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モスラの歌 ザ・ピーナッツ

モスラの歌 ザ・ピーナッツ

関連記事

モスラの歌、Mothra (song) / 「モスラの歌」(モスラのうた)は、映画『モスラ』の劇中歌。 映画『モスラ』をはじめとする映画に登場する怪獣モスラのテーマソングとして、広く知られる。 概要 / 映画『モスラ』の中で小美人が歌う、モスラを呼び出すための歌。作中では架空の島「インファント島」で発見された石碑に書かれた碑文と言う設定である。 「モスラ」といえばこの歌ということもあり、モスラが登場する映画にはそれぞれにアレンジされたバージョンが劇中歌として流れるが、第一作目の主題歌は「インファントの娘」という別の楽曲であった。 作詞者の由起こうじは田中友幸、本多猪四郎、関沢新一の3人の共同ペンネームで、本多監督によると、歌詞は日本語で書かれたものがインドネシア語へ翻訳され、完成歌詞となる。歌詞の原稿は古関裕而記念館に展示されているほか、内容は新潟大学の公式サイトで解説されている。 オリジナルバージョン / 作詞:由起こうじ インドネシア語訳詞:不詳(大槻秀樹との説あり。) 作曲:古関裕而 編曲:古関裕而 歌:ザ・ピーナッツ(伊藤エミ、伊藤ユミ) (モスラの歌 – Wikipedia)

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「モスラの歌」と古関裕而

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モスラの歌 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

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古関裕而 の検索結果 – 美幌音楽人 加藤雅夫

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心の糧に

心の糧になる素晴らしい音楽をすべての人々と分かちあいたい!
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私達はよい音楽を運ぶメッセンジャーになりたい。番人にはなりたくない。心の糧となる音楽を感動をもって語るプロフェッショナルになりたい。与えるのではなく育てる人になりたい。そして誰もが価値ある音楽をおう歌し、共に楽しみ、心の文化と機械の文化の歯車が美しくかみ合うユートピアを実現したい。

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美幌峠 クッシーおじさん

北のロマンー謎と伝説の湖・屈斜路湖(くっしゃろこ)

私は屈斜路湖の美しさと、クッシーとネッシーの姉妹愛をいつまでも育んでやりたい。華麗な舞を披露する白鳥とともに、クッシー物語には北国の夢とロマンがあります。遠い異国スコットランドに住むネッシーと、この道東の風土にひそむクッシーが互いに呼びあい、便りを交わしあっていることに、私は深い感動を覚える。生きとし生けるもの誰でも永遠の平和と静けさを望み安住の地を捜し求めている。だから、心ない探検者たちの追及にさらさせることがあってはならないのです。美幌町 前川市治郎  (美幌峠) (ネス湖) (オホーツク文化)

クッシーとネッシーの姉妹愛「私のクッシー物語」美幌町 前川市治郎

阿寒国立公園には、ご承知のように三つの火山湖があります。いずれも原始のままの美しさを、そのままソックリ現在に残しておりますが、またともに伝説の湖として今もなお語りつがれております。阿寒湖にはマリモの悲恋物語があります。摩周湖の火の山にまつわる哀しい話は、今年も旅する人に熱い涙を流させることでしょう。
さて、屈斜路湖には、いつ解けるともしれない深い謎に包まれた秘められた物語があるのです。
それはそれは、ずいぶん昔のことであったといいます。何千年、何万年、いいえそれどころてはないんです。もっともっと気の遠くなるほどの大昔であったといいます。そのころの地上の世界は、今より水がきれいに澄んで山にも野にも緑があふれ、その中にたくさんの動物たちが棲み、自由に平和に暮らしていたということであります。その頃のあの動物たちは、その後、永い永い年月の間にどのように進化したのでしょうか。また退化したのでしょうか。今地上に現存しているものはないといわれております。ただ時折り、深い土の中から、化石になった大きな骨格の破片が発見されては、わずかに当時を想像させるにすぎません。その時代の天上の世界も、実にすばらしかったといいます。
夜ごと夜ごとの星は、今よりももっともっと鮮やかに輝いて、そのまたたく音も地上では降るようにも聞こえたといわれております。

その星空に、女王星と呼ばれてサファイヤのようにきらめく、五つの光ぼうを放つ一際美しい星がありました。その夜も、平和に更けていよいよ華やかな夜半になろうとする時でした。突然、天体に大きな異変が起こったのです。女王星もはげしくゆれました。その振動が更に強くなった一瞬です。それまで美しく輝いていたサファイヤ色の光ぼうが二つ女王星を離れたのです。二つの子星は並んでどこかへ落ちてゆきます。どこへ行くのでしょうか。どうやら地球に向かっているようであります。そして地球に近づくと、その一つは西へ西へと流れて、現在のスコットランドのネス湖へ。もう一つは東へ東へ流れて北海道の屈斜路湖へ。ともに蒼白い光の尾をひいて、湖底深く沈んだということであります。

 

大地が大きく裂けて。その裂け目に水を湛えたような断崖に囲まれたネス湖に、間もなく怪獣の噂が流れました。人々はその怪獣を「ネッシー」と呼んで、あの星屑の化身だと思っていたそうであります。
一方、火山の陥没によってできたというわが屈斜路湖でも、やがて湖畔の人々の間に怪獣の噂がささやかれました。誰いうとなく「クッシー」と呼んで、あの星の子だと信じて疑うものはなかったといわれております。そして、この話は親から子へ、子から孫へと語りつがれていったということであります。
さて、天上の世界から湖底の生活と急変した「クッシー」は、孤独の寂しさにたえかねて、波静かな日は湖面に自分の姿をうつして見るのでした。けれども変わりはてた我が身の醜さを嘆くでもありません。このように産み落とした親を恨むでもありません。不しあわせな運命を呪うでもなく、夜ごと美しい星空を見上げては、ただひとり物思うときが多かったといいます。
何を思い、何を考えていたのでしょうか。物をいわない「クッシー」の心を、私は詩にしてみました。

    (一) 昔むかしの 大むかし
        そのまた昔の大むかし
        夜空に星が かがやいて
        二つ流れて 落ちたとさ

    (二) スコットランドの湖と
        日本の北の みずうみに
        サファイヤ色の尾ひいて
        二つ流れて 落ちたとさ

    (三) 誰から受けたこの身やら
        いつ迄生きるさだめやら
        千年ひそむ 屈斜路湖
        いつか呼名もクッシーさ 
      
               「ネッシーとクッシー」 唄 田中星児・ビクターレコード

さて、屈斜路湖をめぐる四季の移り変わりは早いものであります。四月の末なると、張りつめていた厚い氷が解けて、岸辺の水がぬるみ太古のままの草花が一斉に咲きます。その楽しさも短く、見上げる外輪山や中島が緑一色に衣をかえた夏も束の間、澄んだ湖面に月影が砕け、やがて枯葉が浮かび、間もなく白鳥が三羽、五羽と数を増してゆきます。氷の下での冬眠の時期がまたやってくるのです。
クッシーとネッシーは、いずれが姉か妹かは知るすべもありませんが、今は地球の裏と表の湖底を棲み家として、再び会うことの許されない孤独の寂しさからでしょうか。かって女王星の子として、共にきらめき合った華やかな天上の夜の懐かしさからでしょうか。互いに便りを交し合い、慰め合い、はげまし合っているのだといわれております。こころみに夜更けの屈斜路湖の空をごらんください。しきりに西へ流れる星を見ることができます。あの星は、クッシーの便りを持って遠くスコットランドのネス湖へ、そしてネッシーに届けられているのだということであります。折り返すように西風が吹いてまいります。美幌峠の笹原をサッサッと波打たせながら、湖心へ吹きおろしてゆくあの西風に、ネッシーからの返事が次ぎつぎに、届けられているのだということです。クッシーはきっと湖面に首をのばして、風音の一つも聞き漏らすまいと、聞きいっていることでしょう。このようにして星と風との便りは、摩周岳の空に暁の明星が輝くころまで、夜を徹して妹いとし、姉恋しとつづけられているのだということです。

