の市史のため、06年の合併後の歴史も含む市史の発行は今回が初めてとなる。 完成した「新北見市史」は旧石器時代から合併後10年までの歴史をまとめたもので、12年に着手。編さん・編集業務は全国的に主流となっている民間の専門業者への委託ではなく、情報の収集や保存の後継者育成を目的に市民委員を募って行った。 内容は「行政」「産業」「社会」「市町村合併」など分野ごとの9編に分類し、上巻1036㌻、下巻1024㌻にまとめた。年表編529㌻、資料編516㌻で、いずれも写真をふんだんに使用している。 CD―ROMを発行したのは、できるだけたくさんの人に北見の歴史に触れてほしいという思いから。検索機能もあるため、大学や専門学校への進学、就職で北見を訪れた人にも気軽に見てほしいと願いを込めた。 本のサイズはいずれもA4判で、価格は上巻と下巻が各1万円、年表編と資料編が各5千円。CD―ROMは各3千円。 問い合わせは、市の市史編さん主幹(0157・25・1039)へ。(匡) (オホーツクのフリーペーパー経済の伝書鳩)
北見市 日本の北海道の市 / 北見市(きたみし)は、北海道オホーツク総合振興局にある市。オホーツク海沿岸から石北峠まで東西約110キロメートル (km) に広がっている。北海道(ただし、北方領土である択捉島などを除いた場合)で一番広い地方公共団体(日本国内では高山市、浜松市、日光市に続く4番目の広さ)である。 概要 / 「北見」の名の由来は、明治政府から国名を諮問された松浦武四郎が「この地を従来から北海岸と唱えてきたので北の文字を用い、カラフト島が快晴の日には見えるので、北見としてはどうか」と進言したことによる。旧北見市市制施行前の名称「野付牛」(のっけうし)は、アイヌ語の「ヌプンケシ」(野の一方の端)に由来している。 (北見市 – Wikipedia)
編纂、編さん(へんさん)とは、図書館情報学において、著作の定義にもちいる用語の一つである。多くの文献をあつめ、それに基づいて、新しく記述した書物に関して用いる用語であり、著作者の年譜や著作目録の作成などに用いる。 既発表の著作を配列したもの(文庫本で短編小説集をつくるなど)は、編集とよんで、編纂と区別する。 (編纂 – Wikipedia)
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新・北見市:市町村合併 – 北海道ファンマガジンのホームページ
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NHK 北海道中ひざくりげ / 水の恵みが人をうるおす美幌町
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「北海道中ひざくりげ」で放映 2019/06/20掲載(美幌町/告知)
美幌で大イワナ釣りに挑戦 / あすNHKで / 21日(金)午後7時半から放映されるNHKテレビ番組「北海道中ひざくりげ」で美幌町が紹介される。 町内の「美幌の自然を楽しむ会」と美幌博物館が撮影に協力。5月30、31日に町内でロケが行われ、釧路放送局アナウンサーの小山凌さんが体長30センチを超える大きなイワナを求めて古梅の美幌川支流で釣りに挑む様子や、博物館が高校生とともに行った水生生物の調査などを撮影した。 (
美幌川(びほろがわ)は、北海道網走郡美幌町内を流れ網走川に流入する一級河川。網走川水系の支流である。 名称の由来 / アイヌ語の「ペ・ポロ」(水多く、大いなる所)に由来する。 (美幌川 – Wikipedia)
北海道中ひざくりげ(ほっかいどうちゅう・ひざくりげ)はNHK札幌放送局他北海道各地の日本放送協会各局が制作する紀行番組。一時、「新・北海道中ひざくりげ」のタイトルで放送されていたり、「北海道スペシャル」の枠内で放送されていた時期がある。 (北海道中ひざくりげ – Wikipedia)
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日本の大相撲力士 矢後太規 (北海道芽室町出身)
日本の大相撲力士 矢後太規 (北海道芽室町出身)
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矢後 太規(やご たかのり Yago Takanori、1994年7月8日 – )は、北海道河西郡芽室町出身で尾車部屋所属の現役大相撲力士。本名同じ。身長187cm、体重176kg、血液型はA型。最高位は東前頭13枚目(2019年1月場所)。取り口は左四つ、寄り[2]。取り口を参考にしている力士、目標とする力士は横綱でもある稀勢の里。 (矢後太規 – Wikipedia)