さて、かって天上の華と、うたわれたあの女王星は、二つの小星を地球へ落として以来その光も色もあせて、今はどの星座を探しても見つけることできません。
でも、クッシーとネッシーの身を案じながら空のどこかで見守りつづけ、寂しくまたたきつづけているのだといわれております。そして、地上の人々の「ネッシーとクッシー」の唄声が聞こえますと、またたきを忘れ、目をうるませて聞き入っているのだとも、いわれております。
どうか皆さんもこの歌を唄ってやって下さい。クッシーとネッシーのために。そして今はおとろえた母星のためにも。
田中星児さんは更に唄いつづけます。 

    (四) 花よ青葉よ 月かげよ
        白鳥くれば また冬よ
        暗い湖底で 春をまつ
        ネッシーあなたはどうしてる

    (五) 西へ流れる お星さま
        私の思いを つたえてよ
        ネス湖のたよりは西風が
        吹けばくるだろ
        とどくだろう

                「ネッシーとクッシー」 唄 田中星児 ビクターレコード

二人の天文愛好家から貴重な写真を戴きました
高知県 高知市/関勉 (コメットハンター)
北海道 美幌町/円舘金 (星ドロボウ)
http://masaokato.jp/info/astronomer

北海道美幌峠(屈斜路湖)の、クッシーにまつわる話。Kusshii  クッシー   Nessie  ネッシー  

クッシーの話題が私どもの耳に入ったのは昭和47年の7月末頃だったのです。
北見市立北中学校の遠足で藻琴山(標高1,000メートル)から屈斜路湖を眺めていた生徒が、湖上を波を切って走るかなり大きな物体を発見して大騒ぎになったんです。新聞は各社がペンを揃えて怪獣発見の見出しも大きく報道しましたし、テレビもショッキングな話題として取り上げ、ある局はその後1ヶ月間も湖畔にカメラを据えつけて取材にあたったほどです。誰がつけたのかその怪獣をクッシーと呼んで近郷近在どころではなく全国的な話題として、噂の輪が拡がっていったんです。

でも私はこの話を聞いてそのまま素直に受入れることはできませんでした。然し全く否定する根拠も持ち合わせておりません。ともあれ現地へ行って聞いてみよう、あわよくばこの目で見たいものだと、湖畔へ出かけたのです。周囲57キロ、推進130メートルの屈斜路湖はほとんど原始の山や森にかこまれて南側にだけ農村がひらけ人家もまばらです。

 「今までもこんなことがあったのですか」と、この湖畔に生れ、親の拓いた土地で酪農をやっている方にきいてみました。「ええ毎年何回も怪獣は現れていたんですよ」

「なぜ今までこの話が広がらなかったんでしょう」…湖畔で一番お年寄りのおばあさんにきいてみました。そのおばあさんの両親は明治の終り頃開拓者として屈斜路コタンの近くに住んだそうです。初めての土地で生活するので頼りにするのはコタンのアイヌの人達で、魚の獲り方や、熊から身を守る方法など何でも親切に教えてくれたそうです。そして「この湖水には大昔からとても大きい恐ろしい形のヌシがいるんだ。もし見ても黙っている人にはかかってこないから騒いではだめだよ。そのことを人におしゃべりしてもならない。きっと異変が起きるのだから」と強く戒ましめられたそうです。このように見ても見ぬふり、聞いても聞かぬふりでその戒めを守っていたということです。それでも時々地震が起こってその度に、「誰かが禁を破ったのではないか、障らぬ神にたたりなしだぞ」と人々の口は更に固く閉ざされたと語って「それにしても今度の騒ぎはあまりにも大きく何事もなければね」と顔をくもらせました。

私はこのあたりが地震の多いことはかねてから知っておりました。隣町の美幌に住んで、その度にそば枕をくっていたからです。地震の原因はこのあたりの地底を千島火山脈が走っているので温泉も多く火山性の地震に揺られることも又やむを得ないと思っていたのですが、クッシーは長い間濡れぎぬをかけられていたことがわかりました。「おばあちゃん、クッシーは決して人に迷惑をかけるようなヌシではないんだよ。地震はこんなわけでこれからも時々はあるかも知れんけどそれはクッシーには関係ないんだよ。そしてクッシーは湖畔の人々にかわいがられて、いつまでも長生きしたいと一生懸命生きているんだよ」とクッシーに体する誤解を解くことに努めたんです。

私はその頃スコットランドのネス湖にすむというネッシーに関するものなら新聞、週刊誌、単行本、と何でも読んでいました。そしてネッシーに関する記録と、屈斜路湖畔できいたいろいろの人の証言とがあまりに似ていることが多いのにびっくりしました。ネッシーに関するものは1400年くらい前から残されていました。お伽ばなしの域を出ないような証言ですが様々な話が残されています。クッシーについても何か残されていないのだろうか、もしあるとすればユーカラの中にでもと思い図書館へ行きました。文字を持たなかったアイヌ民族はユーカラを唯一の伝承の方法としていたそうです。浄瑠璃や浪花節のように物語を節を付けて歌い伝えたのがユーカラだそうです。

私が読んでもわかるように解説されたぶ厚い本がありました。日高、十勝、釧路、北見など各地に伝わる話が解説されておりますが、カワウソやキツネ、クマ、フクロウ、キツツキ等にまつわるものが多くクッシーに関すると思われるものは遂に発見できませんでした。ガッカリして隣の本棚を見ると「久摺日誌」と書かれた脊表紙が見つかりました。幕臣松浦武四郎さんが北海道各地の見聞録を書いたものです。松前、石狩、十勝等につづいて釧路を起点としての見聞録が久摺日誌になっていたのです。

1850年頃です。湖畔の屈斜路コタンを足場に物知りのアイヌ人を道案内にして数日間、この附近の地理、気候、住民の生活、風俗など細かな調査の結果が記述されていました。数日間、幕府のお役人松浦のダンナ様と行を共にしたことですからもしアイヌ人が「この湖にはこのような奇怪なことがあります」と、コッソリとでも打ち明けていたなら松浦さんはきっと書きとめられたにちがいないと、丹念に読んだんですがそれらしいことは全く書かれておりませんでした。やはり湖畔の人々はクッシーのことはタブーとしていたのだと、改めて思い直したことでした。

その後も私は、何度も湖畔を訪ねては、いろいろの人に会いクッシーに関する話を聞きました。私がクッシーの資料をあつめているということがわかって、何人かの人からは写真まで戴くことができました。水面に首でしょうか脊中でしょうかその一部を現して相当のスピードを思わせる長い航跡を残して遊泳しているのがハッキリ写し出されています。何分にも3キロ、5キロの距離で咄嗟に望遠レンズも充分でないままに、シャッターを押しているのですから不鮮明はやむを得ませんが、貴重な資料として大切にしております。

その後湖畔のアマ写真家たちは我もわれもと、制度のいい望遠レンズを用意して手具脛を引いておられるということですし、観光客の中にも望遠レンズを持った方が多くなったそうです。

こうして屈斜路湖での調査と並行して、私は附近の湖水についても一度調べてみました。すぐ近くに摩周湖や阿寒湖、網走湖やサロマ湖などたくさんありますが、これらの湖に屈斜路湖のクッシーの遊泳のような現象が起きるのだろうか。もし似たようなことでもあればと調査をしたのです。然し他の湖にはそんなことは全然ないということがわかりました。

こうしたことを踏まえて「クッシー物語」を作ったのです。クッシーはこの美しい屈斜路湖を生涯安住の棲家として、湖畔の人々に愛されながら、いつまでも生きつづけたい、そして遥かなネス湖のネッシーとの便りを交し合いたいという願いだけは誤り伝えられたくないと私もまた願っております。 美幌町 前川市治郎 

(2007年 秋 美幌町 加藤雅夫)
前川
市治郎さん(ビホロホテル経営) 1907明治40年1月15日生れ、
1999平成11年1月22日死去。今年は生誕100年です。(美幌は開基120年)
前川さんは、美幌を訪れる観光客の皆様に北国の美しい自然を守り育てることの大切さ、心のふれあいの大切さを願ってクッシーとネッシー物語(冊子)を作られました。この度、前川さんの心からの願いを受け継ごうと、サイトにクッシー物語を掲載しました。そして前川夫人(85才)に承諾いただこうとしたら、すでに病気のため亡くなられていました(7月19日)。昨年初夏に訪問した時はとても元気だったのに…残念です。札幌の前川さん(長男)に事情をお話しました。そして快諾されました。本当にありがとうございます。

 

美幌のクッシーおじさん~前川さんとの思い出 
美幌音楽人 加藤雅夫

前川さんはとても静かにお話しをされる方ですが、すぐに温かい心が私を包んでしまいました。心に熱い並々ならない人を愛し、自然を愛し、平和を深く育てようとするものがあるからでしょう。それは美幌町の町風そのもののでもあるかのように一体感で迫ってきて強い印象を心に宿してくれました。クッシーとネッシーの姉妹愛「私のクッシー物語」も、前川さんの理想をすべて出し切って実現したに違いありません。これ以上の本物の物語はないと思います。

23年前の事です、前川さんは「クッシーとネッシーの歌詞を英語に直訳してみました、ちょっと聴いて見てください、だいじょうぶでしょうか?」と言って歌ってくれました。私は『だいじょうぶです!前川さんの心がちゃんと伝わりましたよ。自信もって大きな声で歌ってください』。
ネッシーの棲むネス湖(スコットランドのインバネス市)の事をもっと知りたい一心で、前川さんは努力を重ねて英語の勉強に励んでいたのです。
ある時、米国オハイオ州からやって来た留学生ジェニファー(18)を前川さん宅に連れて行きました。前川さんは英語で歓迎の挨拶をし、五大湖(スペリオル、ミシガン、ヒューロン、エリー、オンタリ)の名を言い、そしてクッシーとネッシーの歌を、大きな声で歌ったのです「ロ~ング ロング ア ゴー ロ~ング ア ゴー」と。
留学生ジェニファーの大きな目には涙が溢れていました…。

今頃、あのジェニファーは、オハイオ州の美しい川のほとり、栃ノ木に囲まれた家の中で母親として子供たちに、クッシーとネッシー物語を語り聞かせ、そして歌っていることでしょう。「long long ago long ago」と…。

次回につづく

こちらで、前川さんの肉声朗読が聴くことができます→ クッシーとネッシーの姉妹愛「私のクッシー物語」 http://masaokato.jp/2011/01/15/011505

☆ 美幌音楽人加藤雅夫のお勧めウェブサイトです 2008.4.8 
北海道  美幌峠  屈斜路湖  摩周湖   阿寒国立公園
オホーツク  知床(世界遺産)   女満別空港 オホーツク地方
East Hokkaido 東北海道 Mr.Gon Website
小惑星の名前は北海道 美幌町の円舘金 Kin Emdate (小惑星ハンター)
        
屈斜路湖物語・丸木舟 Music designer, atuy (Guitarist)
MOSHIRI  LIVE    アイヌ詞曲舞踊団モシリ 心の糧に・リンク集 No.66

宿・花ふらり オーナー 藤原多美(宝塚歌劇団花組・沙加美怜)
花ふらりミニミニコンサートについて LakeMashu(摩周湖)楽友協会

屈斜路原野ユースゲストハウス  主人 山本和之
(食べるエコロジー)鹿料理ランチレストラン屈斜路原野
☆ 山本和之さんからのメールを紹介します 2008.4.8
初めまして、美幌音楽人さん、この度は激励の言葉をいただきありがとうございます。とても嬉しく思いながら貴サイトを拝見させていただき、クッシーにもいろんな挿話があるんだと興味深く読ませていただきました。
鹿料理については、単なるレストランではなく、食べるエコロジーという考え方で運営しております。繁殖しすぎたエゾ鹿の被害はとどまるらず、私達は駆除という形でその害を防ごうとしております。
北海道庁(自然環境課)はこのエゾ鹿をただ駆除するだけはなく なんとか有効利用して人と鹿が良い形で共存できないかと模索しております。その活動に私として何かお手伝い出来ないものかと始めたのが鹿料理のレストランでした。
こちらへお越しいただく機会がございましたら是非立ち寄り下さい。季節の変わり目、風邪など召されぬようご自愛下さい。 益々のご発展お祈りしております。
屈斜路原野ユースゲストハウス  山本和之・マネージャー
url:http://www.gogogenya.com(携帯電話からもアクセス可)TEL/FAX:015-484-2609
〒088-3341北海道川上郡弟子屈町字屈斜路原野443-1
Kussyarogenya Youth Guest House (Hokkaido,Japan)
Parents: Kazuyuki Yamamoto (Mr.), Yumiko Yamamoto (Mrs.) 