芽室町(めむろちょう)は、北海道十勝総合振興局管内にある町。十勝総合振興局の中心部に位置する。近年は、帯広市のベッドタウンとして発展。 町名の由来は、アイヌ語の「メム・オロ」(泉から流れている川)から。ゲートボール発祥の地として知られている。 その他 / 出身有名人 / 大乃国康(元大相撲力士・第62代横綱、現年寄・芝田山康) 若十勝正雄(元大相撲力士) 玉嵐孝平(元大相撲力士) 矢後太規(大相撲力士・平成29年9月場所新十両) (芽室町 – Wikipedia)
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初場所勝ち越し矢後が凱旋 芽室で祝賀会 後援会がまわし贈呈 | 北海道新聞
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Yago Takanori の検索結果b- 美幌音楽人 加藤雅夫
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2019年1月 イランカラプテの川柳
2019年1月 イランカラプテの川柳
イランカラプテ (Irankarapte) (こんにちは、はじめまして)、北海道アイヌ民族の言葉です。イ(それ)ラン(思い)カラプ(触れる)テ(させてください)。「あなたの心にそっとふれさせていただきます」の意。 川柳は17文字(5・7・5)自由詩。ユーモア川柳、風刺川柳、しりとり川柳、病み上がり川柳、福祉川柳、介護川柳、時事川柳、ツイッター川柳などがあります。皆様の温かい言葉をお寄せください。 自由調の「俳句」「和歌」「漢詩」「ポエム」「エッセイ」「コラム」「回文」「言葉遊び」などもどうぞお寄せください。投稿は、こちらです。
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1月(いちがつ)はグレゴリオ暦で年の第1の月に当たり、31日ある。 日本では旧暦1月を睦月(むつき)と呼び、現在では新暦1月の別名としても用いる。睦月という名前の由来には諸説ある。最も有力なのは、親族一同集って宴をする「睦び月(むつびつき)」の意であるとするものである。他に、「元つ月(もとつつき)」「萌月(もゆつき)」「生月(うむつき)」などの説がある。 1月はその年の10月と同じ曜日で始まるのと同じである。平年の場合。 英語の January は、ローマ神話の出入り口とドアの神ヤヌスにちなむ。年の入り口にあたることから、ヤヌスの月となった。 (1月 – Wikipedia)
川柳投稿
「お正月 楽しき家を 通りけり」 (美幌人)
「アイヌ語の イランカラプテ こんにちは」 (ピポロ人)
「アイヌ語で ピリカの歌を あなたにも」 (ピポロ人)
「月天心 楽しき家を 通りけり」 (美幌白雲)
「初夢や 私を月に 連れて行く」 (美幌の夢人)
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国立アイヌ民族博物館 (日本 北海道 アイヌ)
国立アイヌ民族博物館 (日本 北海道 アイヌ)
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アイヌ民族博物館(アイヌみんぞくはくぶつかん)は、北海道白老郡白老町にある博物館。アイヌ語で「大きい湖の集落」を意味する「ポロトコタン」と呼ばれる野外博物館の施設の一つでもあった。2018年3月31日まではポロトコタンと共に一般社団法人アイヌ民族博物館によって運営されていた。 概要 / アイヌ民族博物館は、アイヌ民族に関する有形・無形の資料を専門に展示・保存し、調査研究、教育普及事業を総合的に行う社会教育施設として、白老町民はじめ広域の人々に利用してもらい、学術及び文化の発展に寄与することを目的としている。野外博物館の性格を持つ園内にはアイヌの住家であったチセやプ(食料庫)、ヘペレセッ(ヒグマの飼養檻)、チプ(丸木舟)などを復元・展示してコタン(集落)を再現している。博物館ではアイヌ民族の資料約5,000点、北方少数民族資料の約250点を収蔵しており、約800点を常設展示している。また、アイヌ絵や文書約150点、図書約7,500冊を所蔵している。文化伝承・保存事業としてイオマンテなどの伝統儀礼を実施ているほか、伝統工芸の機織りやキナ(ゴザ)編み、民族衣服の製作、アイヌ文様の刺繍なども常時実施・公開しており、アイヌ文化に触れることができる体験学習を行っている。 国の「民族共生象徴空間」整備に伴い2017年度末で閉館し、新たに「国立アイヌ民族博物館」が2020年に開設する予定である。運営を1本化する方針である国立アイヌ民族博物館の運営主体を目指すため、アイヌ文化振興・研究振興機構が一般財団法人アイヌ民族博物館を吸収合併する形で協議を進めている。なお、閉館後の拠点として旧白老町立社台小学校校舎を活用する予定にしている。 (アイヌ民族博物館 – Wikipedia)
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