☆ かずさん(屈斜路原野ユースゲストハウスだよ~ん!)
昔、サハリン・ポロナイスクで、トナカイ(カリブー)ステーキを食べました。野性味いっぱいで大変うまかった。また食べたいと思っています。エゾ鹿肉も、とても美味しいですね。トナカイの呼称は、アイヌ語ですよ。こんど、サハリン(樺太)ポロナイスク(敷香)トナカイ料理をどうぞ!そして、北方少数民族アンサンブル「メングーメ・イルガ(銀の文様)」と仲良くして来てください。ネス湖のネッシー(スコットランド・インバネス)にも会って見る?
美幌のクッシーおじさん~美幌音楽人 加藤雅夫 Guitarist, Masao Kato

☆ 食品安全について、お知らせ 
生シカ肉を介するE型肝炎ウイルス食中毒事例について
報道発表資料(2003年8月) 厚生労働省HP 
鹿肉を刺身で食べるとE型肝炎に感染するケースがあることが最近、確認されました。手当てが遅れると命に関わる危険性もあります。厚生労働省は、シカ肉の生食は避けるよう呼びかけています。また同省によると、E型肝炎ウィルスは63度・30分以上の加熱によって死滅します。くんせい料理の際もミートサーモ(温度計)を利用してこの温度を確保するなど、細心の注意を払われることをお勧めします。
☆ 社団法人エゾシカ協会HP (北海道札幌市)

☆ レラ・East Wind へようこそ
屈斜路湖畔のペンション クッシャレラ    
風の館 Information Kussha-rera
ペンションクッシャレラは、水と空気がおいしい、阿寒国立公園の屈斜路湖畔に2004年4月にオープンした、オーナーの夢がぎっしり 詰まった3室だけのプライベート感覚のペンションです。屈斜路湖とアイヌ語の風を意味する「レラ」からネーミングしました。そん なわけで、「風の舘」と呼んでください。 
風の展示室 Gallery Kussha-rera  風のたより Photo Letters Kussha-rera 
風の広場 BBS Kussha-rera       アクセス Access Map Kussha-rera
Information of KAZE no YAKATA Kussha-rera.com
"Kussha-rera" is located at the lakeside of Lake Kussharoko in
Akan national forest full of clean water and fresh air. 
Designed and planed heartily with the owner’s dream,
it opened in April 2004 as a resort inn,
and now offers only three guest rooms like a private cottage does.
The inn is named with mixing idea of "Kussha" from Lake Kussharo and
"
Rera" from Aynu language meaning "breeze".
Please call this inn
"kaze no yakata or Inn of Breeze".
*
"Aynu" is the native people who once inhabited Hokkaido.

 

北海道の道北・道東地方(オホーツク)の観光ポイントとアウトドアー、
釣りや渓流と滝巡りのガイドもあります

* 道北の釣りと旅 http://www.kitakaido.com/index.html
  北の大地北海道 ゆっくり走ろう北海道 新しい何かを発見できるかもね
* 道北の釣りと旅・別館 http://hiro239.fc2web.com/ 
* フォトギャラリー・道北の釣りと旅 http://www.kitakaido.com/album/tabi_10.html

 

北海道遺産 神秘の湖 『摩周湖』 弟子屈町(てしかがちょう) Teshikaga, Hokkaido 
* 摩周湖のライブカメラ http://www.masyuko.or.jp/livecam.html 
  摩周湖第一展望台 屈斜路ウォータースポーツ交流公園 アイヌ・コタン 
* 摩周湖のホームページ http://www.masyuko.or.jp/
* Lake Mashu Lake Kussharo Hokkaido, Japan
*  Guide MapLake Mashu Lake Kussharo http://www.masyuko.or.jp/english.html
♪ Akira FuseKirino Mashuko 霧の摩周湖
♪ 布施明(ふせ あきら)「霧の摩周湖」晴天!摩周湖ブルー(マシューブルー)と、
  オホーツクの海と空(オホーツクブルー)が見事です。
     霧の摩周湖おじさん(布施明)と、クッシーおじさん(美幌音楽人 加藤雅夫)は、 
     同年生れの誼みがあります。健康留意、がんばれ。
* ブログ/未来の風 http://blogs.yahoo.co.jp/xmanxjp77  
YouTube – 懐メロ「霧の摩周湖」 
* xmanx77 

北海道ライブカメラ H
* 北海道現風景 北海道各地のライブカメラ画像・映像
自己満足 北海道 http://jiko-hokkai.hp.infoseek.co.jp/index.html
* 北海道ライブカメラマップ/北海道内の地図表示ライブカメラ集 
北海道航空ホームページ http://www.hokkaido-koku.co.jp/index.htm
* 北海道 まるごとウォッチング 
NTT Information LIVE http://www.ilive.hokkaido.isp.ntt-east.co.jp/search.html 
* ライブカム ジャパン 北海道
LiveCam JAPAN http://orange.zero.jp/zad23743.oak/livecam
/  

屈斜路湖まつり「カムイイピリマ」開催のお知らせ 
第1回屈斜路湖まつり「カムイイピリマ~神々の耳打ち~」が2008年10月15日から11月24日まで屈斜路湖プリンスホテルガーデンの屈斜路湖畔特設野外ステージでロングラン開催されます。ステージは毎日午後8時から約40分間。
アイヌ詞曲舞踊団モシリMOSHIRI代表 シノッチャキ房恵) が北海道の先住民族・アイヌ民族の伝統的な精神と唄や踊りを神秘的に披露します。
チケットは1000円。
問合せは:屈斜路湖まつりカムイイピリマ実行委員会(015-482-2200)または、屈斜路湖プリンスホテル(015-484-2111)まで。
Kamui (カムイ) ★ 美幌音楽人 加藤雅夫のコンサート情報 


2008年9月14日、中秋の名月を愛でつつ…どこで何想い、何食べてるのかな? 
経済 株式 食欲の秋より、芸術の秋ですよ!!  渡辺タカコさん。
* 渡辺タカコのPhotoblog http://takakowatanabe.cocolog-nifty.com/photoblog/
* 経済・株式キャスター渡辺タカコのBlog日記 http://takakowatanabe.cocolog-nifty.com/blog/
* 渡辺タカコのHP http://homepage3.nifty.com/takakowatanabe/ 
* 渡辺タカコさんからの祝メール(2008年5月8日)~北海道美幌町出身・佃咲江選手(北京オリンピック日本代表選出)について~加藤雅夫のあゆみ 2008

 

網走支庁あばしりしちょう) Abashiri Subprefecture, Hokkaido 
北海道 網走支庁のホームページ 
オホーツク地域のまち~北海道網走支庁管内
* 北見市きたみ) Kitami, Hokkaido  
北見菊まつりは、全道唯一菊人形展を開催し、菊花展、フラワーロード等、全道一の伝統と規模を誇るまつりです。北見市の歌・校歌
* 網走市あばしり) Abashiri, Hokkaido  
冬のダイナミックな流氷、夏のアウトドア、山海の幸、温泉、感動的風景など多彩な魅力が網走にあります。
* 紋別市もんべつ) Monbetsu, Hokkaido 
紋別市は、都市像を「流氷を開発し心豊かで活力あるオホーツク圏の中核都市」と定め、「流氷研究国際都市構想」のもとに街づくりを進めています。
* 大空町おおぞら) Ozora, Hokkaido  
大空町は、芝桜が有名な町です。5月中旬から6月上旬にかけて、芝桜公園はピンク色のじゅうたんで覆われます。麦の収穫後に植えられるひまわりは、ビートの緑と相まってパッチワーク模様で見る人の心を和ませます。女満別空港。
* 美幌町びほろ) Bihoro, Hokkaido 
美幌町は「長生きを楽しめる町」をコンセプトに、健康で安心・安全なまちづくりを進めています。美幌町叢書・
びほろの唄(うた)100曲。武満徹(たけみつ とおる)作曲・美幌町町歌。團伊玖磨(だん いくま)作曲・美幌農業高等学校校歌。美幌町は「うたのまち」です。歌の町・美幌町
* 津別町つべつ) Tsubetsu, Hokkaido 
津別峠展望台標高947m-からの眺望は道東一とも言われ、週末やシーズンには多く観光客でにぎわいます。
* 斜里町しゃり) Shari, Hokkaido 
「みどりと人間の調和を求めて」長い間、自然を守り育む活動を続け、知床(しれとこ) Shiretoko は世界自然遺産として正式決定、リストに登録されました(2005年7月17日)。
* 清里町きよさと) Kiyosato, Hokkaido 
日本百名山の斜里岳を中心とした大自然に抱かれる清里町は、平成15年花のまちづくり日本一に選ばれました。
* 小清水町こしみず) Koshimizu, Hokkaido 
世界中のゆり100万本が13ヘクタールの敷地一面に咲き乱れる、ゆりの郷こしみず「リリーパーク」。7月下旬から見ごろです。
* 訓子府町くんねっぷ) Kunneppu, Hokkaido 
北海道農業の縮図と称されるまでに様々な農業を展開。農業関連研究施設も集積し、農業資源には事欠かない。
* 置戸町おけと) Oketo, Hokkaido 
14コースを誇る自然の変化に富んだ本格的な「おけとパークゴルフ場」158mの超ロングコースは圧巻。
* 佐呂間町さろま) Saroma, Hokkaido 
雄大なサロマ湖と緑豊かな大地。そこで育ったおいしい味覚。サロマは海と大地の恵みであふれています。
* 遠軽町えんがる) Engaru, Hokkaido 
太陽の丘えんがる公園虹のひろばでは、10ヘクタールもの広大な土地を1,000万本のコスモスが色とりどりに覆います。北海道遺産の「森林鉄道蒸気機関車雨宮21号」、世界の木のおもちゃを集めた「ちゃちゃワールド」など見どころがいっぱいです。
* 上湧別町かみゆうべつ) Kamiyubetsu, Hokkaido 
屯田兵(とんでんへい)が開拓したまち上湧別。チューリップ公園は全国的に有名で、網走管内有数の観光地となっています。*
* 湧別町ゆうべつ) Yubetsu, Hokkaido 
流氷の海オホーツクとホタテの故郷サロマ湖に挟まれた砂州「龍宮台」は四季を通じ大パノラマが楽しめます。
* 滝上町たきのうえ) Takinoue, Hokkaido 
5月上旬から6月上旬にかけて滝上公園一帯に芝ざくらが咲き誇り、10万㎡の大群落を見ることができます。
* 興部町おこっぺ) Okoppe, Hokkaido 
酪農の丘にある「モーモー城」など、生活の場が美しい風景の一端であることを証明する純酪農地帯です。
* 西興部村にしおこっぺ) Nishiokoppe, Hokkaido 
豊かな緑に映えるオレンジの建築物が建ち並ぶ西興部。4大夢施設「森夢リム」「木夢コム」「IT夢アトム」「花夢カム」へ是非お越し下さい。
* 雄武町おうむ) Omu, Hokkaido 
雄武町は、網走管内最北端に位置する漁業と酪農の町で、海浜公園、キャンプ場、温泉(ホテル日の出岬)のある「日の出岬」は、四季を通じ雄大なオホーツクの大自然が満喫できる観光スポットとなっています。
* 北海道網走支庁管内(3市15町1村)、オホーツク地域のまち。 

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町歌と校歌

美幌町の町歌と校歌について(1)

現代音楽の世界的な作曲家・武満徹(たけみつとおる)さんが
美幌町町歌」を作曲したのは 1953(昭和28年) 22歳です。

当時を知るピアニスト園田高弘さんは「多くの人々が戦後の
困窮時代に懸命に生き抜く事に精一杯の努力をしていた当時
武満徹さんも赤貧洗うが如き生活状態で 作品を書いていたよう
です」と語る。
(園田高弘さんは武満徹さんの最初のピアノ作品「遮られない休息」を初演)

そんな中で武満徹さんが東京で病に苦しんでいた時「空気の良い鎌倉で
療養しないか」と自宅を提供したのが團伊玖磨(だんいくま)さん。

その後、武満徹さんは「弦楽のためのレクイエム」そして琵琶と尺八を用いた
小澤征爾指揮ニューヨーク・フィル委嘱作品「ノベェンバー・ステップス」や
「系図ー若い人のための音楽詩」など代表作を多数発表し映画音楽でも
大きな足跡を残し「太平洋ひとりぼっち」「はなれ瞽女おりん」「乱」「写楽」
など日本映画のほかハリウッド映画「ライジング・サン」なども手がけた。
ギターの作品も多く、「森の中で」とフルートの「エアー」は遺作となった。
日本芸術院賞、フランス芸術文化勲章、グレン・グールド賞など世界各国
から賞を受けている。

武満徹さんの逝去(1998.2.20)を知った私は、
誰もが知らない 武満徹の遺したもの「美幌町町歌」を
皆さん(黛敏郎、園田高弘、谷川俊太郎、湯浅譲二、大江健三郎、
横山勝也、小澤征爾、立花隆、文仁様、荘村清志など)に伝えた。
皆さんは、「へえ!あの武満徹さんが 22才の時に…」と絶句。
美幌町出身で文化人類学の山口昌男さんも「不思議なご縁に驚いた
一昨日、東京の追悼コンサートで浅香夫人と長女の眞樹さんに会った
ばかりだ…」と。
私も 札幌の追悼コンサート(岩城宏之指揮・札幌交響楽団)に行った。
武満浅香夫人(元・劇団四季女優)と武満眞樹さん(洋画翻訳家)は
「町長と皆様から弔電をいただきました ありがとうございます」。
私は 「美幌町をご案内すること叶いませんでした…残念です」。
浅香夫人は「町歌作曲の経緯は早坂文雄先生からの依頼だった ようです」。

町や町民は 一度でも武満徹さんを地元に招待すべきだった。

没後10年この間、国内外の武満徹ファンが美幌町を訪れて
役場のオルゴールを聴いて 小川のほとり野山を散策して
また ある時はギターで「武満徹」を語り、心に何かをのこして 
静かに帰って行く。…

 

音は私をつらぬいて 世界に輪のように つづいている   武満徹 
 
“Sounds thread their way through me, and then out into the world,
in uninterrupted loops.” Toru Takemitsu 

 

昭和28年 「美幌町町歌」 開基66年 町制30年記念制定
作詞:大下孝一(美幌郵便局 郵便配達人)39才 
作曲:武満徹(たけみつとおる)22才
歌:    松田トシ歌のおばさん
        三鷹 淳 (昭和42年 レコード化)

 

藁科雅美 Masami Warashina
    わらしなまさみ
    (音楽評論家。大正4年1月15日生れ。 慶應大学医学部中退。
    昭和26年から毎日放送の音楽ディレクターとして活躍。
    著書「レコード音楽大事典」 。訳書「バーンスタイン物語」等。
    日本ショパン協会理事。日本チェコスロヴァキア協会顧問。
    第1回美幌町文化賞受賞。平成5年1月3日逝去。)
    藁科一家の疎開先は美幌町(昭和20〜26年)。
    美幌町は鎌倉に移住した藁科さんを介して権威者に町歌作曲を
    依頼した。 

早坂文雄 Fumio Hayasaka
    (作曲家 昭和30年逝去 41才 映画音楽〜酔いどれ天使
    羅生門、白痴 生きる、七人の侍 など) 鎌倉在住。
    病状悪化のため 武満徹に美幌町歌を そして 湯浅譲二に
    美幌病院歌または看護学校歌を依頼した。 

湯浅譲二 Joji Yuasa
    作曲家。昭和4年生れ。慶甕大学医学部中退。昭和26年に
    武満徹、園田高弘、瀧口修造らと実験工房を結成。
    「二つのパストラー」でデビュー。
    日大芸術研究所教授、カリフォルニア大学サンディエゴ校
    名誉教授、国立音大コンピューター音楽センターと東京音大
    の客員教授。
    世界的に知られる現代音楽の作品は ホワイト・ノイズによる
    イコン ヴォイセス・カミング、芭蕉の句による情景、透視図法、
    世阿弥・九位。
    著書は 「音のコスモロジーへ」 「現代音楽ときのとき」。
    健在活躍中。

    湯浅譲二、若き日を語る Joji Yuasa, on TV(Takemitsu)
    

 ♪ 美幌病院歌または看護学校歌をご存知の方はご連絡ください

武満徹   Toru Takemitsu    團伊玖磨  早崎日出太「團伊玖磨全仕事」

美幌町の町歌と校歌について(2)

日本を代表する世界的な作曲家・團伊玖磨(だんいくま)さんが
北海道美幌農業高等学校校歌」を作曲したのは
1952(昭和27年) 28才です。

ある時 東京の会合で團伊玖磨さんと同席
私は 「こんにちは 美幌町から来ました」
團さん 「おお!僕が作曲した北海道の美幌農林学校だ」
私は 「昭和41年卒業、畜産科、吹奏楽部です。校歌に
大変お世話になりました。ありがとうございます。
今は美幌農業高校です。
美幌町町歌の作曲は武満徹さんです。
昭和28年 22才でした」。

團伊玖磨さんは 「へえ!あの武満徹くんが…その頃、武満夫妻は
東京で病に苦しんでいたんだ。だから二人に空気の良い
鎌倉で療養しないかと、僕の家を提供したんだよ やあ!
不思議なご縁だ。一度、美幌町を訪れて見たいものだなあ」。

私は 「音楽評論家 藁科雅美さんの疎開先は美幌町でした。
町民の文化向上に貢献されました」
團伊玖磨さんは 「う〜ん 君の話には本当に驚いた。藁科先生の
ご自宅は鎌倉の僕の家の近所だったんだよ」。

私は 「藁科雅美夫妻は美幌高校の講師でした」
團さんは 「そうだ!校歌作曲は藁科雅美先生からの依頼だった」
私は 「團伊玖磨先生!美幌町に来てくださいね」。

会合は中国文化大臣来日歓迎晩餐会(平成5年)
同席の皆さんは 愛新覚羅白雪  アグネス・チャン
栗原小巻  吉永小百合です…
團伊玖磨さんは山口淑子(李香蘭)女史を紹介してくれました
私の娘(13)が南京で『夜来香 イェライシャン』を中国語で歌い
熱烈歓迎を受けた話に
山口淑子さんは 「まあ!そんな時代になったのね…」と
『夜来香』の歌唱指導を約束してくれました (やったね♪本物です)。

團伊玖磨さんは日本中国文化交流協会会長(前会長は
井上靖さん 役員は東山魁夷千田是也司馬遼太郎
杉村春子などの皆さん)
美幌のギター教師は入会ダメ?
團さんの一声でOKです
北海道会員は三浦綾子さん・坂野上明さん(道新顧問)数名です。

團伊玖磨さんは日中文化交流協会創立の初期から尽力され
訪中歴は 前進座公演(1966)日中国交正常化祝賀(1972)
第1回日本音楽家代表団は中村八大・小泉文夫・松村禎三・
武満徹など(1976) 以後 芥川也寸志・園田高弘・中村紘子・
千住真理子・鮫島有美子・佐藤しのぶ・三善晃・池辺晋一郎・
ダークダックスなど多数が参加
オペラ「夕鶴」公演(1977)など50数回にのぼり 故・周恩来総理
江沢民主席はじめ党と国家の指導者とたびたび会見し各界の
親友も多かった。

ある時 私は團伊玖磨さんに話した
「中国の古都・蘇州を訪問したとき
静寂な寒山寺の辺り 小運河を渡るゴンドラ(小舟)
そして太湖に浮かぶジャンク(帆船)から
琵琶のトレモロと美しい歌声が流れて来ました
その昔 イタリアのマルコポーロさんが 水の都・蘇州を
東洋のベニスと言った気持ちがわかりました…マンドリン
カンツォーネを思い出したのでしょう」。
團伊玖磨さんは 「アハハハ!そうかも知れないね…
蘇州は日本の古都・京都にも似ているんだ
柔らかい方言も 舞妓芸妓の楽音も そして歴史的にもね
その昔 遣隋使遣唐使はロマンの花を沢山咲かせた事だろう」。
私は 「持病の発作が起きても蘇州なら静かに眠れると思いました
不思議です」。
團伊玖磨さんは 「僕もそう思ったよ…不思議だね」。

 

北海道岩内町立岩内西小学校校歌、團伊玖磨作曲、荻原井泉水作詞、昭和26年(1951年)10月10日制定(開校50周年記念)。岩内西小学校校歌は北海道唯一の團伊玖磨作曲の小学校校歌です。(團伊玖磨作曲の美幌農業高校校歌も、北海道唯一の高等学校校歌です)

富山県富山市立五福小学校校歌團伊玖磨作曲、荻原井泉水作詞、昭和30年(1955年)12月制定。富山市立五福小学校の校歌には、他の学校にはあまり見られない大きな特徴があります。それは、歌詞は4番までありますが、1~2番のメロディーと3~4番のメロディーが違うところです。この素晴らしい校歌を今も児童は朝の会や式の時などに誇りをもって歌っています。富山市立五福小学校ホームページ

日本を代表するクラッシック音楽の作曲家であり、エッセイストでもあった團伊玖磨(だん いくま)と、日本の俳人・荻原井泉水(おぎわら せいせんすい)の共通接点は、日本芸術院会員であり、鎌倉在住だった。
Haiku : Ogiwara Seisensui


武満徹
   團伊玖磨   早崎日出太「團伊玖磨全仕事」

北京日本人学校の校歌」作曲:團伊玖磨 作詞:井上ひさし  
上海日本人学校の校歌」作詞:團伊玖磨 作詞:陳舜臣  

美幌町の町歌と校歌について(3)

  武満徹   團伊玖磨   早崎日出太「團伊玖磨全仕事」

小惑星 17509 Ikumadan (作曲家 團伊玖磨) 2001.5.17 命名 関勉さん

團伊玖磨さんは 2001平成13年5月17日 訪問先の中国江蘇省
蘇州市(第2人民病院)で心不全のため急逝した 77才。

前年の春 最愛の團和子夫人(上海生れのピアニスト)を亡くされてから
1年1ヵ月11日と言う日でした。
すべての事を成し遂げられた團伊玖磨さんを團和子夫人は
蘇州の隣の故郷からお迎えに来られたのでしょう。
今 お2人は空を飛んで十万億土への旅を続けられているのだと
思います。

 團夫妻の星雲?

 

團伊玖磨さんは中国に愛着を持ち長年にわたり中国の友好と文化交流の
発展に貢献した事により中国から「中日友好使者」「人民友好使者」
「文化交流貢献奨」を授与されている。

5月31日 北京で日中文化交流協会創立45周年と
国立中国交響楽団創立45周年記念「團伊久磨作品音楽会」は
追悼の意味を込めて予定通りに開催された。
弦楽合奏曲「二泉映月
オペラ「夕鶴」より わたしの大事な与ひょう さようなら
オペラ「楊貴妃」より 待つことはうれしいこと
管弦楽組曲「シルクロード」
管弦楽幻想曲「飛天繚乱」
交響幻想曲「万里長城」が演奏された。

オペラ「夕鶴」は日本初の本格的オペラとして世界を舞台に
650回も上演され絶賛されています。
こういう「国民的オペラ」をもっていることは日本人にとって
実に幸せなことです。

團伊玖磨さん(作曲家 文化功労者 日本芸術院会員)は
1924 大正13年4月7日 東京生れ 昭和20年に東京音楽学校
(現芸大)作曲科卒業 花の街 ぞうさんなど作曲。
昭和27年に美幌高校校歌(現美幌農業高校) NHK第2体操。
昭和28年に歌劇「夕鶴」で毎日音楽賞・伊庭歌劇賞・山田耕筰賞
戦後の山田耕筰と称される。
音楽家としての活躍のほか類い稀なエッセイストとしても知られ
多くの著作があり 随筆「パイプのけむり」は27巻 読売文化賞受賞。

楊晶・李建華 翻訳:中国版「煙斗随筆(パイプのけむり)」が世界一
美しい本になりました。

 私は この「町歌と校歌」を團伊玖磨さんに書いてほしいと願っていた
あの人は パイプのけむりとともに消えた…。

6月4日 美幌農業高校で「團伊玖磨氏追悼集会」開催
校歌誕生と逝去について校長のお話し 黙祷 校歌斉唱
なつかしの校歌です 團伊玖磨(28才の青年)がのこした
清らかな広い心のメロディーが校舎中に響きわたった…。

6月31日 葬儀・告別式
美幌農業高校全校集会のVTR(村上博さん撮影)と
校歌楽譜、美幌新聞と北海道新聞の記事を
ご遺族に送呈した。

弔意
世代(心)を受け継ぎ
時代(平和)をつくる

 

旧校舎(昭和40年)

 

美幌高校吹奏楽部 昭和38~41年当時の美高文化祭
現在は北海道美幌農業高等学校

美幌町の町歌と校歌について(4)

  武満徹   團伊玖磨   早崎日出太「團伊玖磨全仕事」

1887 明治20年
    美幌町元町に「美幌外五ヵ村戸長役場」設置
    美幌のはじまり(10月12日)

1907 明治40 年
美幌町市街地の青年たち(モダンボーイ)が大太鼓・小太鼓・
横笛・手風琴などを集めて楽団をつくる
美幌吹奏楽団公式サイト Bihoro wind orchestra
北見地区吹奏楽連盟 Okhotsk area,Kitmi Band Association

左2番目 小泉美政さん(草競馬の騎手)我が同級生の祖父

1915 大正4年
    二級村制度を施行
    美幌村となる
    昇格祝いに旗行列の歌を募集
    『開基三十年の歌』とした(作詞作曲者は不明)

1916 大正5年
    美幌町の市街地に電話開通

1917 大正6年
    美幌町の市街地に電気開通

1919 大正8年
    津別村を分村

1920 大正9年
    第一回国勢調査
    『ちょうちん行列の歌』(収集できていない)
    美英尋常小学校開校(7月1日)
    当時の美幌尋常高等小学校の第二小学校として創設した
    昭和16年に美英国民学校と改称した
    美幌中学校の前進校である
    『美英尋常小学校応援歌』

大正9年当時の美幌雅楽アンサンブル

1923 大正12年
    美幌町となる
    『一級町村制定を祝う歌』

1925 大正14年
    美幌町でラジオ聞こえる

1936 昭和11年
    美幌小学校にピアノ寄贈

1937 昭和12年
    開基五十年記念歌『美幌町町歌』
    大塚郷湖作詞 須藤五郎作曲 塩まさる唄
    録音テープあり
    『美幌小唄』
    大塚郷湖作詞 須藤五郎作曲
    『開基五十年祭祝賀歌』
    作詞は公募一位の宇佐美康二
    曲は神風声援歌の節

1939 昭和14年
    『美幌観光音頭』
    大塚郷湖作詞 松田喜一作曲 美ち奴唄
    美幌観光協会の依頼 帝蓄レコード
    当時、昭和12年制作の『美幌小唄 二』として伝わっていたもの
    東陽小学校などの校歌作詞の大塚盈と
    開基六十六年作成『美幌音頭』の入選者 沖悠三郎、
    そして『美幌小唄』の作詞者大塚郷湖は同一人である
    大塚氏は短歌をつくるときは「郷湖」
    たのまれた作詞は「盈(みつる)」
    ペンネームは「沖悠三郎」と使いわけていたらしい
    大塚氏は美幌の歌を数多く作り
    昭和56年5月4日死去する直前の
    『美幌医師会付属准看護学院 学院歌(さみどりの)』が遺作となった
    美幌農林学校開校『美幌農林学校校歌』星勇作詞作曲
    『第一応援歌・第二応援歌』『わが報徳寮』

1944 昭和19年
    筧潤二ピアノ独奏会(美幌小学校講堂)
    東京でも名の知れていた海軍航空隊付属美幌病院医師、
    美幌町で藁科雅美(音楽評論家)と再会する。慶應大学医学部 

1945 昭和20年
    藁科雅美(30歳) みつゑ夫人(ピアニスト) 一男一女が美幌に疎開する
    国立高等音楽学校(現国立音大)出身のみつゑ夫人は
    高等女学校で音楽を指導
    慶應大学医学部中退の藁科は理科など六教科を教えた
    「授業より畑仕事の監督が多く生徒に植物の芽を見て
    種類を教えてもらった
    英語が話せるからと進駐軍の隊長付き通訳として
    即日強制徴用」
    「その当時、個人的に英語を教えた生徒に
    文化人類学者となった山口昌男がいる」
    藁科は東京からSPレコードを貨車に一台持ってきていた
    「どうして知ったのか配属されて来た学徒の
    特攻隊員の何人かが訪ねて来て
    わずかの休憩時間かわるがわるバッハや
    ベートーベンの作品に耳を傾け
    感謝のまなざしを私に向けて帰隊していった」
    「NHK北見放送局から合唱やレコードを放送したり
    レコードコンサートではまだレコード会社が
    復興していない時期だったから自分のSPをかけた
    歓迎されて網走・釧路・旭川・小樽などからも呼ばれた」
    「そのSPは東京に戻るとき網走の奥谷という
    網元の息子に引き取ってもらった」
    「その奥谷が後に東京に出るとき
    自分のコレクションも加えて網走市立図書館に寄贈
    図書館によれば昭和43年の寄贈で全部で
    1113番まで番号が振られているとのことである
    聴く人もなしに眠っているようだ」

1946 昭和21年
    美幌文化協会創立
    音楽部長 藁科雅美(美幌レコード鑑賞会)
    藁科みつゑ(ドンコロ児童合唱団・漣女声合唱団)

美幌町の町歌と校歌について(5)

  武満徹   團伊玖磨   早崎日出太「團伊玖磨全仕事」

1947 昭和22年
    美幌国立療養所開設

1950 昭和25年
    藁科雅美は戦後いち早く「北海道音楽」という
    北海道全土の音楽を結ぶ報道評論誌を創刊した
    (日本近代音楽館・道立図書館に寄託されている)
    内容は荒谷正雄・小林健次・伊福部昭
    早坂文雄などの地方出身の音楽家、
    チェロの鈴木聡・バイオリンの巖本真理
    来道音楽家の写真や演奏会評、
    道内各地の音楽状況報告、新譜紹介、インタビュー、
    作曲募集など多彩な編集である
    『第一回美幌町文化賞』受賞

1951 昭和26年
    藁科雅美と藁科みつゑは戦後
    美幌高校と網走南ヶ丘高校の時間嘱託も勤めたが
    日本の民間放送局で最も早く放送を始めた
    新日本放送(毎日放送)東京支社詰めの
    音楽ディレクターとして同年の秋に離町した
    「私たち家族にとって終生忘れ難い多数の人々の
    心暖かい見送りを受けて美幌の町を後にしたのだが
    その6年間の思い出は絶大である
    美幌の豊かな自然の中で私たちの子供が
    すこやかに育ってくれたことも
    それが戦後の混乱期であっただけに
    ことさら感謝したい気持ちである
    正直言って美幌時代の私は文化の中心地である
    東京が忘れられず、もしもここで死んだら
    遺骨を東京の空からばら散いてほしい
    と妻に頼んだような欲求不満と焦燥感にさいなまれた
    しかし、今の私には冬の寒さが厳しい
    美幌を第二の故郷と思う懐かしさだけが残っている」
    当時藁科氏(36)の住居は鎌倉市
    近所に早坂文雄氏(37)と團伊玖磨氏(27)が居た…
    後に團伊玖磨氏は東京で病に苦しんでいた
    武満夫妻に空気の良い鎌倉で療養しないかと
    自宅を提供して横須賀市に移った

1952 昭和27年
    『北海道美幌農業高等学校校歌』制定
    (当時は北海道美幌高等学校)
    美幌高校から校歌作曲の依頼を受けた藁科氏は
    團伊玖磨氏を紹介

昭和40年の写真
(作詞の美幌高校教諭 川上忠雄氏は前列右から4番目)

1953 昭和28年
    『美幌町町歌』制定
    美幌町から町歌作曲の依頼を受けた藁科氏は
    早坂文雄氏を介して武満徹氏(22)を紹介した
    美幌国立療養所歌または准看護学校歌の作曲を
    湯浅譲二氏(23)を紹介した
    開基六十六年(町制施行三十周年記念)町歌募集委員会は
    奥山東陽小学校長の指揮で合唱団によって
    町のテープレコードに吹き込み
    8月25日役場委員室で初の視聴会を開いた
    後に東京からテープレコードが届く
    松田トシ唄(ピアノ伴奏)
    作詞は大下孝一氏(39歳 美幌郵便局
    一般公募で採用された 一等採用分は5,000円)
    その後町歌は昭和42年の開基八十年のときに
    美幌の歌『風はみどりに』を日本コロンビアに発注した折りに
    同時に美幌町歌再版としてオーケストラ伴奏による編曲
    ならびに歌手三鷹淳の歌で作成した
    昭和44年4月から毎日、役場庁舎塔屋のオルゴールから
    町歌のメロディーが流れ町民に親しまれた

 

 

武満徹(65 死去)
1930 昭和5年10月8日〜
1996 平成8年2月20日

團伊玖磨(77 死去)
1924 大正13年4月7日〜
2001 平成13年5月17日

町や町民、学校は一度でも
武満徹さん、團伊玖磨さんを
地元に招待すべきだった…

湯浅譲二
1929 昭和4年8月4日〜
ご健在 活躍中

2004 平成16年1月31日 記
文責 加藤雅夫
1947 昭和22年9月3日〜
健在(低肺低視力)活躍中…

☆ 武満徹への捧げもの Tribute to Toru Takemitsu.
2008.2.20 平成20年2月20日 
武満徹(昭和5年10月8日生~平成8年2月20日没)12周年追悼
Toru Takemitsu (10.8.1930-2.20.1996) Modern composer
12 anniversary of someone’s death.
武満徹・あの人に会いたい・武満眞樹 Toru Takemitsu-Maki Takemitsu
武満徹が残したものは・立花隆 Tribute to Toru Takemitsu 
 
武満徹・ラストTV Toru Takemitsu, the last TV appearance
武満徹・ドキュメンタリー Toru Takemitsu documentary
武満徹・ワルツ・小澤征爾 Toru Takemitsu-Seiji Ozawa
武満徹・夢千代日記・吉永小百合 Toru Taemitsu-Sauri Yoshinaga 
武満徹・島へ・AJChoir Toru Takemitsu-AJChoir-Shima E(To the island)  

武満徹・美幌町ソング Toru Takemitsu-Bihoro Song

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60代 2007〜

2007 平成19年

いよいよ還暦(60歳)です
美幌町は大還暦(120歳)です 

繰返す 人の営み 祈り在り   (美幌音楽人) 

その昔 父と私(小1)は稲荷神社にお参りに行った
(大正初期 曽祖父が商売成功で稲荷神社を建立)
私は見様見真似で拝礼し「勉強ができるように
なりますように 頭がよくなりますように」などと
一生懸命に祈った
父が笑いながら「神さまに自分のことを頼まないで
神さまの前でがんばりますと誓うことが大事だよ」
私は よく納得した そして
「神さまにも祈りがあるのかな」と考えた… 

今 私は 「人は祈る」 こと 少しわかりました

60代 2007〜 の全文を読む

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50代 1997〜

1997 平成9年 50歳

* 美幌町立美幌小学校/北海道美幌町
 台湾台中市から中山国民小学音楽隊(25人)訪問、楽しい演奏交流会開催。
  訪問団長/劉活源(校長) 音楽監督/葉紅旗(笛子)

7.20~26
台中縣中山國小國樂團 25人 日本訪問
劉活源校長(團長) 葉紅旗(音樂監督) 學生 教職員 PTA
北海道友好交流音樂會演出 合作 加藤雅夫(美幌音樂人)
美幌町 美幌小學校 交流音樂會
札幌市 札幌天神山國際賓館 市民交流音樂會
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東京迪斯尼樂園參觀 台北駐日經濟文化代表處訪問 

台中縣中山國小學  台北駐日経済文化代表処(日本語)

 

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